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大化改新の方程式(189) ネズミが語る「孝徳置き去り事件」の顛末

【ここでの課題メモ】
なぜ白雉の遣唐使は2年続けて実施されたか──。2つの遣唐使はもともと白雉4年に同時に出航する予定だったと読み取れることを前提に、これらが唐朝廷に「絶域に大国あり」と認識させることを狙った一大プロジェクトだったという説に至った。とすれば、次に問うべきは、高向玄理の「新羅道ルート」が1年遅れた理由であろう。その回答は、「孝徳置き去り事件」の真相も明らかにするのではないか…。いよいよこの課題の最終回。
白雉4年(653年)のうちに「公卿大夫・百官」が飛鳥に移動することはなかったという前回の議論の続きとしては蛇足になるが、白雉5年(654年)正月にネズミが飛鳥に向かって移動したことをもって、遷都の前兆だったとその年末に述懐するくだりが日本書紀にある。
もしほんとうに「公卿大夫・百官」の大移動が白雉4年のうちに決行されたとすれば、ネズミで占うまでもなかったはずだ。

さて、日本書紀でのネズミといえば、乙巳の変後の大化元年(645年)12月に遷都を宣言したとき、同年の春から夏にかけてネズミが難波に向けて移動したことを老人たちが思い出し、遷都の前兆だったと語り合ったという記事がある。
この「春から夏にかけて」のフレーズが、乙巳の変の前にすでに難波遷都がアジェンダとしてあがっていたことの証左だとする説が有力だ(それが開明的な蘇我入鹿像の根拠でもある)。

この論法でいけば、白雉のネズミについては、白雉4年の年末にかけて難波から飛鳥への移動に関するアジェンダがもちあがり、それが白雉5年の正月にGOサインが出るに至ったとの解釈ができるのではないだろうか。
もちろん、ここで“移動する”のは、「公卿大夫・百官」ではなく、飛鳥での土木工事に供される人夫たちであるが…。

前回までの議論を前提にこの解釈を敷衍すれば、以下のように「孝徳置き去り事件」の顛末を語ることができよう──。

白雉4年6月の僧旻死去によって先鋭化した反新羅・反黒麻呂の動きは、難波”京”建設のための人夫を飛鳥での土木工事に振り向けることを目論んでいる宝皇女には好都合だった。
宝皇女にとっては外交儀礼の場でしかない難波宮が完成したのならば、倭国の遣使を受けた唐からの答礼使を迎え入れるためにも、早々に飛鳥の祭祀都市化に着手すべきとする宝皇女の主張は、当初は孝徳天皇のみならず群臣の支持すら得られなかったにちがいない。
なぜなら、皇極女帝時代の“興事”が蘇我本宗家の全面的なサポートのもと、王族や豪族たちの部民を強制的に動員することで遂行された記憶はなお新しいものだったろう。

だが、宝皇女が百済から土木事業の技術援助をとりつけたことで、飛鳥での“興事”再開が百済との関係をより親密にさせるという期待から、難波朝廷内の反新羅派、とくに蘇我氏や巨勢氏の有力氏族がこぞって元女帝の構想に賛意を示すようになった。

こうして、難波”京”建設をいったん中断し、人夫を飛鳥へ向かわせることを主張する宝皇女と廷臣たち、一方で遣唐プロジェクトの成功を優先すべきと主張する高向玄理(黒麻呂)、その板挟みに孝徳天皇は立たされるに至った──これが白雉4年5月の「呉唐の路」ルートの遣唐使出立以降、年末までの政局だったのはないだろうか。

そして、白雉5年正月、孝徳天皇が下した結論が、飛鳥での“興事”再開を認める代わりに、「新羅道」ルートの遣唐使を急ぎ編成し出航させる、というものであったのである。

さきほど触れたネズミの記事以外にも、白雉5年正月に事態が収拾に向かったであろうことを示唆しているのが、中臣鎌足が授位・増封されたとする正月5日条の記事だ。
森公章氏は、これについて「飛鳥に戻った中大兄との交渉も模索され、中大兄を支える鎌足に対して、孝徳天皇が何らかの配慮を示すことがあったのかもしれない」(『天智天皇』p.135)としている。
ただ、もしそうだとすれば、鎌足は孝徳サイドの交渉人であったからそれに対する褒賞が与えられたとみたほうが自然であろう。
"中大兄を支える鎌足"像は、この時期において決して所与の事象ではない。

いずれにしても、白雉5年2月、「呉唐の路」ルートの遣唐使から10か月近くも遅れ、高向黒麻呂率いる「新羅道」ルートの遣唐使が難波津を出航した。
この遅れが黒麻呂の誤算の始まりであったが、その後の展開については回をあらためてみていこう。

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大化改新の方程式(188) 孝徳は置き去りにはされなかった

【ここでの課題メモ】
なぜ白雉の遣唐使は2年続けて実施されたか──。2つの遣唐使はもともと白雉4年に同時に出航する予定だったと読み取れることを前提に、これらが唐朝廷に「絶域に大国あり」と認識させることを狙った一大プロジェクトだったという説に至った。とすれば、次に問うべきは、高向玄理の「新羅道ルート」が1年遅れた理由であろう。その回答は、「孝徳置き去り事件」の真相も明らかにするのではないか…。

