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大化改新の方程式(90) 

謎の王族「大別王」の正体
前回私は、日本書紀が記す堅塩媛の長子「大兄皇子」、すなわち後の用明天皇は、敏達7年に斎王と通じた「池辺皇子」であり、本来は「池辺大兄皇子」と呼ばれていたとした。

ところで、「大兄皇子」という奇妙な名称の説明として、俗説の類であるがもう1つ存在する。

それは、「大兄皇子」は「大別皇子」の写し間違い、というものだ。

「大別王」(日本書紀には「大別皇子」という表記はない)とは、日本書紀の敏達6年(577年)の記事に登場する人物で、百済に遣使され、経論とともに百済王から使わされた律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を伴って帰国し、彼らを難波にある大別王寺に安置したとされる。
それほどの人物なのに、日本書紀自体が“出自未詳”と告白する謎の人物だ。

さすがに妃の第一王子の名前と頻出する「大兄」という文字を写し間違えるというのは想像しがたいが、この珍説は半分真実を物語っているように思う。
つまり、写し間違いはたしかにあったのだが、それは「大兄」ではない、別の文字ではなかったか、と。

これを考えるにあたって飛鳥・奈良時代の仏教美術の第一人者である大橋一章の論考が参考になる。長くなるが以下に引用しよう。
敏達6年に百済の僧尼と工人を安置(はべ)らせたという大別王の寺とは一体如何なる寺だったのであろうか。残念ながら大別王なる人物は他の文献に見えず、大別王の寺も一切その実態はわからない。百済から来日した男女の僧尼を一つの寺に泊めること自体、仏教寺院ならあり得ないことで、工人までも同様に泊めていたとなると、大別王の寺はわれわれの共通認識にある仏教寺院ではなかろう。大別王は今でいう外交官的な人物であったと思われるから、その外交官のオフィス的な施設を大別王の寺と称していたのではあるまいか。というのも、もともと寺という文字は漢代以来役所を指していて、有名なものに外国使臣を扱う鴻臚寺(こうろじ)があった。そこに外国から来た仏僧を泊めていたため、寺という文字は仏教の専用語になったという。外国人の上陸地である難波にあった大別王の寺はもともと外国人を泊める施設であった可能性が強い。そこに、敏達6年百済の僧尼が泊ったため、大別王の寺は寺という文字の当初とその後加わった双方の意義にかなうものになりつつあったのではなかろうか。
私は、この大別王の寺というものは僧尼が仏教活動をおこなう寺とはいささか趣きの異なるもので、外交官的な大別王の私的な外国人接待施設だったのではないかと考えている。であればこそ、「大別王寺」のごとく個有名を冠したのであろうし、僧も尼も、さらに工人までも泊めていたのであろう。(「飛鳥寺の発願と造営集団」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』大橋一章 pp.134-315)
ここで「外交官的な大別王の私的な外国人接待施設」というが、なにも私的な施設にこだわる理由はない。知ってのとおり難波には倭国の公的な外交施設である「大郡(おおこおり)」があり、すでに欽明22年の記事に登場している。
この「大郡」を拠点に活動していた(つまり外交をまかされていた)王子がいて、百済人たちはその施設を中国の知識でもって「寺」と呼んだため、彼は「大郡寺の王」と呼ばれていたところ、いつしか「大郡王」となってしまったというのはありえないことではない。

とすれば、件の“写し間違い”とは、「大郡王」を「大別王」と間違えた、ということではないだろうか。
日本書紀の原資料が伝わっていく過程のどこかで“写し間違い”が発生していたのである。

日本書紀の編集者は過去の王族の記録の中に「大別王」という名をさがしたから該当者がいなかったのであり、視点を変えて、「大別」を場所、すなわち施設名と考え、そこに“写し間違え”をもってくれば、謎は解ける。

