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大化改新の方程式(194) 新羅女帝の死の真相

いよいよ2020年。ちまたはオリンピックの話題で騒がしくなるだろうが、古代史ファンにとって忘れてはならないのが、「日本書紀1300年」であること。さらにまた、「藤原不比等没後1300年」でもある。
わが『大化改新の方程式』のいちおうの完成を目指していた年なのだが、どうなることやら…。

【ここでの課題メモ】
黒麻呂が2つの遣唐使に託した隠されたミッションの顛末を語るステージ。今回はそのエピローグのようなもの。
これまで長らく(1年以上にわたって)、高向玄理(黒麻呂)と白雉の遣唐使について考察してきた。その顛末をトンデモめいた話と感じた方にとって、今回展開する内容は、それを通り越してフィクションでしかないであろうこと、あらかじめお断りしておこう。

さて、新羅の女帝・真徳の死が、結果的に黒麻呂の壮大なシナリオを潰えさせたとしたら、ここで疑問なのが、これは単なる偶然なのか? ということだ。

「婦人の王」を戴くかぎり唐から低くみられると危惧している新羅の廷臣たちにとって、女帝を廃したうえ壮麗な王宮を築き、唐との通交に本格的に臨まんとする倭国の動向は、脅威ではなかったか。
倭国が“絶域の大国”として唐に認められ、唐代においていまだ新羅が達していない「上開府・儀同三司」に封じられるとしたら、それは新羅にとって最悪のシナリオではなかったか。

それを阻止するためには、いまここで女帝を廃し、男王を奉戴するしかない──。そう考えた新羅の廷臣たち(の一部)によって、新羅女帝・真徳は弑されたのではないか。

この「女帝殺し」の背景が、647年の毗曇(ピダム)の乱と異なるのは、王位への野心を抱く金春秋と彼を支える金庾信にとってもはや女帝の存在が必要ではなくなっていたことがあると私は考えている。

血統的に劣ることのない金春秋が長らく即位できなかったのは、彼の祖父・真智王に原因があったと思う。
真智王は「在位4年で国政が乱れ、悪行が続いた。そこで貴族たちは彼を廃位した」とされる(『古代朝鮮』井上秀雄p.179)。新羅の版図を拡大した父・真興王の余勢をかった王権強化策に対し、貴族の反発があったのではないだろうか。王権より貴族による合議政体(大等会議)が強い権限を有する新羅においては時期尚早であったのだ。

金春秋はいわば貴族の財産に手をつけたという「忌まわしき血」ゆえに、貴族から警戒され、王位から遠ざけられていたわけだ。

金春秋が高句麗に単身乗り込むほどの無謀な行動をとったのは、娘が百済兵に惨殺されたという恨みからだけでなく、新羅の貴族たちに対するパフォーマンス的な要素もあろう。「忌まわしき血」が流れていないことを証明するために献身的な態度を取り続けること、いわば十分な禊(みぞぎ)と期間が不可欠だったはずだ。

そんな金春秋にすれば、大等会議が彼を認めてくれるまでは、むしろ女王であったほうが好都合であったろう。毗曇や別の王族が即位し、新たな王統が誕生することになれば、彼が王になるチャンスは永久になくなる。だからこそ、彼と金庾信は毗曇の乱に際し、善徳や真徳を積極的にサポートしたのだ。

そしていま、すでに唐帝から「特進」(正二品)の位を授けられた金春秋がいる。王位を継げば、従一品にあたる「上開府・儀同三司」に封じられる可能性が高い。
金春秋と金庾信の暗黙の了解があったかどうかはともかく、黒麻呂率いる倭国の使節が新羅の王都・徐羅伐(ソラボル、現在の慶州)に迫るなか、密かに女帝殺しが決行された──。

黒麻呂の壮大な夢は、新羅女帝の死の真相とともに歴史の闇に消えたのである。

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大化改新の方程式(193) 潰え去ったシナリオ: 新羅女王崩御の衝撃

またしても1か月以上あけてしまいました。ここ4週間、土日もなく仕事に追われる毎日でしたが、本日をもって開放されました。ふーっ、しんどかった。※ちなみに、私の仕事はサンタクロースとは無関係です。
【ここでの課題メモ】
黒麻呂が2つの遣唐使に託した隠されたミッションの顛末を語るステージ。彼が描いたシナリオとは? そして、なぜそれがもろくも潰えたのか。
以前の記事(河上麻由子著『古代日中関係史』を読んで 古代史メモ(4))で私は、「冊封は蕃国から申請して認定を受けるもので、中国側が選考をして認定を与えるものではない」とする倉本一宏氏の説や「倭国に朝貢使の派遣は求めても、冊封を受け入れるよう積極的に働きかける必然性が唐にはなかった」とする河上氏の論に対して、以下のように述べた。
中国との積極的な通交を目指すにあたって、朝鮮諸国が軒並み冊封されているなか、さらに、中国南朝からとはいえ、かつて冊封を受けた事実があるがゆえに、これから未来永劫、中国側から冊封の要求はないと倭国のリーダーたちが楽観視していたとは私には思えない。
私の認識が正しければ、白雉の遣唐使において、半世紀ぶりに中国の文化・文物を直接導入する新時代を迎えるにあたり、倭国の全権大使たる押使・高向玄理(黒麻呂)が、「冊封已む無し」となる事態を想定していなかったとは思えない。