日本書紀によれば、飛鳥への“還都”には、宝皇女ファミリーのほか、「公卿大夫・百官」が従ったとされる。
これについて、『偽りの大化改新』において中村修也氏は以下のように疑問視する。
もし、百官人たちが飛鳥に移動したことを認めますと、翌5年の正月の儀式や大王が行うべき祭祀などを、孝徳ぬきでどう対処するかの問題があります。私は中大兄が「皇太子」であったとは考えていませんが、もし中大兄が「皇太子」であったとしても、「皇太子」が大王の祭祀や儀式を代わりに執り行うことが可能とは考えられません。そこまで認めてしまうと、古代の大王権力を無視することになってしまいます。(pp.191-192)
中大兄に関する部分はさておき、私も同意見だ。
置き去りにされた孝徳天皇の姿を何の疑問もなくイメージできてしまうのは、孝徳が中大兄の傀儡だったという先入観ゆえであろう。
とはいえ、たとえ傀儡が事実だったとしても、大王が望まない遷都を実行するのであれば、乙巳の変でそうしたように、現大王=孝徳天皇に退位を迫るのが先ではなかろうか。
日本書紀がいうように「孝徳が位を捨てようとした」のが本当であれば、「譲位」の前例があったわけだから、その意向をもとに宝皇女陣営が孝徳を退位させ、彼女が復位すればよかったはずだ。
しかしながら、飛鳥に戻った宝皇女が即位を強行した形跡はない。彼女が即位したのは孝徳が死去した後だ。

もし孝徳が白雉5年(654年)に死ななかったなら、どうなっていたのだろうか。
傀儡とはいえ、元大王や皇太子が好き放題できるほど、古代の大王の座は価値が低いものなのか。そうであれば、それは傀儡を通り越して、単なるお飾りでしかない。
大王権力がその程度のものであったのなら、そもそも乙巳の変を起した中大兄は宝皇女をそのまま大王の座に残しておけばよかったはずである。

以上のように考えると、白雉4年(653年)の騒動は、「公卿大夫・百官」の移動をともなうものではなかったというべきであろう。
では、日本書紀の是年条でいう「倭京で遷りたい」という中大兄の奏請は何を意味していたのか。

前回論じたことが“真”であれば、われわれはその答えを知っている。
すなわち、中大兄(実質は宝皇女)が望んだことは、難波”京”建設のための人夫を飛鳥での土木工事に振り向けることだった。
もちろん、この時点で還都を要請したわけではない。
「公卿大夫・百官」がぞろぞろと移動したのは、白雉5年の孝徳の死後、年末になって宝皇女の重祚と遷都が正式に決まってからだ。

難波にいた人夫たちの飛鳥への大動員に続いて、孝徳が死に、そのまま遷都によって行政機構の移動が行われたので、あたかも白雉4年のうちから遷都が奏請され「公卿大夫・百官」がこぞって移動したと解釈されてしまったというのが真相ではないか。
孝徳が「置き去りにされ、位を捨てようとした」というのは、そこから連想された俗説であろう。
孝徳は、宝皇女の意向に屈したとはいえ、「公卿大夫・百官」はなお彼のもとにおり、決して置き去りにされたわけではなかったのである。

では、実際のところ、事態はどのように推移したのであろうか。


<追記>
梅前さんのご指摘にそって、迷わないための「記憶メモのようなもの」を巻頭にいれてみました。いかがでしょうか。

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大化改新の方程式(187) 難波宮完成を待っていた宝皇女

以前私は、孝徳天皇難波置き去り事件の謎 大化改新の方程式(137)という記事で、以下のように指摘した。
そもそも彼女(皇極天皇だった宝皇女)にとって難波宮造営は遷都ではなく、難波津における外交施設の拡充でしかなかったのではないだろうか。
いわば大王がおわすべき飛鳥の「首都」に対して、難波はあくまで外交儀礼に特化した「副都」であったのである。
もちろんこれは孝徳天皇の思惑とは異なるものだったにちがいないが・・・。
なお、この説の前後で、「蘇我父子による甘樫丘の“邸宅建築”」や「孝徳による山碕宮造営」について展開しているトンデモ説は再考の余地あり(すぎ)ではあるが、宝皇女が皇極期から飛鳥を聖地化(祭祀都市化)したいと考え、そのための“興事”を蘇我入鹿が全面的にバックアップしていた、という自説はいまも変わらない。

皇極期における飛鳥の祭祀都市化計画(さらにはそこを起点とした大和改造計画)が、弟と息子の暴挙のために中断されたと考える宝皇女は、難波宮の完成を待って、いまだ在京している人夫たちを飛鳥での“興事”再開に動員する腹づもりであったろう。
白雉3年(652年)9月に難波宮が完成したとはいえ、その造営に動員された民のすべてが帰郷できたわけではない。王宮周辺では官衙建設や宅地開発がすすんでいたことを示す遺跡が見つかっていることから、なお多くの民が使役に供されていたはずだ。
「前期難波宮は、一定の計画的な「京」の建設をともなう倭国初の王宮であった」(『東アジアに開かれた古代王宮 難波の宮』積山洋 p.52)。その「京」建設のための人夫たちをそっくり飛鳥での土木工事に活用しようというのが、元女帝・宝皇女の思惑だったのではないか。

