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大化改新の方程式(82) 

“賊党”高向国押
前回の記事では、高向国押が蝦夷邸にいた経緯を考えてみたが、どうしてその彼が日本書記においてクーデター派の1人として描かれなかったのかについてはまだ触れていなかった。

国押に限らず、このクーデターには多くの人間が関わっていたはずだが、そのほとんどは関与を明らかにされていない。

そもそもクーデターとはフランス語で「国家への不意の一撃」の謂いであるように、実行の直前まで極秘に計画をすすめておくのが大前提で、多くの場合、政変後の論功行賞人事をもって初めて関与者の広がりとそれぞれの関与度をはかることができるようになるが、それでも事変当時それぞれが具体的にどういう任務をもって事に臨んだかは、コアメンバーの証言を得ることがなければおよそ憶測でしかないものとなろう。

したがって、後日クーデターに取材した物語が編まれる際、関与の在り方が明確な実行部隊を中心に描かれるのは仕方がないことだ。
日本書紀の乙巳の変の記事のネタとなった“入鹿誅滅物語” も例外ではなく、何か特別の意図をもって実行部隊以外の関与者の存在を消し去ったわけではないだろう。

私は、日本書紀編纂以前に、中大兄と鎌足を首魁としたごく少人数の決死隊が逆臣に天誅を下すという“入鹿誅滅物語” はすでにできあがっていたのだと思っている。
もちろん日本書紀編纂時には、藤原氏の始祖として鎌足を顕彰するという政治的な脚色がなされたことは確かで、鎌足の思想と行動を実態とかけ離れた美談にすり替えてしまったことまでは否定しない。

さて、高向国押の場合は、蝦夷邸にいて説得にあたったという事実のみが人々の記憶に強く残り、後世に語り継がれていく“入鹿誅滅物語” なかで、もともと蝦夷邸にいたものとされてしまったにちがいない。

だからこそ、日本書紀では“賊党”東漢直とは区別して表記されているのはまだしも、さらに時代が下って鎌足の曽孫にあたる藤原仲麻呂が著した『藤氏家伝』にいたっては、国押自身が“賊党”と表記されるまでになり下がってしまったのである。
後年仲麻呂自身が逆臣となる恵美押勝の乱では、国押の曽孫にあたる高向家主がその討伐に参加して功をあげているが、乙巳の変において国押がいかに重要な役回りをしたかを代々語り継いできた高向一族にとっては、まさに溜飲が下がる思いであったであろう。

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