難波宮完成とセットとなった遣唐プロジェクトは、黒麻呂にとって、単に大唐をして倭国は“絶域の大国”だと認識せしめることだけが目的だったわけではない。
それは、万一冊封を強要される事態に備えた一大プロジェクトだったはずだ。すなわち、唐代においては、反唐意識の強い高句麗はもちろん、親唐国・新羅ですら封じられたことがない「上開府・儀同三司」に倭国が先んじて封じられること、それによって、“朝鮮諸国を凌ぐ大国”の地位を不動のものにすることこそが、黒麻呂のシナリオだったのではないか。

しかしながら、そのシナリオは、新羅女王・真徳の死によって、もろくも潰え去った──。

新羅は「婦人の王」の国であることをやめ、黒麻呂らを王都・徐羅伐に留め置くあいだに、唐帝による新王・武烈王(金春秋)の「上開府・儀同三司」冊封を実現してしまったのである。さらには、亡き真徳にも「上開府・儀同三司」が追贈されたのだ。

武烈王が冊封されたのが閏5月。『旧唐書』によれば、さらに遅れること12月になって、黒麻呂はやっと唐帝への謁見が実現し、琥珀・碼碯(めのう)を献上している。
倭国ではすでに7月に、第2次遣唐使の吉士長丹らが帰朝を果たしている。

もはや「激しく争っている百済と新羅が競うように倭国の入唐をサポートする状況を演出する」という効果は完全に失われていた。
そして、新羅王が「上開府・儀同三司」に封じられた以上、冊封を要求されるリスクのある答礼使派遣を要請するインセンティブも失われてしまったであろう。

それでも、黒麻呂がいかに倭国が大国で、朝鮮諸国に頼られているかを示すスピーチのゆえか、「そこまで言うなら、いざとなったら新羅を助けてあげなさい」という唐帝の詔勅によって、新羅に対しては一段上の立ち位置が認められたことは救いであったかもしれない。
ただこのとき倭国では、この詔勅を受けるべき倭王・孝徳はすでに亡く、反黒麻呂勢力によって担ぎ上げられた新女王・斉明の時代に遷ろうとしていたのである。
そして、その詔勅を持ち帰るはずの黒麻呂自身も遠き彼の地にて果てたのである。

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大化改新の方程式(192) 女王の国・新羅

【ここでの課題メモ】
黒麻呂が2つの遣唐使に託した隠されたミッションの顛末を語るステージ。彼が「新羅道」ルートの遣使を強引にすすめた理由、その成功を信じた根拠とは何か。
高向玄理(黒麻呂)ら第3次遣唐使(これまでみたように第2次と第3次は1つの遣唐ミッションだったが、通称どおり「第3次」と呼称する)が経由した「新羅道」は、朝鮮半島西北岸の党項城を目指して新羅領土内をすすむ陸路であり、当然ながら新羅の王都・徐羅伐(ソラボル、現在の慶州)に立ち寄ったであろうことは以前書いたとおりだ。(押使・黒麻呂が通った「新羅道」 大化改新の方程式(165)

それに続く記事(二人の新羅女王の死に居合わせた男 大化改新の方程式(166))で触れたように、日本書紀にいう“留連ふて=長く滞留して”を私は、新羅女王・真徳の崩御に遭遇したため徐羅伐に足止めされていた、と解釈した。

ここで再び、「呉唐の路」ルートの第2次遣唐使から大きく遅れることになったわけだ。
苦渋に満ちた黒麻呂の顔が目に浮かぶようだ。

ところが、黒麻呂にとって大きな誤算となったのは、このさらなる遅延だけではなかった──。

これまで私は、「中国によって朝鮮諸国より上位の国として認知される“大国”」への志向が、倭国外交のブレないゆえに足枷でもあるポリシーと述べてきたが、これは親新羅派である黒麻呂にとってさえ例外ではなかったろう。
なぜなら、この一線を逸脱してしまえば、彼のみならず孝徳政権自体が豪族たちの支持を失ってしまうからだ。
事実、彼の親新羅的な外交運営がこのポリシーを形骸化させるものではないかと警戒されたがゆえに、第3次遣唐使の出立が遅れてしまったのである。
「新羅道」ルートの遣使がこのポリシーに反しないと立証すべきことは、黒麻呂自身が一番認識していたにちがいない。

だからこそ、難波宮を建造しつつ、百済・新羅両国のサポートのもと実施する遣唐使を計画してきたのである。そして、前者は大唐の答礼使を迎えるにふさわしい王宮として完成し、後者についても紆余曲折を経てなんとか実現させたのである。