さらに、宝皇女の青写真にある新生飛鳥では丘上に石垣を積み上げる土木工事が必要だったため、山城建設に長けた朝鮮半島の技術も不可欠となる。
そうした彼女の要望に応えたのが、遣唐使船建造をきっかけに国交を回復した百済であった。
斉明天皇として重祚後すぐに百済から大人数の来倭使節(斉明元年(655年)7月条で150人、是年条で100余人とある)がやってきたのはそのためだ。このタイミングと規模から考えて、孝徳崩御前から技術支援の交渉がすすんでいたとみるべきであろう。

しかしながら私は、宝皇女が反新羅の中心人物であったとは思わない。
乱暴な言い方をすれば、彼女にしてみれば、彼女の“興事”につきあってくれるのであれば、それが百済であろうが、新羅であろうが、高句麗であろうが、かまわないのである。
実際、斉明元年には新羅からも12人の技術者が派遣されているのが確認できる(斉明元年是年条)。
ただ、派遣された使節団の規模からいって、彼女の心情が親百済に大きく傾いただろうことは想像に難くない。

こうして、己が構想にしたがって百済へのアプローチを深めていく宝皇女に、僧旻没後に先鋭化した反黒麻呂・反新羅勢力が同調し、取り込まれていったところに「孝徳天皇難波置き去り事件」の真相があると私は考える。

では、実際のところ、孝徳は置き去りにされたのだろうか。

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大化改新の方程式(186) 「孝徳天皇難波置き去り事件」を考える

孝徳天皇が中大兄皇子の傀儡であったという通説では、いわゆる「孝徳天皇難波置き去り事件」については、あまり多くを語られてこなかったと思う。つまるところ、なんらかの理由で孝徳と中大兄が不和になれば、もともと傀儡であった孝徳が捨てられるのは明らかだからだ。

通説では、このなんらかの理由としては、以下のように、外交上の対立や飛鳥を拠点とする勢力の不満をあげている。
朝鮮半島情勢に少し距離を置いて、飛鳥周辺を拠点とする豪族らを懐柔しようとする動きであったのだろう。(「飛鳥・藤原の時代と東アジア」中村順昭 『古代史講義─邪馬台国から平安時代まで』佐藤信編 p.78)
あるいは、孝徳天皇は傀儡ではなくそれなりの存在感があったとしつつも、これによって中大兄が完全に主導権を握ったという出来事だけおさえておけばよい、という以下のような見方も通説の範疇であろう。
孝徳天皇と皇太子中大兄の不和・分裂はなぜ起きたのだろうか。百済と結ぶか、新羅・唐との関係を重視するかという、外交路線の違いに原因を求める考え方も有力であるが、具体的な点になると評価はさまざまで、確たることはわからない。ただ、このとき皇太子中大兄が完全に主導権を握ったことだけは確実であろう。(『飛鳥の都』吉川真司 pp.83-84)

とはいえ、たとえ傀儡説に一歩譲ったとしても、両者が不和になったというだけでは、飛鳥に戻る理由には欠けるのではないだろうか。
たしかに、飛鳥周辺を拠点とする豪族らの不満があったというのは事実であろうが、「クーデターに加わった人物たちのうち、中大兄以外の人々が、いずれも和泉国和泉郡にあった軽皇子との間に、ことに地理的関係において何らかの接点をもっていた」(『大化改新 645年6月の宮廷革命』遠山美都男 p,168)ことから、政権を崩壊させるほどに切羽詰まった不満が廷臣間に広く醸成されていたとは思えない。
しかも、素直に考えて、言葉では言い尽くせないほどの大宮殿が完成し、自分たちが常住する宅地開発がすすんでいるときに、「はい、さようなら」と出ていくものだろうか。
またたとえ、外交上の対立が深刻であったとしても、その政争は難波宮の朝廷で行えばよい話だ。

前回までみたように、外交上の抜き差しならない対立があったのはたしかだろう。そしておそらく、飛鳥を地盤とした豪族の不平もあっただろう。
だが、それらのほかに、いわばそれらに便乗して飛鳥に戻るべき積極的な理由があったのではないだろうか。

その1つとして、外交方針の対立の背景にある防衛上の理由をあげる見解がある。
孝徳朝には唐・新羅に対する積極的な外交的必要性から難波に宮室が置かれたが、皇祖母(王母)皇極と中大兄王子らは、蘇我氏以来の親百済路線の立場から、白雉年間(650-655)後半には孝徳と対立し、再び飛鳥へ宮を戻すこととになった。重祚した大王斉明は斉明2年に(656)に後飛鳥岡本宮に宮地を定めた。彼女は「興事を好む」と評されたように、宮室だけでなく、大溝・山城などの並外れた大土木工事を開始した。孝徳期の難波とは対照的に、唐・新羅に対する防衛的な意味から飛鳥へ戻り、さらに天智朝には近江へ引き籠もったと解される。(『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』仁藤敦史 p.86)

