FC2ブログ

大化改新の方程式(89) 

消された「池辺大兄皇子」
またまた更新のインタバールが開き過ぎてしまった。申し訳ないです。

前回私は、6、7世紀の「大兄」とは中継ぎの大王候補であって、「皇太子」とは区別されるという仮説をたててみた。

誤解がないように補足させてもらえば、中継ぎの大王候補にするために「大兄」と呼んだということではない。天下を統べる大王に代わり王家を束ねる役回りをさせるため現大王の長子(同母)のうち年長者を「大兄」と呼んだのが第一義であって、中継ぎが必要となったときにその「大兄」が結果的に王位につく最有力候補となった、ということだ。

それでは今回はそれを個別の事例にあてはめてみよう。

以前も触れたが、6世紀といえども、継体期の勾大兄皇子の「大兄」については、考察の対象外とする。継体期は私の「大兄」の定義のベースとなる「近親婚による20歳以上の男子が王位を継ぐというルール」の形成前といえるからだ。
ただ、継体7年の記事に勾大兄を「春宮」(皇太子のこと。もちろん当時は別の呼び名があったのだろう)にたてたとあるので、呼称上、「大兄」と「皇太子(太子)」とは異なるものとして認識されていたことの証左であることを述べておきたい。
実際、日本書紀ではこの記事以降、もはや「勾大兄」とは呼ばず「太子」と記している。これは厩戸皇子の場合も同じで、立太子した後は、「皇太子(あるいは太子)」となっていることに注目したい。というのも、その例外が中大兄皇子だからだ。これについてはまさにこの「大兄」論を始めた事の発端なので、後ほどあらためて触れることにしたい。

さて、このルールの形成期というべき欽明朝においては、後の敏達天皇である渟中倉太珠敷皇子の同母兄に箭田珠勝大兄皇子がいる。
彼は欽明天皇の皇子のうち年長者にして、母が先代宣化天皇の皇女にして大后となったため、当然ながら「皇太子」となる必要条件を備えていたにもかかわらず、そうはならなかったと私はみている。
もちろん「大兄」=「皇太子(太子)」という見方をとることもできるが、そうすると、先ほど触れた勾大兄の事例と異なってしまう。
わざわざ箭田珠勝大兄皇子の死去の記事(欽明13年)を掲載しているところに、彼が皇太子になれなかった事情が存在したことを暗示しているのかもしれない。

箭田珠勝大兄皇子の死を受けて「皇太子(太子)」となったのが渟中倉太珠敷皇子だが、日本書紀には彼の立太子の時期は2通り記載されている。欽明15年と29年だ。敏達天皇の誕生年には諸説あるが、有力とされる538年説にたつと、前者では17歳、後者では31歳となる。
「近親婚による20歳以上の男子が王位を継ぐ」という王位継承ルールによれば、後者の方に軍配があがろう。

この欽明朝において「大兄」と呼ばれた長子に、早期に没した箭田珠勝大兄皇子のほかにもう1人いる。
それが後の用明天皇である大兄皇子だ。

彼の母は蘇我稲目の娘・堅塩媛であり、「近親婚による20歳以上の男子が王位を継ぐ」というルールのもとでは王位を継承する大王となるルートは閉ざされていたが、私のいう最初の「大兄」だったのではないかと考えている。

おそらく渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)とその大后となった額田部皇女(大兄皇子の実妹にして後の推古天皇)との間の年齢だったと思われる大兄皇子は、蘇我氏のバックアップと彼本来の優れた資質(これについては後述)をもとに、敏達の立太子と同時期に王家を束ねる「大兄」の称号をえていたのだろう。

ところで、「大兄皇子」という名は明らかに奇妙だ。
継体6年に「大兄皇子」と単独で使用されている事例があるが、文脈上、勾大兄皇子であることは明確である。
ところが、後の用明天皇となる大兄皇子には、諱(いみな=本名)に相当するものがない。
「橘豊日命」「橘豊日皇子」という名が登場するが、これは用明の和風諡号(死後に命名)を援用したものだ。

だからといって、特別な意味をもった「大兄」の第1号なので、“The 大兄”というニュアンスで「大兄皇子」と呼ばれたのだと言うつもりはさらさらない。
やはり彼にはちゃんとした諱があったと考えるべきであろう。

実は『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、用明天皇の諱は「池辺皇子」であったとされている。
すなわち彼は「池辺大兄皇子」であったはずなのである。
それがどうして「大兄皇子」になってしまったのだろうか。

そのヒントは日本書紀の敏達7年の「菟道(うじ)皇女を伊勢神宮に侍らせたが、池辺皇子に犯された」という記事にある。
つまり、とある事情で斎王と通じてしまった池辺皇子が追放されるどころか大王になったので、堅塩媛のこどもたちを記した記録のうち「池辺大兄皇子」から“池辺”を外してしまい、敏達7年の池辺皇子とは別人にしてしまったというのが真相だろう。
これは日本書紀編纂時の隠蔽でなく、同時代においてすでに記録操作が行われたのだと思われる。
もちろん同時代の人々はみんな知っているスキャンダルであったことには間違いないが。

いずれにしても、聖徳太子の父でもある「池辺大兄皇子」はただの痴れ者だったのであろうか。
菟道皇女との情事に梅前佐紀子さんが描く『皓月』のようなロマンスをみてもいいのかもしれない。(若気の至りといえる年齢ではなかったはずだが)