さらに彼には、もう1つ「朝鮮諸国より上位の国として認知される」ことへの自信があった。
その根拠が、新羅が女王の国である、という事実なのだ。

643年、新羅が高句麗と百済の侵攻に窮して唐へ援軍を求めた際、唐帝・李世民から「婦人の王では隣国から馬鹿にされる」と揶揄されたことは、647年の毗曇の乱の遠因となったのであるが、新羅が女王の国であることは唐の東アジアでの冊封政策にも影響していると私は考える。

河上麻由子氏は「600年頃から、隋は東アジアへの冊封には熱心ではなくなったいくようである」(『古代日中関係史』p.97)とし、「唐が隋よりも諸国王の冊封に熱心だったというのは決してない」(同 p.116)と述べている。
しかしながら私は、隋と唐では冊封への温度差は十分に認められると思う。

隋帝は581年に百済・威徳王を「上開府・儀同三司・帯方郡公・百済王」、高句麗・平原王を「大将軍・遼東郡公」、594年には新羅・真平王を「上開府・楽浪郡公・新羅王」と、いずれも冊封国の地位としてはすでに「大将軍」や「上開府・儀同三司」という“あがり”のレベルに封じている。まさに大盤振る舞いといったかんじだ。
一方、唐においては、624年の朝鮮諸国への冊封は、高句麗・栄留王には「上柱国・遼東郡王・高麗王」、百済・武王には「帯方郡王・百済王」、新羅・真平王には「柱国・楽浪郡王・新羅王」と、上昇の余地を残している。つまり、冊封政策において唐は必ずしも隋のスタンスを継承していたとは言い難い。
さらに、新羅の善徳女王が前代の真平王の官爵を踏襲し「柱国・楽浪郡王・新羅王」として冊封されたとはいえ、即位後4年も経ってのことだ。また、善徳の崩御後に毗曇の乱を経て即位した真徳女王は「柱国・楽浪郡王」として冊封されたが、新羅王としては認められていない。

唐の太宗(李世民)は、冊封のランク付けを重要な外交戦略と位置づけ、女帝に対しては厳しい評価を与えていたのである。
新羅が「婦人の王」を戴くかぎり、いわば“あがり”の「上開府・儀同三司」に封じられることはないと、黒麻呂のみならず、新羅の為政者たちでさえ認識していたはずだ。

ここに、黒麻呂にとって今回の遣唐プロジェクトを成功に導く自信の根拠があったのである。

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大化改新の方程式(191) 黒麻呂のシナリオ~最初の躓き

【ここでの課題メモ】
黒麻呂が2つの遣唐使に託した隠されたミッションの顛末を語るステージ。まずは同時出航にこだわった理由を探る。
以前私は、白雉の2回にわたる遣唐使において高向玄理(黒麻呂)が考えたシナリオとして、以下のように述べた。
後年の「南路」のような倭国独自の渡航ルートがいまだ開拓されていない当時、どのルートをとろうが百済あるいは新羅にサポートされる(場合によっては入唐時まで随伴される)事態をまねく。それでは、倭国について十分な情報をもたない中国朝廷からは倭国が朝鮮諸国より下位にみられる可能性が高い。
だがここで、激しく争っている百済と新羅が競うように倭国の入唐をサポートする状況を演出することができれば、中国朝廷には倭国はどう映るであろうか?
それは、中華たる隋や唐が冊封下にある国々の争いを調停するかのように、倭国が朝鮮半島の争いに干渉できる立場を印象付けることになろう。
そして後日、唐の答礼使、そしておそらくそれに随伴してくるであろう百済と新羅の送使たちが難波宮に臨んだとき、彼らは、倭国の朝鮮諸国に対する優位的立場は単に地政学上のアドバンテージに由来するものだけではないことを実感するであろう──。

もちろん、すでにトラウマとなった第1回遣唐使の失敗例がある。
再び唐使と儀礼上の争いを招き、冊封を受けざるをえなくなる事態も予想されよう。
しかしながら、それにそなえた秘策が高向玄理にはあった。だからこそ、わざわざ新羅の領内を通って入唐するルートを選んだのである。(白雉の遣唐使に託されたミッション 大化改新の方程式(181)より)
こうしたシナリオを想定していた黒麻呂にとって、「新羅道」ルートの出航が「呉唐の路」ルートから10か月も遅れたのは、大きな誤算であったにちがいない。2つのルートの遣唐使が大唐の都に入城するタイミングが大きくずれていては、「百済と新羅が競うように倭国の入唐をサポートする状況」の演出効果を低減させてしまうからだ。

ただ、ここでひとつ疑問があがってこよう──たとえ両者が同時に出航することができたとしても、半島経由のルートが東シナ海を横断するルートよりも大幅に遅れることは必定で、このシナリオを想定すること自体に無理があるのではないか?

