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大化改新の方程式(80) 

クーデター派が手本にした「玄武門の変」
乙巳の変の物語は、唐で実際にあった「玄武門の変」を参考にして日本書紀編纂時に創作されたという意見がある。それによれば、蘇我入鹿殺害が史実だったとしても、その実態は日本書紀が描くようなものではなかったというわけだ。

玄武門の変とは、626年6月に発生した唐の後継者争いで、李世民が皇太子で実兄の李建成と実弟の李元吉を参内途中に急襲、殺害したクーデターである。その2か月後、李世民は父・李淵(高祖)から譲位を受け、第2代皇帝(太宗)として即位した。

乙巳の変と玄武門の変との共通点をあげると・・・
1.ターゲットが宮中におびき出され、無防備あるいは従者が少ない状態で襲われている。
2.実行部隊は少人数で、しかも首謀者自身が戦闘に参加している。(日本書紀では中大兄皇子が首魁)
3.事件のあと、譲位が行われている。

こうした共通点ゆえに玄武門の変をもとに乙巳の変のストーリーが脚色されたとみなすのは十分に説得力があることだが、むしろ私は、それゆえにこそ、玄武門の変は実際に軽皇子らクーデター派の手本にされたと考えている。

というのも、クーデター派に影響をあたえた中国への留学生・留学僧の多くはその在唐中に玄武門の変を間近で経験しているからだ。とくにクーデター派の中核メンバーたる高向黒麻呂は、玄武門の変後の太宗(李世民)による“貞観の治”をつぶさに観察したうえで帰朝したため、実の兄弟のみならずその息子たちがことごとく弑された凄惨な事件だったとはいえ、李世民の行動を歴史的な大英断として肯定的にとらえていたはずである。

以前の記事(『偽りの大化改新』を読む(28))で私は、黒麻呂のことを「“律令君主”の伝道師」と言ったが、同時に彼は「革命の指南役」でもあったわけだ。

そういう視点にたってみると、玄武門の変ではもう1つ重要な点に気づく。

このクーデターが成功したポイントは、皇太子(李建成)の部下だった玄武門の守備隊長を買収して味方につけていたことだ。

軽皇子らクーデター派が玄武門の変を手本にしていたとすれば、蘇我父子(私は蝦夷もおびきだす予定だったと考えている)を宮中で孤立させるため、王宮すなわち飛鳥板蓋宮の警護隊を味方につける工作を行ったであろう。

言うまでもなく、この警護隊の隊長が高向国押だったのであるが、次に問われるべきは、その彼がなぜ蝦夷邸にいたのかという点だ。

そしてまた、クーデターの成否を分ける重要な役割を担ったはずの高向国押は、どうして日本書記においてクーデター派の1人として描かれなかったのであろうか。


<追記>
乙巳の変のクーデターが玄武門の変を参考にしていたという視点にたってみると、なぜ中大兄皇子が実行部隊という危険な役を買ってでたのか、という疑問にも答えることができる。

黒麻呂たちが語り聞かせる玄武門の変の物語は、倭国の若者たちを魅了したにちがいない。そして、中大兄皇子はまさにクーデターの現場にあって、20年前の李世民の姿を自らに重ね合わせていたであろう。

蘇我入鹿もまた心躍らせたひとりだったであろうが、まさか自らがそれを模したクーデターのターゲットとなって討ちとられることになるとは思ってもみなかったであろう。

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