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大化改新の方程式(81) 

[仮説] クーデターは、綿密に計画され、実行された
前回、飛鳥板蓋宮の警護隊長だった高向国押はクーデターを成功に導くために重要なポジションにあったと述べた。

では、その彼がどうして蝦夷邸にいたのだろうか?

たしかに、クーデター派と気脈を通じていた高向国押が蘇我氏の分家という立場を利用して、「クーデター派への報復・反撃を期して息巻くに違いない東漢直らの陣中に入り、蘇我本宗家や東漢直の内部崩壊を誘う工作をするという密命を帯びて」(『大化改新』遠山美都男p.253)、当初から蝦夷邸にまぎれていたということも考えられる。

ただそれでは、門を閉ざして宮廷内部を孤立化させるという重要な任務をだれが行うのか、という疑問が生じる。
“三韓進調”のような重要な儀式が行われるときに、隊長自ら大臣の私邸を警護していたら、それこそ何かあると疑われるだろう。

こう考えてくると、高向国押が蝦夷邸にはいったのは、入鹿殺害後ということになる。
そして、そのチャンスがあるとすれば、入鹿の遺骸を蘇我邸に運び入れたときであろう。

蝦夷邸にはいった国押は、事件の顛末を語り、前々回の記事で書いたように、内輪もめに巻き込まれるのは「空しい戦い」でしかないと東漢直ら(倭漢氏)を諭したのであろう。

ただ私は、蝦夷邸に向かい東漢直らを説得した国押のこの行動は予定外だったと考えている。
つまり「蘇我本宗家や東漢直の内部崩壊を誘う工作をするという密命」は当初から存在したのではなく、なんらかの理由(おそらく病気)で蝦夷が“三韓進調”への参加を見合わせたことから、入鹿殺害後、急遽国押に託された任務だったのではないだろうか。

ここで、このあとの展開にもからんでくる仮説を1つ。

乙巳のクーデターは、20年前の唐の玄武門の変を手本に、綿密に計画され、実行された。

失敗すれば極刑は免れないクーデターなんだから当たり前だろうと思われるかもしれないが、これを前提に考えると、このクーデターの展開には2つの疑問がでてくる。

1.蘇我氏のホームグランドのような飛鳥を舞台に蘇我父子を排除するクーデターを実行するのであれば、入鹿だけでなく蝦夷も同時にターゲットにしたクーデターを立案したのではなかったか。

2.皇極から軽皇子への譲位が最終目標なら、蘇我父子の排除とともに、古人皇子の身柄の確保(場合によっては殺害)は不可欠なアクションのはずなのに、どうして古人皇子は入鹿殺害現場から自邸まで逃げ帰ることができたのか。

ここでは1について考えてみよう。

蘇我父子が逆臣だったかどうかは別にして、蘇我父子の館は日本書紀が描くように甘樫丘の上にあった要塞のような邸宅というのが通説だが、そうであればなおのこと、入鹿のみならず蝦夷を誘いだす計画を立案するのではないだろうか。

また、少人数で決行したのは、蘇我氏のホームグランドにおいて当初から大部隊を投入しては事前に動きを察知されるおそれがあったからであろう。そもそもそれが可能なら本能寺の変のように王宮と蘇我邸を同時に制圧できる夜襲を選択したはずである。

中大兄ら実行部隊がすぐさま法興寺(飛鳥寺)にはいったのは、遠方で待機していた阿倍、大伴、巨勢の主力部隊が到着するまでの間、天皇の身柄を拘束し続ける必要があったからだ。まさか蘇我の手のものが法興寺に火をかけることはないだろうが、主力部隊到着までの間を守りきるのが、クーデターの成否を分ける重要なポイントであってみれば、目と鼻の先にある蘇我本宗家の館に蝦夷を残したままクーデターを決行するのはあまりに無謀であろう。

加えて、入鹿が皇極女帝の寵臣であったのであれば、朝議に参加するのはあたりまえだ。その意味では、入鹿だけを殺害するだけであれば、チャンスはいくらでもあったといえる。
あえて“三韓進調”のような儀式を決行の場に選んだのは、入鹿ひとりを誘い出すのではなく、蝦夷も出席させるほどの重要なイベントが必須だったからだ。

コメント

なぜクーデターを中止しなかったのか

 乙巳の変が玄武門の変を下書きに計画された可能性があること、入鹿とともに蝦夷もターゲットとなっていたこと、さらに蝦夷と入鹿をおびき出すために三韓進調の場が選ばれたとの説、大変興味深く拝見しました。
確かに、蝦夷も目標となっていて、彼を「取り逃がした」とするなら、国押が甘樫丘で東漢氏を説得したことも説明がつきます。
 けれどもここで疑問に思うのは、蝦夷の参加を見越して三漢進調の場を選んだのなら、蝦夷が出席しないとわかった時点でなぜ実行部隊は計画を中止しなかったのか、という点です。
クーデターが玄武門の変を手本に「綿密に計画され実行された」というならなおのことです。
何か、その日実行に移さねばならないせっぱつまった事情があったのでしょうか。
それとも、血気盛んな若者たちが暴走したのでしょうか。
いずれにせよ、れんしさんがおっしゃる通り、舞台は「蘇我氏のホームグラウンド」である飛鳥です。
阿部、大伴、巨勢らの部隊が遠方で待機せざるを得ない状況の中、クーデターを決行することは、はっきり言って無謀以外の何物でもありません。
結果的に国押の説得が功を奏し、東漢氏が投降したからこそ甘樫丘は陥落しましたが、東漢氏が法興寺、あるいは板葺宮に押し寄せれば、クーデター側に勝ち目はなかったはずです。中大兄は「乱心して重臣を切り殺した皇子」として歴史に汚名を刻んでいたはずです。
「その日以外になかった」のか。あるいは「実行部隊の暴走」か。
れんしさんはどうお考えになりますか?
 それにしても、自分は安全な場所から高見の見物、クーデターが成功したら国博士などという地位についた高向黒麻呂という男、なんだか許せない感じがします。

Re: なぜクーデターを中止しなかったのか

コメントありがとうございます。
毎度痛いところついてきますね。

まさにおっしゃるとおり、「その日実行に移さねばならないせっぱつまった事情」があったのだと考えています。

1年ほど前の記事で私は、6月12日に皇極は古人皇子への譲位を前提に「親新羅派の捕縛」と「塞上の身柄の拘束」を実行することになっていたとしました。
詳細については再考の余地ありと思うようになりましたが、親新羅派の中心たる黒麻呂の排除と古人皇子への譲位という軽皇子一派にとっては万事休すの状況であったという考えは変わりません。
皇極の譲位が日程にのぼっているという意味においては『皓月』も同じですね。

加えて、(1年前の考えを改めてますが)やはり三韓進調のような儀式が予定されていたのだと考えています。
しかも、『皓月』のようにフェイクではなく、正式なものだと思うのです。
その意味でも、この日を逃したらもう後がない、という事情があったというわけです。

まもなくこのあたりを、1年前の記事の再考として展開する予定です。お楽しみに。

たぶん、黒麻呂は遠く主力部隊とともにいたのでしょうが、歳が歳だけに仕方がないかと思います。(ちょうど私ぐらいの年齢ですね。若者と動き回るのはさすがに辛い)

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