実際、同じ「呉唐の路」ルートを経た659年の遣唐使は百済南方の島からたった3日で中国の杭州湾南岸に到着している。遣唐使の全記録をみても「東シナ海の横断に要した純日数は、平均して7日、最長でも16日となっており、1か月もかかることはない」(『遣唐使全航海』上田雄 p.265)。

しかしながら、航海日数は格段に短縮されたとはいえ、全日程が短くなったわけではない。
8世紀以降の事例ではあるが、中国沿岸のどの地に到達するかわからない南路の場合、到着地から近隣の中心都市へ移送されるまでに約1か月かかり、そこから長安または洛陽に向けて出立するまでに1~2か月の間、留め置かれている(『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 pp.27-29)。結局、沿岸到着から都に向かうまでに最短でも2か月を要していることになる。さらに、そこから長安までは2か月から2か月半の道中とされる(同 p.92)。
すなわち、沿岸到着から4か月以上かかって都入りすることになるのだ。

なお、659年の遣唐使の場合、沿岸到着から長安に向けて出立するまでに1か月半かかっているが、その後、長安までは半月の行程だった(その後、皇帝がいる洛陽に向けてすぐに長安を離れている)。8世紀以降の遣唐使と比べて行程が短いのは、多くの留学僧・留学生を同伴していなかったからであろう。朝貢が主体の遣使は比較的早く手続きがすすむものと推測される。

一方、半島経由の場合、百済や新羅によって常用されているルートであれば、中国朝廷との連絡は、多くの場合、彼らが代行してくれるであろうから、どこかに留め置かれるということはないであろう。
実際に、607年の小野妹子による第2回遣隋使は北路を経由したと思われるが、7月に倭国(おそらくは難波津)を出航し、翌4月には筑紫に帰港している。その間9~10か月。裴世清を答礼使に任命するなどの手続きを考えると長安(あるいは洛陽)に滞在した期間がそれなりにあったはずで、その分、渡航に要した期間は難波津を起点としても、長く見積もっても片道4か月であったろう。

在唐期間が長いとはいえ、黒麻呂が上記のような入唐手続きに精通していたとは思えないが、スムーズに入都できるとは思っていなかっただろう。
ましてやほぼ20年ぶりの遣使、しかも公式的には倭国が中国の東シナ海沿岸部を目指して入唐するのははじめてなのである。
一方、「新羅道」は半島内陸部を北西にすすむ陸路であるとはいえ、数多の留学生・留学僧を伴わない朝貢メインの使節である。

「呉唐の路」ルートと「新羅道」ルートが同時に出航しさえすれば、両者の長安への入城のタイミングが大きくずれることはない、と黒麻呂は目算していたにちがいない。

しかしながら、黒麻呂の計画はのっけから躓いてしまった。
そして、さらにこの後、彼にとって最悪の誤算が到来するのである。

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大化改新の方程式(190) 孝徳政権の外交戦略

1か月以上もブランクをつくってしまいました。どうもこの季節は仕事が繁忙期にはいるため更新頻度が落ちてしまいます。ご容赦のほど。
【ここでの課題メモ】
白雉5年2月、「呉唐の路」ルートの遣唐使から10か月近くも遅れて出立した「新羅道」ルートの遣唐使の顛末を語る前に、あらためて孝徳政権の外交姿勢のポイントをおさらいしておこう。
前回まで、長きにわたり、「なぜ白雉の遣唐使は2年続けて実施されたか」について考察してきた。
もともとは、国博士・高向玄理(黒麻呂)が主導する(と私は考えている)孝徳政権の外交戦略がどういうものであったかを考えることであった。

これまで明らかにしてきたことを振り返ってみれば、新政権による“任那”の調の廃止、金春秋の倭国招聘、唐への上奏文の新羅付託といった新羅への一方的な譲歩とさえいえる外交策の背景には、それらのバーターとして難波宮建設に必要な大唐の宮城や礼制に関する最新情報を新羅朝廷経由で提供してもらうという事情があった。

一方で、この新羅への急速な傾斜のゆえ、百済とは国交断絶状態にはなったが、東シナ海横断に耐えうる遣唐使船の建造・運営のために再び百済からの技術援助を請うことで関係を改善している。
おそらくこのとき皇極期から懸案であった百済に対する“任那”の調の肩代わりの要求を取り下げたであろう。

こうした交渉過程は、 “行き当たりばったり” と映るかもしれない。

森公章氏は、大化政権の外交姿勢を「加耶諸国滅亡後から、とくに推古朝以来続く、朝鮮三国に対する等距離外交」(『天智天皇』p.61)と捉えたが、その意味するところは、「日本には(朝鮮)半島領有化のような国策の基本が定まっておらず、「世界戦略」なしに東アジア情勢への関与を行い得る地政学上の好位置に恵まれた歴史が展開した」ため、「変動する国際情勢に個別対応をくり返した感が強い」(『東アジアの動乱と倭国』p.260)と総括されるように、どっちつかずの等距離外交でしかない。

しかしながら、ほんとうにそうなのだろうか。

むしろ私は、河上麻由子氏が『古代日中関係史』で述べた以下のフレーズにシンパシーを覚える。
日本古代の対外交渉は、冷静に状況を判断し、実利を追求する、現在からみればきわめてクールでスマートなものであった。(p.233)
もちろん、以前触れたように、「国家の面子を重視しない」(同p.242)とまで言い切るかどうかは疑問である。私は「中国によって朝鮮諸国より上位の国として認知される“大国”」を志向するがゆえに優先すべき面子が、当時の倭国・日本のリーダーたちには存在していたと考えているからだ(続・河上麻由子著『古代日中関係史』の衝撃 古代史メモ(3))。
だからこそ、そこにはブレない外交方針があるのであって、たとえ等距離外交であったとしても、決して行き当たりばったりの方策ではないのである。