しかしながら、当時のアジアの情勢はそこまでひっ迫した状況ではなかったようだ。
百済は651年、652年と2年続けて、高句麗は652年に唐に朝貢している。高句麗遠征にこだわった太宗が死去し即位した新帝・高宗のもと、東アジアでは平穏な日々が続くかのような様相を呈していたであろう。
それでも、長期的な防衛構想から飛鳥への還都を行ったと言うことができよう。
だが、もしそうであれば、後年、新羅征伐が目的だったとはいえ唐と対峙する可能性のある遠征に短期間のうちに乗り出すとは到底思えない。

飛鳥還都の背景には、防衛上の理由とは別の、飛鳥に戻るべきという強い意志が存在したと考えるべきだ。
そして、それが、難波の宮殿が完成したタイミングで顕在化していることに注目すべきであろう。

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大化改新の方程式(185) もうひとりの国博士・僧旻の死

孝徳政権の外交担当として親新羅にこだわる高向玄理(黒麻呂)への批判の高まりは、孝徳天皇にとって頭の痛い問題であった。
ただ当初、反黒麻呂・反新羅の矛先が孝徳本人に向かわなかったのは、僧旻の存在が大きかったからであろう。

開講期間は不明だが、僧旻の学堂に通った人々は飛鳥朝廷内に数多く存在したにちがいない。『藤氏家伝』によれば、その筆頭には乙巳の変のターゲットになった蘇我入鹿がいたとされる。その人脈の広さゆえに、僧旻をクーデターの主要メンバーに引き入れるのは憚られた一方で、まさにそれゆえに、政変後の新政権の運営にはなくてはならない人材であったといえよう。

632年に帰朝した僧旻は、唐使・高表仁との「争礼」以降、倭国外交の有様を間近で観察してきた。黒麻呂よりも8年前に帰国した分だけ、倭国特有の外交事情や対外関係を巡る朝廷内の利権構造には知識と理解があったにちがいない。
一方、唐帝・李世民の治世(貞観の治)を10年以上もリアルタイムで見聞した黒麻呂は、倭国朝廷内ではもっとも先進的な知識を有すると自他ともに認める存在であったろう。

「我こそはグローバルスタンダード」と言わんばかりに物事を強引に推し進める国博士・黒麻呂へのブレーキ役を孝徳天皇から期待されたのが、もうひとりの国博士・僧旻であったのではなかったか。新羅に甘すぎる路線の修正をもとめる廷臣からの人望も高かったにちがいない。
その意味で、白雉に改元後、遣唐使再開の方針を巡り次第に激しくなる政権内の軋轢を和らげる唯一の緩衝役であったのが僧旻であったといえよう。

653年5月、数多の留学僧・留学生を乗せた吉士長丹ら「呉唐の路」ルートの遣唐使を送り出したまさにその月、僧旻は危篤に陥った。わざわざ見舞いに行幸した孝徳をして「あなたが死ねば、私も死ぬ」と言わしめた背景として、以上のような政情を想定すべきであろう。(ただし、こう述べたと記録しているのは、この行幸を翌年7月とする異伝(或本に曰く)だが)
そして、翌6月、僧旻死去。反黒麻呂・反新羅の動きが先鋭化するのが必至の情勢となった。

こうしたなか、新たな問題が出来した──元女帝・宝皇女による飛鳥“還都”の動きだ。
これが外交路線の確執と相まって、孝徳政権の空中分解を惹起することになる。
次回は、いわゆる「孝徳天皇難波置き去り事件」について考えてみたい。

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大化改新の方程式(184) 遣唐「新羅道」ルートの出発が遅れた理由

白雉の遣唐使のトピックに戻ってきた。
少々間があいてしまったので、「なぜ2年続けて遣唐使を派遣したか」の問い(白雉5年の遣唐使は予定外だったのか 大化改新の方程式(175))から数回にわたって展開した議論について、前回までの到達点を確認しておこう──1つは白雉の遣唐使の陣容について、そしてもう1つはその目的について。

●陣容について
吉士長丹ら白雉4年の遣唐使と高向玄理ら白雉5年のそれは、前者が数多の留学僧・留学生の搬送、後者が朝貢をそれぞれ担うという1つのプロジェクトのもとで編成されていた。前者は百済沿岸から黄海に乗り出す「呉唐の路」ルート、後者は新羅領を陸路で通過する「新羅道」ルートを経て入唐するということも、早い段階から決まっていたと思われる。
そして、ともに同じ時期、すなわち白雉4年5月に出航予定だったと推測されるが、何らかの理由で、高向玄理ら「新羅道」ルートは出航が翌年2月までずれてしまった。

●目的について
上記のように、留学僧・留学生の搬送と朝貢がこのプロジェクトの目的であるが、百済と新羅両国が関与するかたちで入唐するというプロセス自体にもう1つのミッションが隠されていた。
すなわち、激しく争っている百済と新羅が競うように倭国の入唐をサポートする状況を演出することで、中華たる隋や唐が冊封下にある国々の争いを調停するかのように、倭国が朝鮮半島の争いに干渉できる立場を唐朝廷に印象付けさせること──これである。
どのようなルートを使っても朝鮮諸国のサポートなしには入唐できない当時の状況において、いわば「重訳外交」を逆手に取った、唐への「絶域に大国あり」という一大デモンストレーションであったのである。

