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大化改新の方程式(183) 独自元号~新羅と倭国

白雉の遣唐使の話にもどるにあたって、最後に、「令和」改元にちなんだトピックに触れておきたい。

「大化」と「白雉」ついて、いずれも現在のところ実際に使用された痕跡は発見されていないが、「大化」はともかく「白雉」は、日本書紀が伝えるとおり制定されたのは事実であろう。
白雉改元のセレモニーでは、豊璋など百済の在倭王族とともに、高句麗の医者や新羅の家庭教師を参列させ、倭国が朝鮮三国を従えているさまを演出している。もし、このセレモニー自体が作り話であるなら、高句麗や新羅については使者が参列したと記述すればよかったはずで、わざわざ医者や家庭教師をひっぱりだす必要はなかったろう。
白雉という年号は、広く使用されなかったかもしれないが、その制定自体は日本書紀の捏造ではなく、史実であったとみてよいと思う。

白雉の制定は650年だが、早くも654年の孝徳の死をもってその使用は中断され、686年の天武病没直前の約2か月のみ使用された「朱鳥」を経て、「大宝」が制定されたのが701年。以来「令和」にいたるまで連綿と続いている。
このことはこのたびの改元を機に多くの方に周知になったようだ。

一方、新羅が倭国に先んじて元号を使用していたことは意外に知られていない。
新羅の元号は536年に制定され、650年に唐の年号(永徽)を採用するまで続いた。
独自元号の放棄は、648年に新羅の使者が唐帝・太宗から「臣下のくせにどうして中国の年号を使わないのか」と叱責されたのがきっかけだったが、唐の軍事援助を得るためになりふり構わず採用した唐化路線の一貫であったことはまちがいない。

正朔を奉ずること(中国王朝の暦法に従うこと)は冊封国の義務とされるが、新羅は565年に中国(北朝の北斉)の冊封国になった後も、独自の元号を使用し続けた。かといって、新羅が中国に対して対等意識を抱いていたわけではないだろう。
ただ、唐帝の叱責にもかかわらず中国の年号をすぐに採用せずためらっていたという『三国史記』の記述は、新羅国内において独自元号の使用に自負を感じる根強い抵抗勢力がいたことを示唆している。

私は、新羅が唐の年号を採用した同じ年(650年)に、倭国は白雉を制定し、遣唐使再開の準備に着手している事実(安芸国にて百済舶2隻を建造)に注目したい。
新羅が唐帝から叱責されたのは648年であるから、650年にはすでにその情報は倭国も入手していたにちがいない。にもかかわらず、倭国は白雉改元のセレモニーを大々的に実施しているのだ。

倉本一宏氏は、田中満智子氏との共著『古代史から読み解く「日本」のかたち』のなかで、「大宝の遣唐使が持参したものと、しなかったもの」を論じ、年号、律令、天皇号については「しなかった」としている。それらの制定が発覚すれば、いずれの場合も「戦争になる可能性があった」からだという。(pp.43-47)
とすれば、白雉の遣唐使についても事情は同じであろう。
とはいえ、倉本氏のいうとおりなら、新羅が唐帝から叱責を受けたばかりのこの時期に、倭国は「戦争になるかもしれない」元号制定のセレモニーを大々的に行うであろうか?
しかも、15年以上も昔のこととはいえ、唐使・高表仁との「争礼」後、はじめての遣使である。

古代東アジアで中国の周辺国が独自元号を使用した例がほとんどないので憶測でしかないが、中国朝廷にすれば、外交文書に使用しないかぎり、朝貢国による独自元号使用はたいした問題ではなかったのではあるまいか。

新羅は100年以上も元号を使用し続け、隋や唐の冊封を受けた際にもそれを放棄していない。
戦争になるほどの重要事項であるなら、ライバルの百済が「新羅は臣従しているようですが、実は密かに独自の年号を使っていますぜ」と告げ口をしたことであろう。
が、『三国史記』をみるかぎり、そうした話は伝えられていない。
実際、648年の唐帝による叱責は、中国側の記録にはなく、『三国史記』で伝えられるのみだ。
やはり重大案件とはほど遠いものであったのだろう。(朝鮮側でのみ記録があるのは、唐化政策を推し進めるために、金春秋が唐帝の御言葉を大々的に利用したからであろう)

私は、倭国首脳はこのあたりの事情は重々承知のうえで、わざと改元(「大化」が後世の捏造なら建元)を大々的に表明したのだと思う。
そこには、「朝貢すれども新羅のような臣下ではない」という意識があったとみるのは穿ち過ぎであろうか。

そしてもちろん、その意識を担保するためには、百済や新羅よりも上位にある大国であると中国朝廷から認められるエビデンスを創出しなければならない。
648年独自元号使用を叱責された新羅の使者は、「中国から暦をもらえなかった」ことを言い訳にしている。つまり、冊封されているにもかかわらず化外(中国の支配の及ばない地域)扱いされていたことを認めたわけだ。
倭国がなんのエビデンスもなしに元号を使用するものなら、中国の徳が及ばない化外の国ゆえと一笑に付されただけであろう。
それこそ倭国の面子が許さない。

すでに難波宮というハード面には目途がついた。次なる課題こそ、新羅・百済という相争う両国を経由しての遣使の実行による国威表明であったわけだ。
こうして話は、白雉の遣唐使に託されたミッションに戻ってくる。

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大化改新の方程式(182) 遣唐使の派遣頻度について

これまで河上氏の『古代日中関係史』(河上麻由子)をみてきたが、白雉の遣唐使の話に戻るにあたり、2つのトピックに触れておきたい──1つは遣唐使の派遣頻度について、もう1つは令和への改元にちなみ元号について。

河上氏は遣唐使の派遣頻度に関し、「20年1度の朝貢を約束していた」という東野治之氏による年期制説を退け、「遣唐使が天皇の代替わりと関連して派遣された」という山尾幸久氏の一代一度説に賛同して以下のように述べる。
遣唐使はその最初期から、特殊な事例(白村江の戦後処理や唐使を送る使者、藤原清河を迎える使者など)を除けば、天皇一代に一度派遣される傾向が強い。この点を重視するならば、山尾幸久が主張したように、遣唐使には「外交権」を掌握する天皇の、一代一度の事業としての側面があったと認められてよいではあるまいか。使者の任命が、天皇の即位からほどなくして、ないしは皇位継承者が決定した時点であることが多いのも注目に値する。(pp.143-148)
ここで河上氏は、「一代一度」は遣唐使の初めからそうであったとしているが、すくなくとも717年の養老の遣唐使(第8回)までの遣使については、この解釈には疑問が残る。