倭国は、森公章氏がいうように「地政学上の好位置」に安穏としていたわけではなく、そのアドバンテージをフルに活用しながら、「鉄素材や金銀銅の鉱物資源の獲得」や「中国大陸・朝鮮半島の先進文化の導入」の確保・拡充に努めてきたのである(倭国が認識していた半島外交上のアドバンテージ 大化改新の方程式(158))。

ただ、“ブレない”がゆえに足枷でもある「中国によって朝鮮諸国より上位の国として認知される“大国”」を志向するというポリシーが、外交の舵取りをむずかしいものにしているのだ。

そして、いよいよ、中国の文化・文物を直接導入する画期を迎えた──そういう文脈のなかで白雉の遣唐使を考える必要があるのではないだろうか。

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大化改新の方程式(189) ネズミが語る「孝徳置き去り事件」の顛末

【ここでの課題メモ】
なぜ白雉の遣唐使は2年続けて実施されたか──。2つの遣唐使はもともと白雉4年に同時に出航する予定だったと読み取れることを前提に、これらが唐朝廷に「絶域に大国あり」と認識させることを狙った一大プロジェクトだったという説に至った。とすれば、次に問うべきは、高向玄理の「新羅道ルート」が1年遅れた理由であろう。その回答は、「孝徳置き去り事件」の真相も明らかにするのではないか…。いよいよこの課題の最終回。
白雉4年(653年)のうちに「公卿大夫・百官」が飛鳥に移動することはなかったという前回の議論の続きとしては蛇足になるが、白雉5年(654年)正月にネズミが飛鳥に向かって移動したことをもって、遷都の前兆だったとその年末に述懐するくだりが日本書紀にある。
もしほんとうに「公卿大夫・百官」の大移動が白雉4年のうちに決行されたとすれば、ネズミで占うまでもなかったはずだ。

さて、日本書紀でのネズミといえば、乙巳の変後の大化元年(645年)12月に遷都を宣言したとき、同年の春から夏にかけてネズミが難波に向けて移動したことを老人たちが思い出し、遷都の前兆だったと語り合ったという記事がある。
この「春から夏にかけて」のフレーズが、乙巳の変の前にすでに難波遷都がアジェンダとしてあがっていたことの証左だとする説が有力だ(それが開明的な蘇我入鹿像の根拠でもある)。

この論法でいけば、白雉のネズミについては、白雉4年の年末にかけて難波から飛鳥への移動に関するアジェンダがもちあがり、それが白雉5年の正月にGOサインが出るに至ったとの解釈ができるのではないだろうか。
もちろん、ここで“移動する”のは、「公卿大夫・百官」ではなく、飛鳥での土木工事に供される人夫たちであるが…。

前回までの議論を前提にこの解釈を敷衍すれば、以下のように「孝徳置き去り事件」の顛末を語ることができよう──。

白雉4年6月の僧旻死去によって先鋭化した反新羅・反黒麻呂の動きは、難波”京”建設のための人夫を飛鳥での土木工事に振り向けることを目論んでいる宝皇女には好都合だった。
宝皇女にとっては外交儀礼の場でしかない難波宮が完成したのならば、倭国の遣使を受けた唐からの答礼使を迎え入れるためにも、早々に飛鳥の祭祀都市化に着手すべきとする宝皇女の主張は、当初は孝徳天皇のみならず群臣の支持すら得られなかったにちがいない。
なぜなら、皇極女帝時代の“興事”が蘇我本宗家の全面的なサポートのもと、王族や豪族たちの部民を強制的に動員することで遂行された記憶はなお新しいものだったろう。

だが、宝皇女が百済から土木事業の技術援助をとりつけたことで、飛鳥での“興事”再開が百済との関係をより親密にさせるという期待から、難波朝廷内の反新羅派、とくに蘇我氏や巨勢氏の有力氏族がこぞって元女帝の構想に賛意を示すようになった。

こうして、難波”京”建設をいったん中断し、人夫を飛鳥へ向かわせることを主張する宝皇女と廷臣たち、一方で遣唐プロジェクトの成功を優先すべきと主張する高向玄理(黒麻呂)、その板挟みに孝徳天皇は立たされるに至った──これが白雉4年5月の「呉唐の路」ルートの遣唐使出立以降、年末までの政局だったのはないだろうか。