この「池辺大兄皇子」という男、この親にしてこの子ありという相当な人物だったのだと私は思っている。
少々脱線気味だが、続きは次回に。

コメント

目から鱗

私は長年、敏達7年に菟道皇女を奸した「池辺皇子」とは一体誰のことなんだろう、と疑問に思ってきました。
「皇子」を名乗るからには大王の子と推測されますが、どの大王を調べても池辺皇子という名の子はいなかったからです。

また、用明天皇にのみ名前が見当たらないのも不思議でした。


「池辺皇子」=「用明天皇」

との説、目から鱗が落ちる思いがしました。

言われてみれば確かに、用明天皇の宮は「池辺双槻宮」ですし、最初に葬られたのも「磐余池上陵(いわれいけへのみささぎ)」です。
用明天皇が池辺皇子だった可能性は高いのではないでしょうか。

ただし、そうなると私の小説的には少々具合が悪いことになります。
私の小説の設定では、斎王と通じることは死罪もまぬがれないほどの大変な罪ということになっているのですが、その罪を犯した「池辺皇子」が大王として即位していたとになると、そう大した罪ではなかったということになってしまいます。
斎王と通じても大王になれんじゃん。みたいな。
「この命を賭してでも」ってのが、私の小説の売りだったんですけど。

Re: 目から鱗

梅前さま
コメントありがとうございます。

wikipediaによれば「池辺皇子」=「用明天皇」というのは『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』をもとにした説ですが、菟道皇女を奸した「池辺皇子」と同一人物かどうかは不明というのが一般的な見解のようです。

ただ、私がよく引用する篠川賢が成城大学の紀要に出した学術論文『律令制以前の王族』ではこの池辺皇子は用明とみて間違いないとしています。(そういえば、篠川は成城大学の先生だったんですね)
仁藤敦も同じ考えのようですので、学会でも認められた説とみなしていいようです。

そして、これを援用して用明の「大兄皇子」という奇妙な名称を説明した部分だけが私の独自の説となります。

ところで、用明の同母妹も斎王のときに蘇我小姉君の長子である茨城皇子に奸されて解任されていますが、この皇子が罰せられたという記事はありません。
ただ、その後弟たちが活躍したもかかわらず、この皇子の名がいっさい登場しないことを考えると、追放されたのではないでしょうか。

王族の場合が追放ですから、王族以外の場合は、やはり死罪は免れないでしょう。
『皓月』の設定は決して間違っていないと思います。

池辺皇子の場合も、私の考えでは公式記録から「池辺」の名を消し去ってしまったぐらいですから、大事件として認識されていたはずです。
ただ、その後大王にまでになったのですから、それが単なる夜這いでなかったことを物語っているわけで、池辺皇子のケースがきわめて特殊だったと考えるべきでしょう。

とはいえ、次回触れる予定ですが、理由がどうであれ、そんな人物が大王になったことに納得できないという反対派は当然ながらいたはずで、その中心が穴穂部皇子ではなかったかと思うのです。
彼の同母兄の茨城皇子が同じようなことをしでかして追放されていたとすれば、なおさら黙ってはいられない、という気持ちもあったでしょう。
それが穴穂部皇子が額田部皇女を奸そうと敏達天皇の殯宮に押し入ろうとした事件の動機の1つでもあったとも考えています。

こういう堅塩媛系と小姉君系の皇子たちのどろどろとした対立が、王位継承問題とからんで、敏達没後の混乱に拍車をかけたといえるのではないでしょうか。

対立の原因は

たびたび失礼いたします。

れんしさんがわが母校の紀要までチェックしてらっしゃると知り、なんだか嬉しくなってしまったので。
ただ残念ながら私の在学中、篠川賢氏はまだ教授ではありませんでした。
当時は「斑鳩の白い道のうえに」の上原和先生が現役でいらしたので、文芸学部にもぐりこんで講義を聞いたことがあります。(あの頃の私にとっては猫に小判でしたが)
篠川氏の講義にも潜入してみたいですが、若い頃ならともかくも、学生じゃないことが一目瞭然の今はつまみ出されるのがオチでしょうね。

さて、茨城皇子が斎王を犯したという件ですが、れんしさんのおっしゃるように私もこの事件が小姉君系と堅塩媛系の対立の発端となったと考えています。
それでも、逆のことが起こっていたとは、それものちに即位した用明によって引き起こされていたとは思ってもみませんでした。
もしそれが事実なら、用明の即位は小姉君系にとっては腹立たしいことこの上なかったことでしょう。
おっしゃるように穴穂部皇子の事件もそれを遠因とするものだったのかもしれません。
個人的には穴穂部皇子は無実だったと思っていますが。(あくまで想像)

しかし、これだけ対立の痕跡を残している堅塩媛系と小姉君系ですが、2人は日本書紀に記されているように本当に同母の姉妹だったのでしょうか。
いや、同母だったからこそ、なおさら激しく対立したのかもしれませんが。

Re: 対立の原因は

梅前さま

『斑鳩の白い道のうえに』の“捨身飼虎”が『皓月』厩戸の原点だったんですね。

いろいろ調べてみると、この時代も大化改新に負けず劣らず魅力的な謎がいっぱいです。

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)