天皇の治世が何年になるかわからないなかで、一代一度となれば、頻繁に遣使を実施する新羅や百済に中国の制度や文物の導入という点において大きく後れを取ってしまう。
できれば頻繁に通交したかったはずだ。
もちろん、それができなかったのは、遣使における莫大な費用と遭難のリスクゆえということは言うまでもないが、それらだけではないと私は考える。
いやむしろ、それら以上に重要な要因として、遣使すれば答礼使が来倭・来日するだろうという想定のもと、中国から大国と認められるためのエビデンスをハード、ソフト両面にわたってつくりあげるために年月を費やしたという事情があったのではないだろうか。

これまで私はそれを「対等外交のためのエビデンスづくり」としてきたが、河上氏の著作に従い「対等」という表現を見直すべき今となっては、「中国から大国と認められるためのエビデンス」とでも言い換えるべきであろう。
そして、このエビデンスは、都城造営・律令制定・正史編纂をもって完成したとみれば、日本書紀成立の720年までは、そうしたエビデンスづくりにこだわり続けていたのだと私は考えたい。
であれば、すくなくとも717年の養老の遣唐使までは、一代一度と割り切って朝貢していたわけではないといえよう。

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古代史メモ(4) 河上麻由子著『古代日中関係史』を読んで

過去2回にわたって『古代日中関係史』(河上麻由子)をとりあげた。
この著作について論点を系統立てて批評するほどの知識も知力もないが、あえて読後の印象をメモとして残しておきたい。

そもそも朝貢をしている時点ですでに対等ではない。倭国が朝貢していたことは日本書紀の編者も認めていたようで、推古16年に裴世清がもたらした親書で、遠方からの倭国の朝貢を隋皇帝がほめている記述を日本書紀はそのまま掲載している。
それでもなお多くの学者が倭国の外交姿勢に「中国との対等意識」をみていたのは、1つには、遣隋使が携えた「日出処の天子…」の書状であり、もう1つは、唐使・高表仁との「争礼」であろう。

前者については、河上氏が詳細に論じたように、仏法における「天子」という文脈で捉えるべきであり、そこに対等意識の根拠を求めるのはまちがいなのかもしれない。
むしろ、この607年の遣隋使において注目すべきは、派遣前における対等意識の存否ではなく、答礼使によって倭国が「百済や新羅から敬われている大国」としてみなされた事実(『隋書』東夷伝倭国条)であろう。
隋によるそうした倭国観が、王宮や寺院の建設、道路の整備、冠位制や礼制の制定によって得られた成果として当時のみならずその後の倭国のリーダーたちによって認識されていたのはまちがいない。

それでは、後者の「争礼」はどうであろうか?
前回みたように、河上氏は「根強く支持されていたのは、倭国が会見儀礼における対等を主張して、唐の冊封を拒否したとする解釈」((『古代日中関係史』 p.113)だとして、そもそも唐サイドに冊封を要求する必要性がなかったという論証をもとに、これを批判する。

しかしながら、森公章氏のように、中国側の資料において唐帝・太宗による歳貢免除に触れていることから、歳貢(毎年の朝貢)は冊封を前提とする措置である以上、冊封に関する争いがあったとする説がある(『遣唐使の光芒』 p.64、『天智天皇』 p.23)。

どうも「冊封」に関する明確な定義が学会にすらないようだ。

さらにいえば、倉本一宏氏は田中満智子氏との共著『古代史から読み解く「日本」のかたち』において以下のように述べている。
研究者でも誤解している人が多いのですが、冊封は蕃国から申請して認定を受けるもので、中国側が選考をして認定を与えるものではありません。(p.184)
もしこれが事実であったとすれば、「冊封はすでに不要な時代だった」(『古代日中関係史』 p.96)、「倭国に朝貢使の派遣は求めても、冊封を受け入れるよう積極的に働きかける必然性が唐にはなかった」(同 p.116)とする河上氏の論を待たずとも、倭国外交に冊封を忌避する理由を見出す必要はないことになる。

ただここで私は疑問に思う──河上氏や倉本氏の説が真実だったとしても、そうした隋や唐の冊封に対する考え方を、倭国のリーダーたちは正しく認識していたのだろうか? ましてや当時の倭国が入手する中国の情報は百済や新羅のフィルターがかけられたものがほとんどだ。

中国との積極的な通交を目指すにあたって、朝鮮諸国が軒並み冊封されているなか、さらに、中国南朝からとはいえ、かつて冊封を受けた事実があるがゆえに、これから未来永劫、中国側から冊封の要求はないと倭国のリーダーたちが楽観視していたとは私には思えない。

たしかに、唐使・高表仁との「争礼」は、「儀式の場における上下が争われたにすぎない」(『古代日中関係史』 p.116)ものであったかもしれない。しかしながら、その後長らく遣使の動きがみられなかったのは、このトラブルを契機に「唐と直接かかわっていこうとすれば、いずれ冊封を要求される事案が発生するかもしれない、そのときわれわれはどう対処していくべきか」という古くて新しい問題が俎上に上がり、倭国の朝廷内で明確な方針が定まらなかったからではないだろうか。(そして、それが乙巳の変の遠因になっていくと私は考えている)

河上氏は、倭国が冊封を求めなかった理由としてあげられる「倭国にとって百済や新羅は臣属国であり、冊封を受けて彼らと同列に扱われることは避けねばならなかった」(『古代日中関係史』 pp.93-94)という解釈を、中国サイドの冊封へのスタンスの分析によって否定した。
しかしながら、私がいうように、隋や唐がどういう意向であれ、冊封を要求されるかもしれないという懸念を倭国サイドが抱いていたとすれば、この理由づけはなお説得力があるといえよう。

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古代史メモ(3) 続・河上麻由子著『古代日中関係史』の衝撃