そして、白雉5年正月、孝徳天皇が下した結論が、飛鳥での“興事”再開を認める代わりに、「新羅道」ルートの遣唐使を急ぎ編成し出航させる、というものであったのである。

さきほど触れたネズミの記事以外にも、白雉5年正月に事態が収拾に向かったであろうことを示唆しているのが、中臣鎌足が授位・増封されたとする正月5日条の記事だ。
森公章氏は、これについて「飛鳥に戻った中大兄との交渉も模索され、中大兄を支える鎌足に対して、孝徳天皇が何らかの配慮を示すことがあったのかもしれない」(『天智天皇』p.135)としている。
ただ、もしそうだとすれば、鎌足は孝徳サイドの交渉人であったからそれに対する褒賞が与えられたとみたほうが自然であろう。
"中大兄を支える鎌足"像は、この時期において決して所与の事象ではない。

いずれにしても、白雉5年2月、「呉唐の路」ルートの遣唐使から10か月近くも遅れ、高向黒麻呂率いる「新羅道」ルートの遣唐使が難波津を出航した。
この遅れが黒麻呂の誤算の始まりであったが、その後の展開については回をあらためてみていこう。

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大化改新の方程式(188) 孝徳は置き去りにはされなかった

【ここでの課題メモ】
なぜ白雉の遣唐使は2年続けて実施されたか──。2つの遣唐使はもともと白雉4年に同時に出航する予定だったと読み取れることを前提に、これらが唐朝廷に「絶域に大国あり」と認識させることを狙った一大プロジェクトだったという説に至った。とすれば、次に問うべきは、高向玄理の「新羅道ルート」が1年遅れた理由であろう。その回答は、「孝徳置き去り事件」の真相も明らかにするのではないか…。

日本書紀によれば、飛鳥への“還都”には、宝皇女ファミリーのほか、「公卿大夫・百官」が従ったとされる。
これについて、『偽りの大化改新』において中村修也氏は以下のように疑問視する。
もし、百官人たちが飛鳥に移動したことを認めますと、翌5年の正月の儀式や大王が行うべき祭祀などを、孝徳ぬきでどう対処するかの問題があります。私は中大兄が「皇太子」であったとは考えていませんが、もし中大兄が「皇太子」であったとしても、「皇太子」が大王の祭祀や儀式を代わりに執り行うことが可能とは考えられません。そこまで認めてしまうと、古代の大王権力を無視することになってしまいます。(pp.191-192)
中大兄に関する部分はさておき、私も同意見だ。
置き去りにされた孝徳天皇の姿を何の疑問もなくイメージできてしまうのは、孝徳が中大兄の傀儡だったという先入観ゆえであろう。
とはいえ、たとえ傀儡が事実だったとしても、大王が望まない遷都を実行するのであれば、乙巳の変でそうしたように、現大王=孝徳天皇に退位を迫るのが先ではなかろうか。
日本書紀がいうように「孝徳が位を捨てようとした」のが本当であれば、「譲位」の前例があったわけだから、その意向をもとに宝皇女陣営が孝徳を退位させ、彼女が復位すればよかったはずだ。
しかしながら、飛鳥に戻った宝皇女が即位を強行した形跡はない。彼女が即位したのは孝徳が死去した後だ。

もし孝徳が白雉5年(654年)に死ななかったなら、どうなっていたのだろうか。
傀儡とはいえ、元大王や皇太子が好き放題できるほど、古代の大王の座は価値が低いものなのか。そうであれば、それは傀儡を通り越して、単なるお飾りでしかない。
大王権力がその程度のものであったのなら、そもそも乙巳の変を起した中大兄は宝皇女をそのまま大王の座に残しておけばよかったはずである。

以上のように考えると、白雉4年(653年)の騒動は、「公卿大夫・百官」の移動をともなうものではなかったというべきであろう。
では、日本書紀の是年条でいう「倭京で遷りたい」という中大兄の奏請は何を意味していたのか。

前回論じたことが“真”であれば、われわれはその答えを知っている。
すなわち、中大兄(実質は宝皇女)が望んだことは、難波”京”建設のための人夫を飛鳥での土木工事に振り向けることだった。
もちろん、この時点で還都を要請したわけではない。
「公卿大夫・百官」がぞろぞろと移動したのは、白雉5年の孝徳の死後、年末になって宝皇女の重祚と遷都が正式に決まってからだ。

難波にいた人夫たちの飛鳥への大動員に続いて、孝徳が死に、そのまま遷都によって行政機構の移動が行われたので、あたかも白雉4年のうちから遷都が奏請され「公卿大夫・百官」がこぞって移動したと解釈されてしまったというのが真相ではないか。
孝徳が「置き去りにされ、位を捨てようとした」というのは、そこから連想された俗説であろう。
孝徳は、宝皇女の意向に屈したとはいえ、「公卿大夫・百官」はなお彼のもとにおり、決して置き去りにされたわけではなかったのである。

では、実際のところ、事態はどのように推移したのであろうか。


<追記>
梅前さんのご指摘にそって、迷わないための「記憶メモのようなもの」を巻頭にいれてみました。いかがでしょうか。

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大化改新の方程式(187) 難波宮完成を待っていた宝皇女