以上が“真”であるならば、次に問うべきは、「なぜ高向玄理の一行は、1年遅れの出航となったのか」であろう。

その理由は、以下の3つのポイントから説明できると私は考えている。
1. 反新羅派の台頭
2. 僧旻の死去
3. 飛鳥“還都”の動き

まず、第1のポイントについて。
乙巳の変を経て誕生した大化政権はその発足時から親新羅的であった。(詳細は、乙巳の変の背景(6)~親新羅政権の誕生 大化改新の方程式(150)
とはいえ、注意しなければならないのは、このクーデターが親百済派と親新羅派との根深い対立から発生したものではなかったという点だ。
たしかに642年の百済・義慈王よる旧伽耶地域占領を契機とした対百済外交の失敗をめぐる確執(これが日本書紀の分注「韓政に因りて」の中身だと私は考えている)が乙巳の変の大きな原因ではあるが、「女帝不可」思想の台頭や皇極女帝の“興事路線”への反発という要素もその背景にあり、さまざまな思惑がからみあってクーデターが実行された。
つまり、クーデター派の面々は必ずしも親新羅で結束していたわけではないといえる。
たとえば、将来を約束されたと思っていた中大兄皇子は古人大兄皇子の朝政参加に危機感を、そして、蘇我倉山田石川麻呂は皇極女帝の“興事路線”に一族あげて協力する蘇我入鹿に反発心を抱いたであろう。意地の悪い言い方をすれば、そうした危機感や反発心が、孝徳三人衆(高向黒麻呂・中臣鎌子・蘇我日向。なぜ私がこの3人をこう呼ぶかは、孝徳三人衆-鎌足・黒麻呂・日向 『偽りの大化改新』を読む(27)参照)に利用されたのである。
もっといえば、高向黒麻呂(玄理)の新羅スパイ説にたてば(私はこの説はとらないが)、軽皇子(後の孝徳天皇)と中臣鎌子も「われわれのもとで唐のような律令国家を創りたい」という彼らの夢が、黒麻呂に利用されたことになるのだが…。
こうしてみると、大化政権の中枢において、根っからの親新羅派は高向玄理ひとりであったとさえいえる。
すなわち、孝徳天皇の朝廷は外交姿勢においては一枚岩ではなかった。

そういう理解のもとでは、クーデター直後の詔で新羅を貢納国扱いしなかったこと(これはどこにも記述のない私の仮説にすぎない。詳細は、「韓政に因りて」の中身(2) 大化改新の方程式(108))、“任那”調の廃止や金春秋の招聘に対して、それらを主導した高向玄理への不満は政権中枢において常に火種として存在していたとみてまちがいないであろう。
とくに、蘇我本宗家滅亡によって蘇我氏がもっていた百済利権を継承した石川麻呂には、高向玄理主導による行き過ぎた親新羅路線は軌道修正すべきと映ったにちがいない。そうしたことが、649年の蘇我石川麻呂の変の背景にあったものと私は考える。ちょうどこの変が、百済とは実質的に国交断絶状態であった一方で、新羅との蜜月関係が頂点であった年に発生していることに注目すべきだ。

そうしたなか、651年に起こった出来事が、孝徳政権の親新羅路線を苦々しく思っている廷臣たちの不満を顕在化させた。言うまでもなく、日本書紀がこの年の条として記録している、唐服を着用した新羅使を追い返した事件である。このとき左大臣の巨勢徳多が新羅への強硬姿勢(武力誇示による脅迫)をとることを提唱したが採用されなかった。
しかしながら、この年も含め、以後も新羅からの遣使は継続している。新羅が倭国のために唐服着用を控えたとは思えないので、抗議はあったものの外交上のトラブルには至らなかったようだ。日本書紀の記述は、この12年後に白村江で倭国が唐羅連合軍に敗退したという史実を踏まえ、徳多の先見の明を称える巨勢氏の家伝に基づいたものであろうから、多分に誇張されているきらいはあろう。
がしかし、「新羅は倭国の朝貢国」という認識でいる豪族たちにしてみれば、倭国の許しもなく唐の属国に堕した新羅の行動は許しがたいものであった。しかも、結果的にそれを不問に付した孝徳政権内の親新羅勢力、すなわち高向玄理に対する風当たりは強くなっていたはずだ。
同時に、650年の百済船建造をきっかけとした百済との関係改善を追い風に、反新羅・親百済の気運は否が応でも高まったにちがいない。
そうした面々にすれば、このたびの遣唐使において、たとえ「絶域に大国あり」という印象付けのために必要だと言われても、すんなりと新羅経由の遣使に賛同できないのは当然であったろう。この遣唐使再開プロジェクトの隠されたミッションが見透かされれば、新羅からどんな妨害を受け、あるいは、見返りを要求されるかわからないからだ。

こうして、「呉唐の路」ルートの人選や船舶の建造が着々とすすむ一方で、「新羅道」ルートの編成は手つかずのまま置かれていたにちがいない。
そして、ここにきて、政権内の軋轢の緩衝役となっていた僧旻が危篤に陥ったのである。