前回に続き、刊行されたばかりの『古代日中関係史』(河上麻由子)をみていこう。

「600年頃から、隋は東アジアへの冊封に熱心ではなくなっていくようである」(p.97)という河上氏の考察は前回みたとおりだが、唐代においても「唐が隋よりも諸国王の冊封に熱心だったということは決してなく、倭国に朝貢使の派遣は求めても、冊封を受け入れるよう積極的に働きかける必然性が唐にはなかった」(p.116)とする。
その議論では、これまで冊封とのからみで解釈されてきた632年の唐使・高表仁との「争礼」の問題について触れている。
この「争礼」とは何であったのか。根強く支持されていたのは、倭国が会見儀礼における対等を主張して、唐の冊封を拒否したとする解釈である。冊封の拒否が事実であったとすれば、事はきわめて重大である。そこでかつては、なぜ唐は倭国の離反を黙認したのか、という視点から「争礼」が議論されてきた。(p.113)
河上氏は先達の説をもとに、「争礼」とは「儀礼の場で、唐の使者と諸国王とが、上下をめぐって争うこと」(p.113)としたうえで、「日本が唐の冊封を拒否したという議論は、唐は日本を冊封せねばならなかった、という前提があって成立する」(p.114)という”そもそも論”から、唐サイドの事情を考察すべきことを提唱する。

河上氏は、朝鮮三国(高句麗・百済・新羅)が唐建国後ほどなく朝貢を開始していたにもかかわらず、624年になってようやく三国を同時に冊封したことについて、「唐の対外政策が転換したから」(p.114)とみる。そして、その転換にかかわった人物として、裴世清と同族で「隋の煬帝に仕えて西域政策に功のあった人物」であり、隋滅亡後621年から唐に仕えていた裴世矩(はいせいく)に注目する。
隋の時代に裴世矩は、漢の時代に郡県制が敷かれるなど、かつては中国領であったことを理由に、高句麗の討伐を進言していた。建国されたばかりの唐は、隋の東アジアの政策を発展的に継承しようとしている。ここに、郡県制に編入されたこともなく、隋の時代に冊封を受けたこともない倭国を冊封する必要はない。(p.116)
そして、くだんの「争礼」については、「儀式の場における上下が争われたにすぎない」のであって、唐が倭国を冊封しようとし、倭国がそれを拒否したという「事件」ではない、と結論づけている。(p.116)

以上は『古代日中関係史』のなかで私のこれまでの説にかかわってくる部分をまとめてみただけで、河上氏の考察のすべてではない。

私の説とのかかわりについては回をあらためて触れたいが、ここで私の感想を手短にいえば、古代における日中関係(氏はあえて「外交」という表現を避けている)を考察するにおいて、安易に「対等」という表現を使用するのは控えるべきだろう。
私自身も最近の記事(孝徳はなぜ早々に遣唐使を送らなかったのか 大化改新の方程式(172))では、「対等外交」というのは言い過ぎだと認めつつも、「倭国側の認識としては、“対等”と言っても差し支えない」としている。その点は見直しが必要だ。

しかしながら、古代日本の外交姿勢について「国家の面子を重視しない」(p.242)とまで言い切っていいのだろうか。
上でリンクした記事内での表現だが「中国によって朝鮮諸国より上位の国として認知される“大国”」を志向するがゆえに優先すべき面子が、当時の倭国・日本のリーダーたちには存在していた、と私は考えたい。

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古代史メモ(2) 河上麻由子著『古代日中関係史』の衝撃

この期に及んで、まったくタイムリーな新書がでてしまった──『古代日中関係史』(河上麻由子)である。
帯にあるように「日本は対等を主張し続けたか」がメインテーマであり、その結論は以下のようにまとめられている。
古代の国家間交渉とは、本文で述べてきたように、実際には国家の面子を重視しない。交渉の目的が達成されればよいのであって、交渉プロセスにおける対等や、結果として構築された関係が対等であるか否かは、必ずしも重要とされなかった。(p.242)
私の説の根本にある「大唐コンプレックス」や「対等外交のためのエビデンス」といった考えを吹き飛ばしてしまう衝撃的な内容である。
その内容からして、そしてまた「新書レベルの知識で古代史の謎に迫る思考実験」という本ブログの趣旨からして、この著作を無視して私の「大化改新の方程式」を先にすすめることはできないだろう。

もちろん河上説の射程は、私のような市井の古代史研究家のトンデモ説の一掃だけでなく、近年見直しがなされているとはいえなお通説的な地位にある西嶋定生氏の冊封体制論への反証でもある。
〔……〕なぜ、倭国は隋に冊封を求めなかったのか。
冊封をキーワードに東アジアを一つの世界として理解しようとした西嶋定生は、この問いに以下のように答えている。第一に、天下の支配者たる倭王は、隋皇帝と対等であらねばならなかった。第二に、倭国にとって百済や新羅は臣属国であり、冊封を受けて彼らと同列に扱われることは避けねばならなかった。
だが、本当にこの二つの理由からであったのだろうか。(pp.93-94)
第一の理由を検証するために河上氏は、隋皇帝を「菩薩天子」と称賛している遣隋使の発言から、仏教を介した国家間交渉を目指したと捉えるべきであるとする。
その文脈では「日出処の天子…」の書状に登場する「天子」は、中華思想におけるそれではなく、仏教において「神々の守護を受け、神通力を得て、仏法を広め、よく衆生を教化する国王」に認められた尊称であり、複数存在しえるものである。したがって、倭国の書状の表現をもって対等外交を目指したものと決めつけることはできない。隋皇帝が不快に思ったのは、倭国が対等を主張したからではなく、仏教後進国の倭王が仏法における「天子」を名のることが不遜だったからなのである。(pp.87-90)
そして河上氏は、彼我の国力の圧倒的な差に言及しながら、「政治的にも、軍事や文化活動を支える経済の面でも、仏教をはじめとする文化の面でも、倭国は随に対抗できるレベルにはない」と倭国自身が自覚している以上、「隋との対等な関係を目標としたために冊封を要求しなかったとはいえない」としている。(p.96)

