FC2ブログ

大化改新の方程式(86) 

「中大兄」としての葛城皇子
前回の『大化改新の方程式』で私は、古人皇子が出家しなかった理由を立証するためにクリアしなければならない2つの疑問をあげた。
1つ目の「日本書紀はなぜ古人皇子が出家したという記事を捏造したのか」についてはすでにみたが、今回はもう1つの「古人皇子が出家しなかったとしたら皇太子の地位はどうなったのか」についてみていこう。

結論から言えば、乙巳の変の前後において皇太子は2人存在したのであり、葛城皇子が諱(いみな=本名)である中大兄皇子が「中大兄」と呼ばれていた事実がそれを物語っているというのが私の考えだ。

日本書紀をみると、「中大兄」という呼称は乙巳の変の前後のごく限られた時期、すなわち以下の場面でのみ使用されているのがわかる。
・クーデターの計画および実行段階
・乙巳の変後の軽皇子と古人皇子と中大兄皇子との間の王位譲り合い劇
・古人皇子の謀反事件での対応

大化新政権の人事で「中大兄」が皇太子となったことを告げつつも、古人皇子の謀反事件の際で終始「中大兄」として登場する点に注意したい。古人皇子が出家したという日本書紀にしたがえば、古人皇子の謀反事件では葛城皇子は「皇太子」として記述されるべきではなかったか。
そして、この事件ののち次に葛城皇子が現れる大化2年(646年)3月のいわゆる「皇太子奏」でやっと「皇太子」として登場し、以後「中大兄」と呼ばれることはなくなっている。

このことから以下のことがわかる。
・葛城皇子が「中大兄」と呼ばれるのは、古人皇子との関係においてのみである。
・乙巳の変後も「中大兄」と呼ばれていた以上、両者の立場上の関係は乙巳の変前と変わっていない。

このことを踏まえたうえで、「中大兄」という呼称の謎についてみよう。

が、そのまえに私の論証の前提について確認しておきたい。

1.乙巳の変の時点での皇太子は古人皇子
これについては、以前の記事(大化改新の方程式(42))で述べたように、古人皇子が「古人太子」や「吉野太子」と呼ばれていたこと、そして、乙巳の変の舞台となった“三韓進調”には古人皇子が臨席している(朝政に参加している)ことが根拠となる。
立太子の時期は不明だが(私は644年とみている)、少なくとも645年時点で古人皇子が皇太子だったということはほぼ通説と考えていいだろう。

2.古人皇子の立太子は「近親婚による20歳以上の男子が王位を継ぐというルール」の例外
王位継承ルールについての私の考えは、過去の記事(大化改新の方程式(33)(34)(35)(36)(37))を参照いただきたいが、中大兄皇子についていえば、「少しの謎もない皇極女帝誕生の理由」という記事(『偽りの大化改新』を読む(4))で触れたように、以下のような篠川賢の考えに全面的に依拠している。
宝皇女の立后は、舒明天皇の即位の合意がえられた段階で、すでに決定していたのであり、その間に中大兄皇子が生まれていたということは、やがてはその中大兄皇子に王位が継承されるべきであるという点も、群臣の合意に含まれていた (『飛鳥の朝廷と王統譜』 p.119)
すなわち、オジメイ婚の所生たる中大兄皇子は生まれながらにして次期大王なる必要条件を満たしていたのであり、一方、年長といえども蘇我腹の古人皇子は王統の担い手にはなりえなかったわけだ。
この前提が正しければ、中大兄皇子が20歳を迎えた645年の時点で古人皇子が皇太子であったのは、このルールを逸脱した事態が発生していたことになる。
この“例外”をつくったのが言うまでもなく蘇我入鹿なのだが、そこに至る入鹿の思惑については、ほぼ通説のごとく言われているような「馬子の念願だった蘇我腹の大王擁立への野望」とは異なるものを私は想定している。これについては「入鹿が見た大王家と蘇我家の未来」と題して論じておいた(大化改新の方程式(48)(49)(50))。

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)