さらに、彼の正体を見えなくしてしまったもう1つの理由が、彼の本名をはっきりと残していたであろう記録が抜け落ちてしまったことだ。
そもそも「大別王」、正しくは「大郡王」は本名ではないので、当然それがだれなのかの記録があったはずだ。
それが抜け落ちたとすれば・・・・ そう、ここで再び浮かび上がってくるのが、池辺皇子だ。

前回私は、「池辺大兄皇子」に関する記録操作(敏達7年以外の「池辺皇子」を公式記録から抹消したこと)は日本書紀編纂の段階ではなく同時代に行われただろうと推測したが、それゆえにこそ、日本書紀の編集者には「こいつはいったい誰なんだ?」としか言えない、2重のヴェールに包まれた謎の人物になっていたのである。

「大別王」とは、池辺大兄皇子、すなわち後の用明天皇だったのである。

池辺皇子が百済より連れ帰った6人がその後どうなったかは記録にない。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』にも彼らの消息を伝える記事はない。
彼らに活躍の舞台が与えられなかったのは、翌年の池辺皇子による斎王との密通事件がからんでいるのかもしれない。
ただ、10年後の崇峻元年(588年)、法興寺(飛鳥寺)建立のために百済から派遣されてきた技術集団の中に造仏工が含まれていないことをもって、「大別王」が招聘した造仏工の指導のもとで仏像を制作できる倭国の技工が育っていたという説があることは触れておこう。

いずれにしても、以上のことは、池辺皇子が百済との外交交渉をまかせられるほどの資質をもった、まさに「大兄」にふさわしい人物だったことを物語る。
そして、池辺皇子が百済の僧尼や工人の招聘にたずさわったということは、仏教に関する彼の知見が高く評価されたゆえであり、また、彼らの世話を通じて彼自身が造詣をさらに深めたであろうことも容易に想像できる。
厩戸皇子はそうした父のもとで幼いころより大陸の知識に触れて育ったのである。

コメント

菟道皇女は

いつも慎重に論を進める貴殿には珍しく、かなり大胆な仮説に踏み込んだこと、驚くと同時に大変喜ばしく拝見させていただいた。

池辺皇子=大別王=用明天皇との仮説には、多角的な検証が待たれるが、非常に魅力ある説だと思う。
だが、貴殿も承知のこととは思うが、菟道皇女については、日本書紀において広姫の生んだ「菟道磯津貝皇女」と推古の生んだ「菟道貝蛸皇女」を混同しており、菟道貝蛸皇女について「更の名を菟道磯津貝皇女」としている。
推古の生んだ菟道皇女は厩戸皇子に嫁したとあり、日本書紀のいうようにこの菟道皇女が広姫の生んだ菟道皇女と同一人物だったとすれば、池辺皇子、貴殿の説を借りれば用明天皇に奸された女性が、用明の息子である厩戸に嫁したということになってしまう。
そのあたり、貴殿がどのような思索をめぐらせているのか、お聞かせ願えれば幸いである。

Re: 菟道皇女は

大黒丸さま

このたびもコメントありがとうございます。

菟道皇女については何が通説なのかはしっかり調べていないのでわかりませんが、岩波の『日本書紀』の注をみると、本居宣長の『古事記伝』を援用して、広姫の生んだ「菟道磯津貝皇女」の“磯津貝”が間違いだとしています。
つまり、広姫の娘が「菟道皇女」で、推古の娘は「菟道貝蛸皇女」であり「菟道磯津貝皇女」であったということにしているようです。
これにしたがえば、池辺皇子に奸されたのは前者となります。

さらに、池辺皇子に奸されたのを将来厩戸に嫁ぐことになる推古の娘とするのは無理があると思います。
というのも、推古が敏達に嫁いだのが571年ですから、すぐにこの娘ができたとしても、「池辺皇子」なる人物に奸された578年の時点では7歳にすぎません。
「池辺皇子」が用明であるかどうかにかかわらず、これはさすがにありえないものだと思います。
もしあったとしたら、もはやロリコンを通り越して鬼畜ですね。

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