倭国が隋に冊封を求めなかった第二の理由、すなわち、冊封を受けることで百済と新羅と同列に扱われることを避けたという説について河上氏は、「冊封はすでに不要な時代であった」としてこれを退けている。
その証拠として、隋皇帝・文帝が598年に遼西に侵入した高句麗王の官爵号を剥奪した後、冊封に関する記録がないこと、また同様に600年前後に相次いで即位した百済王に対しても冊封の記事がないこと、さらに604年に即位した煬帝の時代にも朝鮮諸国への冊封の記録がないことをあげ、「600年頃から、隋は東アジアへの冊封に熱心ではなくなっていくようである」として、「すでに隋が東アジアへの冊封を行っていないなか、倭国が隋に冊封を要求しなかったのはむしろ当然である」としている。(pp.97-98)
さらに、倭の五王の時代と異なり、倭国内の支配を安定化させる手段としての冊封は必ずしも不可欠ではないとし、「国内支配という観点からも、朝鮮半島諸国との競合という観点からも、倭王権にとって冊封は不可欠なものではなくなっていたのだ」と結論づけている。(pp.98-99)

冊封ありきで論をすすめるすべての説に対して、再検討を促すに十分な論考であることはまちがいない。
そして、それが私の説にどうかかわってくるのか、それを見極めるためにも次回も引き続き河上説を追っていくことにしたい。

黒麻呂の物語の続きはしばしおあずけということで m(_ _ )m

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大化改新の方程式(181) 白雉の遣唐使に託されたミッション

日本書紀の本文では高向玄理ら白雉5年の遣唐使の出立時期を「2月」としているが、玄理のみ「5月」とする異伝(或本に曰く)が紹介されている。そして、本文での玄理の冠位は天智3年のもので追記されているが、異伝では大化5年の冠位である。
一方、出航の日時(5月12日)まで明記されている吉士長丹ら白雉4年の遣使では、大使と副使はすべて大化5年の冠位だ。

この異伝の存在は、高向玄理が白雉4年5月、すなわち吉士長丹たちと同時に出航を予定していたと想定すると、うまく説明できると私は考えている。(もちろん、それをもって同時出航が予定されていた証明になると主張するつもりはないが)

その理屈とは… 
  • 2つのグループの出航“予定”をもとにそのまま「4年5月出航」とする古い文書が残っていた。
  • それが記録された段階では、吉士長丹ら「呉唐の路」ルートのメンバーはほぼ確定していたが、「新羅道」ルートは高向玄理しか確定していなかった。(この遅れこそが次のトピックであるのだが)
  • 当然、その出航予定をもとにした乗員リストではそれぞれの冠位は当時(大化5年)のもので記されていた。
  • 後年、玄理らは翌5年に出航した事実を知っていた異伝(或本)の作者が、この古い文書を参照するにあたり「高向玄理の遣使は5年の誤りだろう」として、「5年5月出航」と改めた。
  • 日本書紀の編者は、この或本の記述のうち、吉士長丹らの出立時期および冠位については本文に採用し、高向玄理については異伝として残した。
吉士長丹らの記録については別の原資料があったかもしれないが、高向玄理に関する本文と異伝との齟齬についてはいちおう辻褄が合う。
日本書紀は正史としては珍しく、異伝を併記する編集方針をとっている。異伝の存在理由が真実への扉を開くカギとも、トンデモ説へ誘うきっかけともなる。このたびはいかがであろうか。

さて、これまで回を重ね、以下の仮説について展開してきた。

吉士長丹ら白雉4年の遣唐使と高向玄理ら白雉5年のそれは、前者が数多の留学僧・留学生の運搬、後者が朝貢をそれぞれ担うという1つのプロジェクトのもとで編成され、ともに白雉4年5月の出航を予定していた。そして、前者は百済沿岸から黄海に乗り出す「呉唐の路」ルート、後者は新羅領を陸路で通過する「新羅道」ルートを経てそれぞれ入唐するということも、早い段階から決まっていた。

十分な論証がなされたと言うつもりはないが、1つの可能性としてこれが事実だとすると、何が見えてくるのだろうか?
というより、倭国朝廷は何を見せたかったのか、と問うたほうがよいかもしれない。

「言葉につくせない」ほどの規模と先進性を誇る難波宮が竣工、満を持して編成された遣唐使に託された使命は、朝貢貿易や留学僧・留学生を介した中国の文物の摂取だけではないだろう。 
朝鮮諸国から「大国」扱いされる国が絶域の空間に存在していることを、中国朝廷に認識せしめることが、このプロジェクトの隠されたミッションだったはずである。
それは、大唐との「対等外交」のためのエビデンスたりえる難波宮の建設に始まる国づくりの第一歩となるものだ。
だからこそ、はじめからつまづくわけにはいかない。

そこで倭国首脳、具体的には高向玄理が考えたシナリオとは…

後年の「南路」のような倭国独自の渡航ルートがいまだ開拓されていない当時、どのルートをとろうが百済あるいは新羅にサポートされる(場合によっては入唐時まで随伴される)事態をまねく。それでは、倭国について十分な情報をもたない中国朝廷からは倭国が朝鮮諸国より下位にみられる可能性が高い。
だがここで、激しく争っている百済と新羅が競うように倭国の入唐をサポートする状況を演出することができれば、中国朝廷には倭国はどう映るであろうか?
それは、中華たる隋や唐が冊封下にある国々の争いを調停するかのように、倭国が朝鮮半島の争いに干渉できる立場を印象付けることになろう。
そして後日、唐の答礼使、そしておそらくそれに随伴してくるであろう百済と新羅の送使たちが難波宮に臨んだとき、彼らは、倭国の朝鮮諸国に対する優位的立場は単に地政学上のアドバンテージに由来するものだけではないことを実感するであろう──。

もちろん、すでにトラウマとなった第1回遣唐使の失敗例がある。
再び唐使と儀礼上の争いを招き、冊封を受けざるをえなくなる事態も予想されよう。
しかしながら、それにそなえた秘策が高向玄理にはあった。だからこそ、わざわざ新羅の領内を通って入唐するルートを選んだのである。

もはやフィクションの領域にはいりつつあるが、続きは次回。


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大化改新の方程式(180) なぜ白雉4年の遣唐使は「呉唐の路」を選んだのか

なぜ白雉4年の遣唐使は「呉唐の路」、すなわち百済領の海岸から直接黄海に乗り出し、中国の長江河口を目指すルートを選んだのか。

私は、その理由として2つあげたい。

その1つは、この遣使が、自力で東シナ海を横断するための造船技術・航海術を獲得するための最初の試みであったという点だ。
言うまでもなく、そのノウハウは、702年の大宝の遣唐使から始まる「南路」派遣に結実することになる。(もちろんその間、白村江の敗戦で大量の百済遺民とともにさらなる技術の流入があったことも忘れてはならない)

