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大化改新の方程式(95) 

丁未の役前夜
前回までの穴穂部皇子をめぐる話がなんだか込み入ってきたので、これまで明らかにした論点をもとに、敏達天皇没後から2度にわたって勃発した穴穂部皇子騒動を整理してみた。

585年8月:第一次穴穂部皇子騒動
・敏達天皇死去。
・初めての「中継ぎ」大王の選定。候補となる「大兄」が2人のため選定は紛糾。
・当代「大兄」(彦人皇子)を抑え先代「大兄」(池辺皇子)に傾きかけるも、穴穂部皇子が異を唱える。
・穴穂部が敏達の寵臣・三輪逆の支持を得ようとするが拒否される。
・9月池辺皇子が即位(用明天皇)。

586年5月:第二次穴穂部皇子騒動(三輪逆討滅事件)
・穴穂部皇子が池辺皇子の後釜として「大兄」となる根回しのため、殯宮にいる前大后・額田部皇女を訪問。
・穴穂部皇子が入宮を三輪逆に阻止され、レイプ未遂の噂流れる。
・穴穂部皇子が物部守屋の協力を得て、三輪逆一族を滅ぼす。

以上のように、第一次穴穂部皇子騒動は「中継ぎ」王位選定に関わる事件であったが、第二次穴穂部皇子騒動、すなわち三輪逆討滅事件は王位選定とは別の事件であったといえる。
むしろ物部守屋からみれば、排仏派内の主導権争いとみるべきというのが私の考えだ。

そして、587年4月2日、用明天皇がにわかに天然痘を発症するまでは、こんなにも早く「中継ぎ」王位選定問題が再浮上してくるとはだれも予想していなかったであろう。

それでは、この後、事態はどのように推移したのであろうか。

日本書紀の記述をまとめると以下のようになる。
(a) 病床にある用明天皇の仏教帰依の意向を受け朝議が開かれる。
(b) 物部守屋と中臣勝海が反対し、蘇我馬子と対立。
(c) 穴穂部皇子が法師を連れて参内し、物部守屋が怒る。
(d) 押坂部史毛屎が物部守屋に朝廷内に反物部の動きがあることを密告。
(e) 物部守屋が河内国阿都に引き上げ、軍を招集。
(f) 中臣勝海も物部守屋に同調し軍を集める。
(g) 中臣勝海が“太子”彦人皇子と竹田皇子の像をつくり呪詛するが失敗。
(h) 呪詛に失敗した中臣勝海は彦人皇子に与するため、彦人皇子の水派宮に出向く。
(i) 水派宮を辞した中臣勝海を迹見赤檮が殺害。
(j) 物部守屋が朝議を放り出して河内国に退いた理由を蘇我馬子に伝える。
(k) 蘇我馬子の要請を受け大伴比羅夫が馬子の警護にあたる。
(l) 4月7日用明天皇死去。

日本書紀の記述を信じるならば、以上のことが6日間のうちに起ったことになる。
実際には用明崩御後に起こった出来事もあるだろうが、短期間のうちに事態が急展開したことはまちがいない。

前回私は、この展開の裏に押坂彦人大兄皇子が現政権(用明天皇・竹田皇子・蘇我氏)を打倒する計画を始動した事実が隠されているとした。
その根拠になるのが、(d) の押坂部史毛屎が反物部の動きを物部守屋に密告した件だ。
押坂部史毛屎は明らかに押坂彦人大兄皇子の身内であろうから、この時点、あるいはそれ以前から彦人皇子と物部守屋とは近い関係にあったと推察できる。

以前も述べたが、物部守屋がはじめから穴穂部皇子派であったというのは日本書紀の後講釈であろう。
用明天皇に万一のことがあった場合は、押坂彦人大兄皇子が唯一の「大兄」としてもっとも大王に近い存在だったはずである。
そして、いままさにその“万一のこと”が進行中なのだ。
さらに、おそらく故・敏達天皇の排仏的な側面を継承していたであろう彦人皇子は、排仏派には同志的存在であったにちがいない。
したがって、大王選定問題がもちあがるのであれば、物部守屋や中臣勝海が押坂彦人大兄皇子を推戴するのは自然のなりゆきであったといえる。

うがった見方をすれば、彦人皇子を一番支持していたのは三輪逆であって、物部守屋が彼とその息子たちを殺害したことが、彦人皇子と物部守屋との関係をぎくしゃくさせていたのかもしれない。
だが、彦人皇子にすれば、そんな遺恨を封印して急ぎ物部守屋と共闘すべき事態がもちあがったのである。

その事態とは、(c)の穴穂部皇子が法師を連れて参内した一件だ。
おそらくこれは蘇我馬子の差し金だったと私は考えている。
これによって、三輪逆討滅で共闘した穴穂部皇子を物部守屋から離反させることになり、物部包囲網が完成すると踏んだからだ。
加えて、長年にわたり対立してきた堅塩媛系と小姉君系の皇子たちの和解という演出効果も狙っていたであろう。
また同時に、前大王の寵臣であった三輪逆殺害の責任を物部守屋に問うことを群臣たちに根回ししていたにちがいない。

ここまで手の込んだ反物部工作を考えるとき、それが用明天皇が天然痘を突然発症してから初めて計画、実行されたとは到底想定しがたい。
おそらく新嘗祭後の早いタイミングで倭国朝廷として初めて崇仏を宣言し、同時に物部守屋を追い落とす陰謀が以前から着々とすすんでいたと考えるほうが自然である。
そして、この策謀の骨子となるのは以下の3点であろう。
(1) 用明天皇が崇仏路線を採用することを詔する。
(2) 穴穂部皇子が崇仏路線に賛同し「大兄」となる。
(3) 三輪逆殺害の件で物部守屋の責めを明らかにする。

実際には用明天皇が発症したため、(2)については、穴穂部皇子が法師を連れて参内するというかたちで実行に移されたが、押坂彦人大兄皇子にすれば、その背後にある蘇我馬子の意図を読み取るには十分であったであろう。
ポスト用明として自らの地位が安泰でないことを悟ったはずだ。

そして、彦人皇子は(3)が実行される以前に物部守屋の窮地を救うことで陣営に引き戻し、もともと近い関係にあった中臣勝海を連絡役として、反蘇我・反崇仏のクーデター計画を始動させたのである。

ただ、ここで問題となるのが、上記の(g) での中臣勝海の行動、すなわち竹田皇子とともに彦人皇子を呪詛の対象にしている事実だ。
これについては、次回考えてみよう。

次回は年明けとなります。
なかなか大化改新の時代に戻れず申し訳ございませんが、いましばらくご辛抱ください。
それでは皆様、よいお年をお迎えくださいませ。

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