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大化改新の方程式(91) 

大兄2人体制
前回その素性を明らかにした池辺大兄皇子(後の用明天皇)は、私の「大兄」論にもとづけば、欽明朝の後期において、皇太子となった渟中倉太珠敷皇子(後の敏達天皇)とともに朝政に参加していたことになる。

そして、次の敏達朝においても、外交面で活躍した「大別王」が池辺皇子であるという私の説が正しければ、引き続き「大兄」として朝政に参加していたことになろう。

ただ、池辺大兄皇子が敏達天皇の政治に参画していたことは、「大別王」の一件をださずとも、以下のことから明らかだ。
・敏達元年に大王が「皇子と大臣」に北陸に漂着した高句麗人について尋ねている記事があるが、この「皇子」は押坂彦人大兄皇子ではなく池辺大兄皇子であろう。というのも、538年誕生説にたてば敏達天皇は当時35歳であったが、その長子である彦人皇子がこのとき朝政に参加できる年齢(20歳)に達していたとは思えない。
・この「皇子と大臣」のコンビは敏達4年にも登場し任那のことを怠らないよう大王から命じられている。
・敏達14年に大王が死の病に冒されたとき、「橘豊日皇子」(用明天皇の諡号にもとづく名)に任那の復興が託されている。

以上のことから浮かび上がってくる外事に精通した池辺大兄皇子の人物像は、ひるがえって、前回展開した「大別王=池辺大兄皇子」説があながち荒唐無稽でないことを物語っているといえよう。

ところで、池辺皇子が「大兄」と呼ばれるようになったのは、欽明朝においてということに注意したい。
私の「大兄」の定義にしたがえば、敏達朝においても敏達の皇子のうち年長者が新たに「大兄」と尊称されることになるわけだが、それが押坂彦人大兄皇子であるのは言うまでもない。
おそらくは敏達朝の後期に、彦人皇子が20歳を超え「大兄」として朝政に参加するにおよび、敏達朝の「大兄」は先代と当代という2人体制となったはずである。
こういう場合、先代の「大兄」が時をおいて朝政に参加しなくなることで世代交代が行われるのが理想的なパターンであろう(池辺大兄皇子が新たなルールでの最初の「大兄」なので先例があったわけではないが・・・)。

しかしながら、池辺大兄皇子が敏達14年に大王から直々に任那の復興を託されているように、外交にたけた池辺の存在は朝政には欠くべからざるものだった。
こうして「大兄2人体制」が敏達崩御まで継続したものと考える。

先代と当代の「大兄」が併存することは、「大兄」のルール上、十分想定される事態であり、山背大兄皇子と古人大兄皇子も舒明期において(古人が成人に達してから)、先代、当代として朝政に参加していたものと思われる。
なお、乙巳の変直前における古人大兄皇子と中大兄皇子も2人体制ではあるが、これは特殊なケースというべきで、後ほどあらためて触れることにしたい。

さて、敏達崩御の時点で、王位の正統な継承予定者である竹田皇子(異母兄妹婚という理想的な関係での所生子)がいまだ20歳になっていなかったため、「中継ぎ」の大王をたてることになったわけだが、ともに「大兄」である池辺大兄皇子と押坂彦人大兄皇子のいずれかにすべきかの議論はあったであろう。

池辺大兄皇子が関わった7年前の斎王密通事件が議論を紛糾させたかもしれないが(この斎王がもう1人の「大兄」押坂彦人大兄皇子の同母妹だったというところが興味深い)、結局池辺大兄皇子が大王に即位。これが用明天皇だ。
そこで決め手になったのが、外交面で存在感をみせつけた池辺個人の資質に加え、王権の分掌形態を担う皇后つまり額田部皇女の意向であったろう。額田部皇女にとって池辺は同母兄という近さもあるが、それ以上に、竹田皇子の母としては、生前譲位がない時代に「中継ぎ」は年齢が高いほうが好ましいという思惑もあったにちがいない。

よく言われるように蘇我氏の権勢がどこまで用明天皇擁立劇に影響したかは定かではないが、ほかならぬ蘇我氏の内部からこの用明天皇誕生に異を唱える者がでてきた。用明の異母弟である穴穂部皇子である。


<追記>
「中継ぎ」の大王として用明天皇が即位した事情については、すでに過去の記事(大化改新の方程式(33))でも扱ったが、そこでは、「中継ぎ」候補の中の序列にはあまりはっきりしたルールがなく、それが政争の火種となったと論じた。
今回「大兄」に関するルールをもちだすことで、以前の考えを改める必要がでてきた。
ただ、「大兄」が2人という事態が現出するにおいて、また、そうなる蓋然性がかなり高いという意味において、争いの芽を摘むことはできないということもまた事実である。
結局は、「女帝」という要素を「中継ぎ」ルールに取り入れることで事態を収拾せざるをえなかったという点は、過去の記事で論じてきたものと変わるところはない。

コメント

2人いては

多用中につき、疑問点のみ簡潔に記させていただく。


「大化改新の方程式(88)」の中で貴殿は、

『継承予定者すなわち皇太子候補が20歳未満の時点で大王が死亡した場合、「中継ぎ」の選定にいかなる基準もなければ結局は継承者争いが発生してしまう。そのリスクヘッジのために機能したのが「大兄」だと私は考えている』

と記しておられるが、継承者争いを回避するために設定されたのが大兄という名称だとするなら、それが2人存在するのはその意義と矛盾しているのではないだろうか。


また、「大兄」が中継ぎの大王候補だったとするなら、中大兄が「大兄」の称号を持っていたのは解せない。
彼は大王家内部の近親婚によって生まれた「正統な大王」候補だったはずだからだ。
古人大兄と中大兄の並立に関してはこれから論が展開されると思うが、あらかじめ疑問を呈させていただいた。

Re: 2人いては

大黒丸様

失礼を省みず言わせていただければ、今回コメントをいただくことは想定内でした。

そして、その予防線として、件の記事の次の「大化改新の方程式(89)」にて、以下のように自説を補足しておりました。
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誤解がないように補足させてもらえば、中継ぎの大王候補にするために「大兄」と呼んだということではない。天下を統べる大王に代わり王家を束ねる役回りをさせるため現大王の長子(同母)のうち年長者を「大兄」と呼んだのが第一義であって、中継ぎが必要となったときにその「大兄」が結果的に王位につく最有力候補となった、ということだ。
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ご指摘のような「継承者争いを回避するために設定されたのが大兄」というつもりは元々なかったのですが、私が「リスクヘッジのために機能した」と言い切ってしまったところに誤解が生じてしまったようです。

実際には、この「大兄」のルールはその最初(用明天皇)からうまく機能しなかったというのが真実でしょう。
次回の記事で触れるように、結局は「女帝」という新たな要素で中継ぎのルールを修正することで事態の収拾をはかることになったのですから。

ただ私は、うまく機能しなかったからこのルールはなかったとは考えていません。
おそらく大兄に対して「天下を統べる大王に代わり王家を束ねる役回り」を期待する部分は残ったはずであろうからです。

中大兄の「大兄」については、おっしゃるとおり、この問題こそもともと私が「大兄」論を始めた理由ですので、のちほど触れることになります。

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