以前私は、孝徳天皇難波置き去り事件の謎 大化改新の方程式(137)という記事で、以下のように指摘した。
そもそも彼女(皇極天皇だった宝皇女)にとって難波宮造営は遷都ではなく、難波津における外交施設の拡充でしかなかったのではないだろうか。
いわば大王がおわすべき飛鳥の「首都」に対して、難波はあくまで外交儀礼に特化した「副都」であったのである。
もちろんこれは孝徳天皇の思惑とは異なるものだったにちがいないが・・・。
なお、この説の前後で、「蘇我父子による甘樫丘の“邸宅建築”」や「孝徳による山碕宮造営」について展開しているトンデモ説は再考の余地あり(すぎ)ではあるが、宝皇女が皇極期から飛鳥を聖地化(祭祀都市化)したいと考え、そのための“興事”を蘇我入鹿が全面的にバックアップしていた、という自説はいまも変わらない。

皇極期における飛鳥の祭祀都市化計画(さらにはそこを起点とした大和改造計画)が、弟と息子の暴挙のために中断されたと考える宝皇女は、難波宮の完成を待って、いまだ在京している人夫たちを飛鳥での“興事”再開に動員する腹づもりであったろう。
白雉3年(652年)9月に難波宮が完成したとはいえ、その造営に動員された民のすべてが帰郷できたわけではない。王宮周辺では官衙建設や宅地開発がすすんでいたことを示す遺跡が見つかっていることから、なお多くの民が使役に供されていたはずだ。
「前期難波宮は、一定の計画的な「京」の建設をともなう倭国初の王宮であった」(『東アジアに開かれた古代王宮 難波の宮』積山洋 p.52)。その「京」建設のための人夫たちをそっくり飛鳥での土木工事に活用しようというのが、元女帝・宝皇女の思惑だったのではないか。

さらに、宝皇女の青写真にある新生飛鳥では丘上に石垣を積み上げる土木工事が必要だったため、山城建設に長けた朝鮮半島の技術も不可欠となる。
そうした彼女の要望に応えたのが、遣唐使船建造をきっかけに国交を回復した百済であった。
斉明天皇として重祚後すぐに百済から大人数の来倭使節(斉明元年(655年)7月条で150人、是年条で100余人とある)がやってきたのはそのためだ。このタイミングと規模から考えて、孝徳崩御前から技術支援の交渉がすすんでいたとみるべきであろう。

しかしながら私は、宝皇女が反新羅の中心人物であったとは思わない。
乱暴な言い方をすれば、彼女にしてみれば、彼女の“興事”につきあってくれるのであれば、それが百済であろうが、新羅であろうが、高句麗であろうが、かまわないのである。
実際、斉明元年には新羅からも12人の技術者が派遣されているのが確認できる(斉明元年是年条)。
ただ、派遣された使節団の規模からいって、彼女の心情が親百済に大きく傾いただろうことは想像に難くない。

こうして、己が構想にしたがって百済へのアプローチを深めていく宝皇女に、僧旻没後に先鋭化した反黒麻呂・反新羅勢力が同調し、取り込まれていったところに「孝徳天皇難波置き去り事件」の真相があると私は考える。

では、実際のところ、孝徳は置き去りにされたのだろうか。

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大化改新の方程式(186) 「孝徳天皇難波置き去り事件」を考える

孝徳天皇が中大兄皇子の傀儡であったという通説では、いわゆる「孝徳天皇難波置き去り事件」については、あまり多くを語られてこなかったと思う。つまるところ、なんらかの理由で孝徳と中大兄が不和になれば、もともと傀儡であった孝徳が捨てられるのは明らかだからだ。

通説では、このなんらかの理由としては、以下のように、外交上の対立や飛鳥を拠点とする勢力の不満をあげている。
朝鮮半島情勢に少し距離を置いて、飛鳥周辺を拠点とする豪族らを懐柔しようとする動きであったのだろう。(「飛鳥・藤原の時代と東アジア」中村順昭 『古代史講義─邪馬台国から平安時代まで』佐藤信編 p.78)
あるいは、孝徳天皇は傀儡ではなくそれなりの存在感があったとしつつも、これによって中大兄が完全に主導権を握ったという出来事だけおさえておけばよい、という以下のような見方も通説の範疇であろう。
孝徳天皇と皇太子中大兄の不和・分裂はなぜ起きたのだろうか。百済と結ぶか、新羅・唐との関係を重視するかという、外交路線の違いに原因を求める考え方も有力であるが、具体的な点になると評価はさまざまで、確たることはわからない。ただ、このとき皇太子中大兄が完全に主導権を握ったことだけは確実であろう。(『飛鳥の都』吉川真司 pp.83-84)

とはいえ、たとえ傀儡説に一歩譲ったとしても、両者が不和になったというだけでは、飛鳥に戻る理由には欠けるのではないだろうか。
たしかに、飛鳥周辺を拠点とする豪族らの不満があったというのは事実であろうが、「クーデターに加わった人物たちのうち、中大兄以外の人々が、いずれも和泉国和泉郡にあった軽皇子との間に、ことに地理的関係において何らかの接点をもっていた」(『大化改新 645年6月の宮廷革命』遠山美都男 p,168)ことから、政権を崩壊させるほどに切羽詰まった不満が廷臣間に広く醸成されていたとは思えない。
しかも、素直に考えて、言葉では言い尽くせないほどの大宮殿が完成し、自分たちが常住する宅地開発がすすんでいるときに、「はい、さようなら」と出ていくものだろうか。
またたとえ、外交上の対立が深刻であったとしても、その政争は難波宮の朝廷で行えばよい話だ。