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大化改新の方程式(183) 独自元号~新羅と倭国

白雉の遣唐使の話にもどるにあたって、最後に、「令和」改元にちなんだトピックに触れておきたい。

「大化」と「白雉」について、いずれも現在のところ実際に使用された痕跡は発見されていないが、「大化」はともかく「白雉」は、日本書紀が伝えるとおり制定されたのは事実であろう。
白雉改元のセレモニーでは、豊璋など百済の在倭王族とともに、高句麗の医者や新羅の家庭教師を参列させ、倭国が朝鮮三国を従えているさまを演出している。もし、このセレモニー自体が作り話であるなら、高句麗や新羅については使者が参列したと記述すればよかったはずで、わざわざ医者や家庭教師をひっぱりだす必要はなかったろう。
白雉という年号は、広く使用されなかったかもしれないが、その制定自体は日本書紀の捏造ではなく、史実であったとみてよいと思う。

白雉の制定は650年だが、早くも654年の孝徳の死をもってその使用は中断され、686年の天武病没直前の約2か月のみ使用された「朱鳥」を経て、「大宝」が制定されたのが701年。以来「令和」にいたるまで連綿と続いている。
このことはこのたびの改元を機に多くの方に周知になったようだ。

一方、新羅が倭国に先んじて元号を使用していたことは意外に知られていない。
新羅の元号は536年に制定され、650年に唐の年号(永徽)を採用するまで続いた。
独自元号の放棄は、648年に新羅の使者が唐帝・太宗から「臣下のくせにどうして中国の年号を使わないのか」と叱責されたのがきっかけだったが、唐の軍事援助を得るためになりふり構わず採用した唐化路線の一貫であったことはまちがいない。

正朔を奉ずること(中国王朝の暦法に従うこと)は冊封国の義務とされるが、新羅は565年に中国(北朝の北斉)の冊封国になった後も、独自の元号を使用し続けた。かといって、新羅が中国に対して対等意識を抱いていたわけではないだろう。
ただ、唐帝の叱責にもかかわらず中国の年号をすぐに採用せずためらっていたという『三国史記』の記述は、新羅国内において独自元号の使用に自負を感じる根強い抵抗勢力がいたことを示唆している。

私は、新羅が唐の年号を採用した同じ年(650年)に、倭国は白雉を制定し、遣唐使再開の準備に着手している事実(安芸国にて百済舶2隻を建造)に注目したい。
新羅が唐帝から叱責されたのは648年であるから、650年にはすでにその情報は倭国も入手していたにちがいない。にもかかわらず、倭国は白雉改元のセレモニーを大々的に実施しているのだ。

倉本一宏氏は、田中満智子氏との共著『古代史から読み解く「日本」のかたち』のなかで、「大宝の遣唐使が持参したものと、しなかったもの」を論じ、年号、律令、天皇号については「しなかった」としている。それらの制定が発覚すれば、いずれの場合も「戦争になる可能性があった」からだという。(pp.43-47)
とすれば、白雉の遣唐使についても事情は同じであろう。
とはいえ、倉本氏のいうとおりなら、新羅が唐帝から叱責を受けたばかりのこの時期に、倭国は「戦争になるかもしれない」元号制定のセレモニーを大々的に行うであろうか?
しかも、15年以上も昔のこととはいえ、唐使・高表仁との「争礼」後、はじめての遣使である。

古代東アジアで中国の周辺国が独自元号を使用した例がほとんどないので憶測でしかないが、中国朝廷にすれば、外交文書に使用しないかぎり、朝貢国による独自元号使用はたいした問題ではなかったのではあるまいか。

新羅は100年以上も元号を使用し続け、隋や唐の冊封を受けた際にもそれを放棄していない。
戦争になるほどの重要事項であるなら、ライバルの百済が「新羅は臣従しているようですが、実は密かに独自の年号を使っていますぜ」と告げ口をしたことであろう。
が、『三国史記』をみるかぎり、そうした話は伝えられていない。
実際、648年の唐帝による叱責は、中国側の記録にはなく、『三国史記』で伝えられるのみだ。
やはり重大案件とはほど遠いものであったのだろう。(朝鮮側でのみ記録があるのは、唐化政策を推し進めるために、金春秋が唐帝の御言葉を大々的に利用したからであろう)

私は、倭国首脳はこのあたりの事情は重々承知のうえで、わざと改元(「大化」が後世の捏造なら建元)を大々的に表明したのだと思う。
そこには、「朝貢すれども新羅のような臣下ではない」という意識があったとみるのは穿ち過ぎであろうか。

そしてもちろん、その意識を担保するためには、百済や新羅よりも上位にある大国であると中国朝廷から認められるエビデンスを創出しなければならない。
648年独自元号使用を叱責された新羅の使者は、「中国から暦をもらえなかった」ことを言い訳にしている。つまり、冊封されているにもかかわらず化外(中国の支配の及ばない地域)扱いされていたことを認めたわけだ。
倭国がなんのエビデンスもなしに元号を使用するものなら、中国の徳が及ばない化外の国ゆえと一笑に付されただけであろう。
それこそ倭国の面子が許さない。