ではなぜ、自力で東シナ海を横断するノウハウが必要とされたのであろうか。

その理由には、百済船建造を命じた650年の前年に唐・太宗崩御によって高句麗遠征が中止されたばかりで、いまだ唐麗戦争のなりゆきが不透明だったことがあげられるかもしれない。
しかしながら、高向玄理率いる白雉5年の遣唐使は「新羅道」を通って入唐している。私が論じたように「新羅道」が陸路であったとしても、あるいは、通説のように狭い意味での「北路」であったとしても、遼東半島近くの黄海を横切るわけだから、戦禍を免れるためという理由づけには無理があろう。

やはり別の理由が必要となる。

ところで、明白な根拠があるわけではないが、それまでの遣隋使にしろ遣唐使にしろ、朝鮮半島を中継地として渡航していたので、必ず百済あるいは新羅のいずれかの国が随伴して中国入りしていたのではないかと私は考えている。
それは、倭国にとって慣れない海域での渡航の安全を保障してくれる利点はあるが、同時に倭国使節団の動向はすべて百済や新羅に筒抜けであったということを意味する。また、百済や新羅にすれば、中立的立場にある倭国を随伴することで敵国からの攻撃を避けながら中国と通交することができるというメリットもある。
さらに、以前の記事(続・『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』からの示唆 大化改新の方程式(170))で紹介したように、「重訳外交」における随伴国は中国朝廷からの評価もあがるであろうし、倭国に関して十分な情報が中国朝廷にない場合は、倭国が百済や新羅より下位の国として認識されることにもなりかねない。
そうした機会を朝鮮諸国が見逃すはずはないだろう。

後年、粟田真人に率いられた大宝の遣唐使が当初より五島列島から東シナ海に直接乗り出す南路をとったのは、こうした足枷を払拭するためであったのではないだろうか。
粟田らが南路をとった理由の通説的見解では、半島を統一した新羅との関係が悪化したことがあげられている。だが、大宝の遣唐使が実施された700年代初めはまだ両国の関係は良好であったことから、この説は採用しがたい。
中国との「対等外交」を目指す倭国にとって、半島諸国の干渉がはいる遣使を避けたいという意向が働いていたのは、南路開拓の一番の理由であったとみるべきだ。
誇張した言い方ではあるが、650年の百済船建造の命は、自力で東シナ海を横断し中国と通交するという、いわば国家百年の計を見据えた施策であったのである。

もちろん、最初の一歩として、百済の全面的な協力なしでは実行できないものであった。
“任那”の調の件で譲歩したたうえで技術援助を請い、黄海横断は百済沿岸を起点している。おそらく遣使船には百済の航海士が支援のために乗り込んでいたにちがいない。

余談ながら、百済にとっても、倭国の唐への遣使に技術支援したことが外交上大きな転機だったことは、『三国史記』百済本紀の義慈王13年(653年)8月条に「百済、倭国と国交を結ぶ」という記録があることからうかがえる。日本書紀ではすでに651年から百済の遣倭使が再開されたとされているが、百済側では、この653年の倭国遣唐使の渡海成功(一隻は難破したが)をもって倭国との関係修復が成ったとみなしていた証左といえるであろう。

なお、同じ年に倭国では、中大兄皇子が母・宝皇女とともに飛鳥への遷都をはかったことから、倭国では2つの政権が並びたち、百済との国交再開は飛鳥の新政権とのあいだで実施されたという見方もできるかもしれない。
しかしながら、百済との関係修復は650年の段階ですでに目論まれていたことを考えると、中大兄皇子らが親新羅の孝徳政権を尻目に独自の外交交渉をすすめていたとは考えがたい。もちろん、後でみるように、百済との国交回復が宝皇女を大いに刺激したことは間違いないことではあるが…。

白雉4年の遣使についていえば、百済のあからさまな支援の上で実行していることは、実は、倭国が意図的に仕掛けた施策であったと私はみている。
これが、白雉4年の遣唐使が百済経由の「呉唐の路」を選んだ理由の2つ目となる。
そこには、白雉4年と白雉5年の遣使が同じプロジェクトのもとで編成され、同じ年に入唐する予定であったからこそ意味をもつ、「重訳外交」を逆手にとった、ウルトラC級(死語か?)の外交戦略のシナリオがあったのである。

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大化改新の方程式(179) 遣唐使再開プロジェクト始動

難波宮竣成までのおよその工程が確定した650年、いよいよ遣唐使再開プロジェクトが立ち上がった。
新生倭国の威信を示すため、大型船による使節派遣は当初より目論まれていただろう。その大型船こそが、百済式の船舶であったわけだ。
そして、2船の建造を命じていることから、遭難リスクを念頭においた航海を企図していたと思われる。プロジェクトの初めから、比較的安全とされる従来の「北路」、すなわち朝鮮半島西岸を北上し甕津(おうしん)半島付近から黄海を横切って中国の山東半島を目指すルートは選択肢にはなかったのである。
日本書紀には白雉4年の遣使ルートを断定できる記録がない。だが、後でみるように、百済船を建造したこと、加えて、彼らが「西海使」と呼ばれていたことから、百済が入朝コースにしていた、東シナ海(正確には黄海の南境に沿った海域)を横切るルートであったことが推定される。当然ながら、この航路はそれまでの倭国の(あくまで公的な)船舶が経験したことのないものだ。

その大型船の建造と運用のノウハウを獲得するため、百済との関係改善が不可欠になった、と私は考えている。
ではなぜ、蜜月の関係にあった新羅ではなく、あえて国交断絶状態の百済なのか。

