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大化改新の方程式(92) 

穴穂部皇子騒動
脱線気味の話題が続くが、用明天皇即位に異を唱えた穴穂部皇子の騒動についてみてみよう。

前回展開したように、敏達天皇没後の「中継ぎ」の大王選定では、先代「大兄」池辺大兄皇子と当代「大兄」押坂彦人大兄皇子との争いであったはずで、本来、穴穂部皇子の出る幕はなかった。

その彼が野心を抱いた理由としては、以下の2つがあげられよう。
1.「中継ぎ」というルールの適用としては初めてのケースであったこと、また、皇太子と異なり「大兄」においては血統を重視したものではないことから、自分にもゴリ押しのチャンスがあると踏んだ。
2.斎王と密通した過去がある池辺大兄皇子を「中継ぎ」とはいえ大王として推戴するわけにはいかないという考えで反用明勢力を結集できると期待した。

とくに第2の理由については、「消された『池辺大兄皇子』」と題する以前の記事(大化改新の方程式(89))のコメントで触れたように、ともに蘇我稲目の娘を母にもつ堅塩媛系と小姉君系の皇子たちの対立が背景にあると思われる。

実は、敏達天皇の皇子による斎王密通事件は、池辺皇子が最初ではなかった。
蘇我小姉君の長子である茨城皇子つまり穴穂部皇子の同母兄が斎王を奸して、やはり斎王が解任されている。
しかもその斎王はなんと池辺皇子の同母妹(堅塩媛系)であり、額田部皇女(後の推古天皇)の同母姉だった。
日本書紀にはこの皇子が罰せられたという記事はないが、その後彼の同母弟(小姉君系)である穴穂部皇子や泊瀬部皇子の“活躍”が記録に残っているにもかかわらず、この皇子の名がいっさい登場しないことを考えると、密通事件の責めを受けて追放されたのではないだろうか。

一方、同じ斎王密通事件を起こした池辺皇子は、罰せられるどころか「大兄」と呼ばれ、はては大王にまでなった。
おそらく茨城皇子と池辺皇子の密通事件は、事件の性格がまったく異なるものであったと推察されるが、穴穂部皇子ら小姉君系の皇子たちにすれば面白かろうはずがない。
さらに言えば、もし池辺皇子が茨城皇子と同じく処罰されていたなら、穴穂部皇子自身が「大兄」となっていたかもしれないという憤懣やるかたない思いもあったであろう。

そして、穴穂部皇子が当初自分への支持を期待したのが、三輪逆だったのだと私は思う。
三輪逆は物部守屋らとともに排仏的な行動をとっていたため、仏教に好意的な池辺皇子の即位には否定的だったのではないだろうか。
蘇我氏系の穴穂部皇子が排仏派だったとは思えないが、敏達の信頼が厚かったという三輪逆の支持をとりつけることができれば大王選定においてゴリ押しの芽もでてくると期待したはずだ。

とはいえ結果は失敗。敏達の殯宮に詰める三輪逆に対して、「亡くなった人間に仕えて、どうして生きている自分には仕えないのか」といった穴穂部皇子の言葉はこうした文脈でとらえるべきだろう。

コメント

まったく男って

茨城皇子にしろ池辺皇子にしろ、どうして皆さん
斎王と通じたがるんでしょうかね。
「絶対に通じてはいけない」
ってのがいいんでしょうか。
まったくどいつもこいつも
男ってやつぁどうしようもありませんな。
(ため息)

Re: まったく男って

黒麻呂は一目ぼれという特殊な例ですが、茨城皇子の場合は幼い頃から知っている女子が斎王になったと思えば、そこには強引に引き裂かれた悲恋のドラマがあったのかもしれません。
ただ、池辺皇子は解せないですね。
すでに厩戸皇子が生まれているし、しかも最初にもうけた田目皇子にしてはかなり大きくなっているはず。
そんな息子たちがいるオヤジ(おそらく若くても30歳前半か)が今さら悲恋のドラマというのも無理があるような・・・。
光源氏にとっての若紫みたいなもんでしょうか。それでも十分アブナイオヤジですね。

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