すでに難波宮というハード面には目途がついた。次なる課題こそ、新羅・百済という相争う両国を経由しての遣使の実行による国威表明であったわけだ。
こうして話は、白雉の遣唐使に託されたミッションに戻ってくる。

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大化改新の方程式(182) 遣唐使の派遣頻度について

これまで河上氏の『古代日中関係史』(河上麻由子)をみてきたが、白雉の遣唐使の話に戻るにあたり、2つのトピックに触れておきたい──1つは遣唐使の派遣頻度について、もう1つは令和への改元にちなみ元号について。

河上氏は遣唐使の派遣頻度に関し、「20年1度の朝貢を約束していた」という東野治之氏による年期制説を退け、「遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣された」という山尾幸久氏の一代一度説に賛同して以下のように述べる。
遣唐使はその最初期から、特殊な事例(白村江の戦後処理や唐使を送る使者、藤原清河を迎える使者など)を除けば、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。この点を重視するならば、山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の、一代一度の事業としての側面があったと認められてよいではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。(pp.143-148)
ここで河上氏は、「一代一度」は遣唐使の初めからそうであったとしているが、すくなくとも717年の養老の遣唐使(第8回)までの遣使については、この解釈には疑問が残る。

天皇の治世が何年になるかわからないなかで、一代一度となれば、頻繁に遣使を実施する新羅や百済に中国の制度や文物の導入という点において大きく後れを取ってしまう。
できれば頻繁に通交したかったはずだ。
もちろん、それができなかったのは、遣使における莫大な費用と遭難のリスクゆえということは言うまでもないが、それらだけではないと私は考える。
いやむしろ、それら以上に重要な要因として、遣使すれば答礼使が来倭・来日するだろうという想定のもと、中国から大国と認められるためのエビデンスをハード、ソフト両面にわたってつくりあげるために年月を費やしたという事情があったのではないだろうか。

これまで私はそれを「対等外交のためのエビデンスづくり」としてきたが、河上氏の著作に従い「対等」という表現を見直すべき今となっては、「中国から大国と認められるためのエビデンス」とでも言い換えるべきであろう。
そして、このエビデンスは、都城造営・律令制定・正史編纂をもって完成したとみれば、日本書紀成立の720年までは、そうしたエビデンスづくりにこだわり続けていたのだと私は考えたい。
であれば、すくなくとも717年の養老の遣唐使までは、一代一度と割り切って朝貢していたわけではないといえよう。

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古代史メモ(4) 河上麻由子著『古代日中関係史』を読んで

過去2回にわたって『古代日中関係史』(河上麻由子)をとりあげた。
この著作について論点を系統立てて批評するほどの知識も知力もないが、あえて読後の印象をメモとして残しておきたい。

そもそも朝貢をしている時点ですでに対等ではない。倭国が朝貢していたことは日本書紀の編者も認めていたようで、推古16年に裴世清がもたらした親書で、遠方からの倭国の朝貢を隋皇帝がほめている記述を日本書紀はそのまま掲載している。
それでもなお多くの学者が倭国の外交姿勢に「中国との対等意識」をみていたのは、1つには、遣隋使が携えた「日出処の天子…」の書状であり、もう1つは、唐使・高表仁との「争礼」であろう。

前者については、河上氏が詳細に論じたように、仏法における「天子」という文脈で捉えるべきであり、そこに対等意識の根拠を求めるのはまちがいなのかもしれない。
むしろ、この607年の遣隋使において注目すべきは、派遣前における対等意識の存否ではなく、答礼使によって倭国が「百済や新羅から敬われている大国」としてみなされた事実(『隋書』東夷伝倭国条)であろう。
隋によるそうした倭国観が、王宮や寺院の建設、道路の整備、冠位制や礼制の制定によって得られた成果として当時のみならずその後の倭国のリーダーたちによって認識されていたのはまちがいない。

それでは、後者の「争礼」はどうであろうか?
前回みたように、河上氏は「根強く支持されていたのは、倭国が会見儀礼における対等を主張して、唐の冊封を拒否したとする解釈」((『古代日中関係史』 p.113)だとして、そもそも唐サイドに冊封を要求する必要性がなかったという論証をもとに、これを批判する。

しかしながら、森公章氏のように、中国側の資料において唐帝・太宗による歳貢免除に触れていることから、歳貢(毎年の朝貢)は冊封を前提とする措置である以上、冊封に関する争いがあったとする説がある(『遣唐使の光芒』 p.64、『天智天皇』 p.23)。

どうも「冊封」に関する明確な定義が学会にすらないようだ。

さらにいえば、倉本一宏氏は田中満智子氏との共著『古代史から読み解く「日本」のかたち』において以下のように述べている。
研究者でも誤解している人が多いのですが、冊封は蕃国から申請して認定を受けるもので、中国側が選考をして認定を与えるものではありません。(p.184)
もしこれが事実であったとすれば、「冊封はすでに不要な時代だった」(『古代日中関係史』 p.96)、「倭国に朝貢使の派遣は求めても、冊封を受け入れるよう積極的に働きかける必然性が唐にはなかった」(同 p.116)とする河上氏の論を待たずとも、倭国外交に冊封を忌避する理由を見出す必要はないことになる。