あくまで私見だが、当時、東シナ海横断に耐えうる船舶建造と運用において、百済は新羅を格段に凌駕していたのではないだろうか。(これをテーマにした学術文献があればご教示ください)
すでに4世紀半ばには百済は中国南朝(東晋)への接触を図っている。そのときは南朝が山東半島を領有し、百済もまだ高句麗の南下政策を押し返すだけの勢力があったため、(倭国の遣唐ルートで言えば)「北路」での通交が可能であったが、5世紀半ばに山東半島が北朝に占領され、百済自身も高句麗の攻勢で南方への遷都を余儀なくされた後は、南朝への朝貢のために朝鮮半島南西の海岸から直接黄海を横断し長江河口を目指すルートを開拓せざるを得なかったであろう。それが結果として、百済における造船技術と航海術の飛躍的発展をもたらしたのではなかったか。
以下の引用にも登場するが、推古天皇17年(609)に、中国江南からの帰途、九州に流れ着いた百済の船が90人近くを乗せていたという記録がある。百済はすでに大型船で黄海、さらには東シナ海へ乗り出していたことの証左であろう。

一方の新羅は、6世紀半ばに初めて朝鮮半島西岸(党項城)への道を確保し、中国へ積極外交を展開できるようになった。ただ、党項城からの遣使ルートは比較的安全な海路である一方で、高句麗船による襲撃を警戒する必要があり、大型船よりは小回りのきく高速船の需要のほうが高かったであろう。
外海に乗り出す大型船舶の建造・運用のノウハウにおいて、百済との100年以上の差はなかなかに縮まらなかったにちがいない。

優れた造船技術と航海術を欲する倭国と、前回触れたような状況下の百済との利害が一致したのが、651年の百済からの倭国への遣使再開として表われたのである。
そこでは、百済からの技術支援とバーターで、“任那”の調の要求を取り下げることが倭国側の譲歩としてあったであろう。
以後、日本書紀の記録に、“任那”はいっさい登場しない。

ところで、さきほど白雉4年の遣唐使の渡航ルートについて「断定できる記録がない」としたが、百済からの技術導入はそのルートを推測するヒントである。
これについては東野治之氏の『遣唐使』に詳しく論じられている。長くなるが以下に引用しておこう。
〔……〕百済の造船技術が導入されたことを考えれば、百済が大陸との往来に使用した航路との関連を考慮したほうがいいだろう。百済は、中国がまだ南北に分裂していた時代から、盛んに南朝に使節を送り、親密な関係を築いていた。北に高句麗や北朝があったことからすると、その入朝コースは、百済沿岸から出航して、北朝の版図を避け、直接長江河口あたりを目指すものだったと思われる。呉国(江南地方)に遣わされた百済の使いが、推古天皇16年(608)〔引用者注:推古天皇17年(609)の間違い〕4月、暴風にあって九州に漂着したことがあったが(『日本書紀』)、この事件は、隋代になっても百済がそのコースを使って中国と交流していたことを物語っている。
少し後のことになるが、第4次の使い(659)は、一旦、朝鮮半島の南端の島に至り、そこから転じて大陸へ向かっている(『日本書紀』斉明5年)。「呉唐の路」に遣わされたとあるように、大陸でも華南を目標にした旅だった。これは想定される百済の入貢路に極めてよく似ている。第2次や第4次の遣唐使は、百済経由のこうしたルートを利用したのではないだろうか。第2次の船2隻に、それぞれ「送使」が付けられているのも、百済へ送り届けるための使者とすれば理解しやすい。第4次の使いが、後のように五島列島からではなく、筑紫の「大津」(博多)から最終的に出発したことも、百済とのつながりを示すように見える。したがって、これらも広い意味での北路だったというべきだろう。(pp.60-61)

白雉4年の遣唐使がこのルート、すなわち「呉唐の路」をとったと言える、もう1つの根拠として、彼らが「西海使」と呼ばれていたことをあげることができる。
日本書紀では、孝徳紀の白雉4年の遣唐使を「西海使」、一方で斉明紀での遣百済使(斉明2年・3年。4年は3年の記録の再掲)も「西海使」と呼んでいるので、一見意味不明な呼称にみえる。
実は古代朝鮮の史書である『三国史記』に何度も出てくるが、黄海は「西海」と呼ばれていた(現在もそうなのかは不明)。とすれば、倭国では九州から対馬を経て黄海=西海に出るルートをとる遣使を「西海使」と呼んでいたと考えると辻褄が合う。百済の国都・泗沘(しび)に向かうにしろ、朝鮮半島南岸から中国の長江河口を目指すにしろ、倭国の船が西海に乗り出すことに変わりはないのだから。
「黄海を横切る」が、狭い意味での(本来の意味での)「北路」ではないとすれば、それは「呉唐の路」以外にないであろう。

ただし、白雉5年の高向玄理らの遣唐使については、最終的には党項城から黄海を横断したにもかかわらず、「西海使」とは呼ばれない。なぜか?
おそらくそれは、「西海」を横断するのが倭国の船ではないからだ。私の推測では(押使・黒麻呂が通った「新羅道」 大化改新の方程式(165)参照)、高向玄理らは対馬から半島西岸を目指すルートをとらず、新羅に上陸した後、陸路=「新羅道」をすすみ、党項城からは新羅の船で入唐したことになる。

ではなぜ、白雉4年の遣唐使はわざわざこの危険なルートを選んだのであろうか。
翌年の高向玄理が新羅領の党項城を経由することができたのなら、白雉4年の遣唐使も本来の意味での「北路」をとって入唐すればよかったはずである。
徐々にトンデモの気配が漂ってきたが、次回以降、いよいよ「白雉の2つの遣唐使の謎」の本題にはいることになる。

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大化改新の方程式(178) 断絶状態だった対百済外交

孝徳期では650年ごろまで百済とは国交断絶状態だったというのが私の考えだ。
どうしてそのように言えるのか?