前回までみたように、外交上の抜き差しならない対立があったのはたしかだろう。そしておそらく、飛鳥を地盤とした豪族の不平もあっただろう。
だが、それらのほかに、いわばそれらに便乗して飛鳥に戻るべき積極的な理由があったのではないだろうか。

その1つとして、外交方針の対立の背景にある防衛上の理由をあげる見解がある。
孝徳朝には唐・新羅に対する積極的な外交的必要性から難波に宮室が置かれたが、皇祖母(王母)皇極と中大兄王子らは、蘇我氏以来の親百済路線の立場から、白雉年間(650-655)後半には孝徳と対立し、再び飛鳥へ宮を戻すこととになった。重祚した大王斉明は斉明2年に(656)に後飛鳥岡本宮に宮地を定めた。彼女は「興事を好む」と評されたように、宮室だけでなく、大溝・山城などの並外れた大土木工事を開始した。孝徳期の難波とは対照的に、唐・新羅に対する防衛的な意味から飛鳥へ戻り、さらに天智朝には近江へ引き籠もったと解される。(『都はなぜ移るのか 遷都の古代史』仁藤敦史 p.86)

しかしながら、当時のアジアの情勢はそこまでひっ迫した状況ではなかったようだ。
百済は651年、652年と2年続けて、高句麗は652年に唐に朝貢している。高句麗遠征にこだわった太宗が死去し即位した新帝・高宗のもと、東アジアでは平穏な日々が続くかのような様相を呈していたであろう。
それでも、長期的な防衛構想から飛鳥への還都を行ったと言うことができよう。
だが、もしそうであれば、後年、新羅征伐が目的だったとはいえ唐と対峙する可能性のある遠征に短期間のうちに乗り出すとは到底思えない。

飛鳥還都の背景には、防衛上の理由とは別の、飛鳥に戻るべきという強い意志が存在したと考えるべきだ。
そして、それが、難波の宮殿が完成したタイミングで顕在化していることに注目すべきであろう。

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大化改新の方程式(185) もうひとりの国博士・僧旻の死

孝徳政権の外交担当として親新羅にこだわる高向玄理(黒麻呂)への批判の高まりは、孝徳天皇にとって頭の痛い問題であった。
ただ当初、反黒麻呂・反新羅の矛先が孝徳本人に向かわなかったのは、僧旻の存在が大きかったからであろう。

開講期間は不明だが、僧旻の学堂に通った人々は飛鳥朝廷内に数多く存在したにちがいない。『藤氏家伝』によれば、その筆頭には乙巳の変のターゲットになった蘇我入鹿がいたとされる。その人脈の広さゆえに、僧旻をクーデターの主要メンバーに引き入れるのは憚られた一方で、まさにそれゆえに、政変後の新政権の運営にはなくてはならない人材であったといえよう。

632年に帰朝した僧旻は、唐使・高表仁との「争礼」以降、倭国外交の有様を間近で観察してきた。黒麻呂よりも8年前に帰国した分だけ、倭国特有の外交事情や対外関係を巡る朝廷内の利権構造には知識と理解があったにちがいない。
一方、唐帝・李世民の治世(貞観の治)を10年以上もリアルタイムで見聞した黒麻呂は、倭国朝廷内ではもっとも先進的な知識を有すると自他ともに認める存在であったろう。

「我こそはグローバルスタンダード」と言わんばかりに物事を強引に推し進める国博士・黒麻呂へのブレーキ役を孝徳天皇から期待されたのが、もうひとりの国博士・僧旻であったのではなかったか。新羅に甘すぎる路線の修正をもとめる廷臣からの人望も高かったにちがいない。
その意味で、白雉に改元後、遣唐使再開の方針を巡り次第に激しくなる政権内の軋轢を和らげる唯一の緩衝役であったのが僧旻であったといえよう。

653年5月、数多の留学僧・留学生を乗せた吉士長丹ら「呉唐の路」ルートの遣唐使を送り出したまさにその月、僧旻は危篤に陥った。わざわざ見舞いに行幸した孝徳をして「あなたが死ねば、私も死ぬ」と言わしめた背景として、以上のような政情を想定すべきであろう。(ただし、こう述べたと記録しているのは、この行幸を翌年7月とする異伝(或本に曰く)だが)
そして、翌6月、僧旻死去。反黒麻呂・反新羅の動きが先鋭化するのが必至の情勢となった。

こうしたなか、新たな問題が出来した──元女帝・宝皇女による飛鳥“還都”の動きだ。
これが外交路線の確執と相まって、孝徳政権の空中分解を惹起することになる。
次回は、いわゆる「孝徳天皇難波置き去り事件」について考えてみたい。

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