ただここで私は疑問に思う──河上氏や倉本氏の説が真実だったとしても、そうした隋や唐の冊封に対する考え方を、倭国のリーダーたちは正しく認識していたのだろうか? ましてや当時の倭国が入手する中国の情報は百済や新羅のフィルターがかけられたものがほとんどだ。

中国との積極的な通交を目指すにあたって、朝鮮諸国が軒並み冊封されているなか、さらに、中国南朝からとはいえ、かつて冊封を受けた事実があるがゆえに、これから未来永劫、中国側から冊封の要求はないと倭国のリーダーたちが楽観視していたとは私には思えない。

たしかに、唐使・高表仁との「争礼」は、「儀式の場における上下が争われたにすぎない」(『古代日中関係史』 p.116)ものであったかもしれない。しかしながら、その後長らく遣使の動きがみられなかったのは、このトラブルを契機に「唐と直接かかわっていこうとすれば、いずれ冊封を要求される事案が発生するかもしれない、そのときわれわれはどう対処していくべきか」という古くて新しい問題が俎上に上がり、倭国の朝廷内で明確な方針が定まらなかったからではないだろうか。(そして、それが乙巳の変の遠因になっていくと私は考えている)

河上氏は、倭国が冊封を求めなかった理由としてあげられる「倭国にとって百済や新羅は臣属国であり、冊封を受けて彼らと同列に扱われることは避けねばならなかった」(『古代日中関係史』 pp.93-94)という解釈を、中国サイドの冊封へのスタンスの分析によって否定した。
しかしながら、私がいうように、隋や唐がどういう意向であれ、冊封を要求されるかもしれないという懸念を倭国サイドが抱いていたとすれば、この理由づけはなお説得力があるといえよう。

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古代史メモ(3) 続・河上麻由子著『古代日中関係史』の衝撃

前回に続き、刊行されたばかりの『古代日中関係史』(河上麻由子)をみていこう。

「600年頃から、隋は東アジアへの冊封に熱心ではなくなっていくようである」(p.97)という河上氏の考察は前回みたとおりだが、唐代においても「唐が隋よりも諸国王の冊封に熱心だったということは決してなく、倭国に朝貢使の派遣は求めても、冊封を受け入れるよう積極的に働きかける必然性が唐にはなかった」(p.116)とする。
その議論では、これまで冊封とのからみで解釈されてきた632年の唐使・高表仁との「争礼」の問題について触れている。
この「争礼」とは何であったのか。根強く支持されていたのは、倭国が会見儀礼における対等を主張して、唐の冊封を拒否したとする解釈である。冊封の拒否が事実であったとすれば、事はきわめて重大である。そこでかつては、なぜ唐は倭国の離反を黙認したのか、という視点から「争礼」が議論されてきた。(p.113)
河上氏は先達の説をもとに、「争礼」とは「儀礼の場で、唐の使者と諸国王とが、上下をめぐって争うこと」(p.113)としたうえで、「日本が唐の冊封を拒否したという議論は、唐は日本を冊封せねばならなかった、という前提があって成立する」(p.114)という”そもそも論”から、唐サイドの事情を考察すべきことを提唱する。

河上氏は、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)が唐建国後ほどなく朝貢を開始していたにもかかわらず、624年になってようやく三国を同時に冊封したことについて、「唐の対外政策が転換したから」(p.114)とみる。そして、その転換にかかわった人物として、裴世清と同族で「隋の煬帝に仕えて西域政策に功のあった人物」であり、隋滅亡後621年から唐に仕えていた裴世矩(はいせいく)に注目する。
隋の時代に裴世矩は、漢の時代に郡県制が敷かれるなど、かつては中国領であったことを理由に、高句麗の討伐を進言していた。建国されたばかりの唐は、隋の東アジアの政策を発展的に継承しようとしている。ここに、郡県制に編入されたこともなく、隋の時代に冊封を受けたこともない倭国を冊封する必要はない。(p.116)
そして、くだんの「争礼」については、「儀式の場における上下が争われたにすぎない」のであって、唐が倭国を冊封しようとし、倭国がそれを拒否したという「事件」ではない、と結論づけている。(p.116)

以上は『古代日中関係史』のなかで私のこれまでの説にかかわってくる部分をまとめてみただけで、河上氏の考察のすべてではない。

私の説とのかかわりについては回をあらためて触れたいが、ここで私の感想を手短にいえば、古代における日中関係(氏はあえて「外交」という表現を避けている)を考察するにおいて、安易に「対等」という表現を使用するのは控えるべきだろう。
私自身も最近の記事(孝徳はなぜ早々に遣唐使を送らなかったのか 大化改新の方程式(172))では、「対等外交」というのは言い過ぎだと認めつつも、「倭国側の認識としては、“対等”と言っても差し支えない」としている。その点は見直しが必要だ。

しかしながら、古代日本の外交姿勢について「国家の面子を重視しない」(p.242)とまで言い切っていいのだろうか。
上でリンクした記事内での表現だが「中国によって朝鮮諸国より上位の国として認知される“大国”」を志向するがゆえに優先すべき面子が、当時の倭国・日本のリーダーたちには存在していた、と私は考えたい。

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