過去の記事(乙巳の変の背景(5)~親新羅派の排除 大化改新の方程式(149)、さらにかなり遡るが、「韓政に因りて」の中身(2) 大化改新の方程式(108)を参照)で乙巳の変に至る外交上の確執について触れてきたが、そのポイントをまとめると以下のようになる。
  • 642年の百済・義慈王による旧加耶地域占領にともない、皇極政権はそれまで新羅に負わせていた “任那”の調の肩代わりを百済に期待したが、渋る百済との外交関係がぎくしゃくしていた。
  • 煮え切らない百済に対して新羅との関係を深めようとする軽皇子の一派が台頭してきた。
  • 645年6月、皇極政権首脳は一定の譲歩のもと百済と手打ちを行うと同時に、親新羅派の一掃を図ったが、その矢先に軽皇子の一派によるクーデターが決行された。
  • 乙巳の変で誕生した孝徳新政権は百済に対し“任那”の調の肩代わりをあらためて強硬に迫る一方で、親新羅の態度を鮮明に打ち出した。
これこそが日本書紀が分注で「韓政に因りて」とコメントしている内実ではないだろうか。
一見、ストーリーありきのトンデモ的展開のようだが、さきにあげた過去の記事でみていただくように、当時の外交儀礼のプロセスと日本書紀の記述を照らし合わせることで浮かび上がってくる、理窟のうえでは筋の通った展開だと私は考えている。もちろん「親新羅派の一掃を図った」とするくだりは軽皇子らに決行を迫らせる事情があっただろうという想定のもと、1つの可能性として描き加えたものであるが…。

では、その後百済との関係はどうなったであろうか。

前回掲出した年表をみてもらいたい。
乙巳の変の翌年(646年)には再び朝鮮三国の面々が「高麗(=高句麗)・百済・任那・新羅」として記載されているが、その順番に注目したい。 “任那”は百済の次に記述されている。新羅が“任那”の調を兼ねていたときは「百済・新羅・任那」という順で記述されている(舒明10年この年条)ことから、646年には百済が“任那”の調を兼ねて遣使したことがわかる。すなわち、倭国のクーデター政権に強要された“任那”の肩代わりをこの時も演じてみせたわけだ。
しかしながら、その翌647年には高句麗と新羅からの遣使があるが百済からはなく、次に百済から遣使があるのは651年だ。(なお、白雉元年4月条の或本云に「孝徳天皇の治世では高句麗・百済・新羅三国が毎年遣使して貢を献上した」とあるが、舒明期や皇極期に比して毎年いずれかの国から遣使があったので、そのように述懐した記録があったのであろう)

この間の事情を察するに、645年に誕生した孝徳新政権から“任那”の件で叱責された百済は、渋々翌年も“任那”の調を兼ねた使節を倭国に遣わした。しかしながら、再び難癖をつけられたあげく、新羅には“任那”の調を廃止するという大盤振る舞いをする倭国の態度に腹をたてた百済が、647年以降倭国との通交を中止した、ということではなかろうか。
すなわち、この後数年間、両国は国交断絶状態に至ったのである。

一方この間、新羅からの遣使は毎年行われている。
すでにみたように、難波宮建設のための技術導入をめぐり新羅との関係が蜜月だったのがこの時期だ。
とくに金多遂が来倭した649年はその頂点といえよう。
だが、その翌々年の651年6月条に百済からの遣使が再開され、以後毎年続く。

さて、どういう事情で倭国と百済はよりを戻したのであろうか。

両国の歩み寄りのきっかけとして百済サイドの事情は年表から容易に察せられる。
649年百済は唐の太宗・李世民が没したことを好機として新羅領内に大攻勢をかけたが、大敗を喫している。その新羅は唐の衣冠を服し(649年)、年号も唐制に改め(650年)、親唐路線を鮮明にすると同時に、倭国との関係も密にしつつあるという情報を得ていたであろう。
最悪の事態として、唐を後ろ盾にした新羅と倭国の連合軍が百済に侵攻してくることも想定されたにちがいない。
実際、651年には倭国への遣使を再開すると同時に、唐への朝貢を行っている。

一方の倭国にはどういう事情があったのであろうか。
言うまでなく、650年の百済船建造を命じた記事が、その事情を語ってくれるのである。

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大化改新の方程式(177) 650年百済船建造が示唆するもの

前回の記事について、「白雉4年(653年)の吉士長丹らの遣唐使と白雉5年(654年)の高向玄理らのそれはもともと同じ時期に出発を予定していたものであった」という結論に至る理由がはっきりしないというご指摘をいただいた。
実は自分でも納得いく根拠が示せれなかったので煙に巻いた展開にしておいたがバレバレでした…。
「思考実験」を謳い文句にする以上、不確かなところはそれと認めつつ丁寧にすすめるべきでした、反省。

ということで、証拠不十分であることを承知のうえで、現時点でこの疑問に答えうる推論をまとめると以下のようになる。
唐側の記録には白雉5年の遣唐使はあって4年はない。
→ 中国は留学生・留学僧の入国について正史に記録を残さない。
→ 白雉4年の遣唐使は留学生たちの運搬のみを担っていたので記録が残らなかったのではないか。
→ 朝貢使としての役割は白雉5年組だったろう。
→ 両者が全体として1つの遣使プロジェクトであった。
→ 同じタイミングに任命され、また出航も同じ時期を予定していたにちがいない。

では、なぜ高向玄理ら白雉5年の遣唐使は出航が遅れてしまったのだろうか。
そして、なぜ彼らは「新羅道」を使って入唐したのだろうか。

以前の記事(押使・黒麻呂が通った「新羅道」 大化改新の方程式(165))で示したように、私は高向玄理ら一行がとった「新羅道」は、通説でいう「北路」すなわち朝鮮半島西岸を北上するルートではなく、半島内陸を新羅の王都・徐羅伐(ソラボル、現在の慶州)から党項城へ北西に横断するルートだったと考えている。
これが正しいとすると、白雉5年の遣唐使で使用する倭国船は従来の朝鮮半島を通交する船舶で十分だったはずだ。

冒頭で紹介した疑問には、巨額の費用がかかる遣唐使を同時に2便(つまり4隻)も送るのはそれなりの理由が必要というご指摘もあったが、2便のうち1便はそれほど費用のかかるものではなかった、というのが私の回答となる。(もちろん朝貢品の調達など別の意味での費用はかかっているが)

白雉4年の遣使は120人乗りの大型船2隻で構成されているので、白雉5年のそれも同じ規模で編成されたと思われがちだ。
しかし実際には、後者の規模については日本書紀はまったく触れていない。また、白雉5年の遣使は2船構成とはいえ「分乗した」という表現を使っていて、白雉4年のものとは明らかに異なった編成を示唆している。

白雉4年と5年の船種が別物という証拠と言えるのが、「この年、安芸にて2隻の百済船を建造」という日本書紀での650年の記事だ(以下の年表参照)。発注されたのは2隻であって、4隻ではない。
たしかにこのとき建造された船が白雉4年に使用されたとは書紀のどこにも書かれていないが、わざわざ記事として記録している以上かなりの大型船であること、また後で検証する白雉4年の遣唐使の渡航ルートから考えて、ほぼ間違いないであろうと私は考える。

この百済船が白雉4年の渡航に使用されたのが真実だとすると、以下のことが言える。
まず第一に、すでに650年の段階で遣唐使再開の準備を始めたこと。
さらに、その建造と運用のために国交断絶状態だった百済との関係修復が図られたこと。

後者については説明が必要であろう。

が、話をすすめる前に、今後の議論の参照用として、以前まとめた641年から660年の外交関係を中心とした年表から孝徳期にあたる645年から654年までの10年を抽出しておこう。
※黒字:朝鮮三国の歴史書である『三国史記』の記事
 緑字:日本書紀に記された倭国での主要事件と外交関連記事
 赤字:日本書紀には対応する記事のない中国側の記録
 下線:今回の考察にとってポイントとなる出来事

---645年---
【正月】新羅、唐に朝貢
【5月】百済、唐が新羅軍を徴発したのを機に、新羅へ侵攻し7城下す
【6月】倭国でクーデター(乙巳の変)、皇極天皇譲位、孝徳天皇即位。大化に改元
【7月】高句麗・百済・新羅が倭国へ遣使。百済使は任那使を兼ねる
【9月】唐の太宗、高句麗遠征軍の撤退を指示(高句麗親征の失敗)
【9月あるいは11月】倭国にて古人大兄皇子の変
【11月】新羅の善徳女王が毗曇を上大等(貴族の合議機関の首座=宰相)に任命
---646年---
【正月】倭国にて改新の詔
【2月】高句麗・百済・任那・新羅が倭国へ遣使
【5月】唐の太宗、高句麗から謝罪のため献上された美女2人を送り返す
【9月】倭国が高向玄理(黒麻呂)を新羅へ派遣。「任那の調」を廃止する代わりに「人質」を倭国に差し出す交渉をまとめる
---647年---
【正月】高句麗・新羅が倭国へ遣使
【正月】新羅の善徳女王、「女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」を唱える毗曇による反乱のさなかに崩御。金庾信らが真徳女王を擁立し、乱を平定
【2月】新羅の真徳女王、唐から「柱国・楽浪郡王」に冊封
【7月】唐軍が高句麗北方に侵攻(高句麗への再征開始)
【10月】新羅が領内に侵攻した百済軍を撃退
【12月】高句麗、王族を唐へ遣わして謝罪
【この年】倭国から新羅へ派遣されていた高向玄理(黒麻呂)、「人質」として金春秋をともない帰国
---648年---
【正月】高句麗、唐に朝貢
【正月】百済、唐に朝貢
【正月】新羅、唐に朝貢
【正月】唐軍が海路より高句麗侵攻
【2月】倭国、三韓(高句麗・百済・新羅)へ学問僧派遣
【3月~4月】百済と新羅による新羅西辺での攻防
【4月】唐軍が海路より高句麗侵攻
【9月】唐軍が海路より高句麗侵攻
【閏12月あるいはこの年】新羅の金春秋とその息子(金文王)が使者として唐に朝貢。金春秋が唐の太宗に新羅の苦境を直訴。金文王は唐の太宗の宿衛として唐に留まる
【この年】新羅、倭国へ遣使
【この年】倭国、新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせた
---649年---
【正月】新羅が唐の衣冠を採用
【2月】新羅の金春秋、唐から帰国
【3月】倭国にて蘇我倉山田石川麻呂の変
【5月】倭国、新羅へ遣使
【7月】唐の太宗崩御。高宗即位。太宗の遺詔により高句麗遠征中止
【8月】新羅が領内に侵攻した百済の大軍を撃破
【この年】新羅、金多遂を「人質」として倭国へ派遣
---650年---
【2月】倭国、白雉に改元
【4月】新羅、倭国へ遣使
【6月】新羅、唐に朝貢し百済軍撃破の報告。唐を称える真徳女王の漢詩を織った錦を献上
【6月】高句麗の高僧が国の道教政策に抗議して国外移住
【この年】倭国が安芸にて2隻の百済船を建造
【この年】新羅が独自の年号を廃し、唐の年号を採用
---651年---
【2月】新羅の金仁問(金春秋の息子)が使者として唐に朝貢。唐の高宗の宿衛として唐に留まり、左領軍衛将軍を授けられる
【6月】百済・新羅が倭国へ遣使
【11月】百済、唐に朝貢。唐の高宗、百済に新羅との和親を命ず
【この年】倭国が唐服着用した新羅使を追い返す
【この年】新羅が律令格式を制定する理方府を設置
---652年---
【正月】高句麗、唐に朝貢
【正月】百済、唐に朝貢(※百済からの最後の朝貢記録
【正月】新羅、唐に朝貢
【4月】新羅・百済、倭国へ遣使
【9月】倭国の新都・難波長柄豊崎宮完成
---653年---
【5月】倭国、第2次遣唐使を派遣(2隻・大使2名・送使2名)
【6月】百済・新羅、倭国へ遣使
【6月】倭国、各所の大道を修理
【6月】倭国の僧旻死去
【8月】百済、倭国と国交を結ぶ
【11月】新羅、唐に朝貢
【この年】倭国の皇太子の中大兄皇子ら母・宝姫王とともに飛鳥への遷都をはかる
---654年---
【2月】倭国、高向玄理(黒麻呂)を押使として第3次遣唐使を新羅道経由で派遣(2隻・大使1名)。黒麻呂唐で客死
【3月】新羅の真徳女王、崩御。金春秋が即位(武烈王)
【5月】新羅、理方府格60余条を制定
【閏5月】新羅の武烈王、「開府儀同三司・楽浪郡王・新羅王」に冊封
【7月】倭国の第2次遣唐使の吉士長丹らが百済・新羅の送使と共に筑紫に帰着。唐の皇帝と会見し、多くの文書・宝物を得たことを褒め、授位
【10月】倭国の孝徳天皇崩御
【12月】遣唐使が琥珀・碼碯(めのう)を献上。唐の高宗、倭国に詔勅をもって新羅への援助を要請
【この年】高句麗・百済・新羅が倭国へ弔使

白雉5年の遣唐使の謎に迫る道のりは遠くなる感があるが、次回では孝徳期における百済との関係をみておこうと思う。
今後の議論にとってそれは決して寄り道ではない。

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