FC2ブログ

大化改新の方程式(98) 

「大兄」論再考
前回の記事に対してまたしても梅前氏より貴重なコメントをいただいた。
コメントへの返信でも書いたように、そこで展開されている氏の「大兄」論は、私の説を再考するに十分な説得力をもっていた。
氏は、大兄の呼称は「同じ母を持つ皇子たちのうちの年長者」に対するものとしたうえで、それに「母方から受け継がれた所領地の経営を行った経験を持つ皇子」という制約条件を加えている。
そして、この所領地(民)とは乳部・壬生部ということだが、おそらく6世紀には名代とされたものと考えていいだろう。
そして、まさに氏が指摘するとおり、大化改新によってそうした部民制が廃止され、それにともない大兄の名称が消滅するわけだ。

ただ、梅前氏へのコメントに対する大黒丸氏のご意見にあるように、梅前氏が想定される制約だけでは、「大兄」の事例の少なさを説明するには足りない。
その点では、私は梅前説を採用するとしても、さらになんらかの制約を考えるべきだと考えている。

梅前氏の論を敷衍すれば、所領地(民)の規模なり、その経営の経験度なりに条件をつけるという解もありうるかもしれない。
そういう視点から、押坂彦人大兄皇子の「大兄」なるゆえんを考えるとき、以下のような指摘は重要になる。
かつて忍坂大中姫(允恭天皇皇后)ために設置されたという刑部は、彼女の死後、押坂宮とともに王家領として受け継がれ、1世紀ののち彦人大兄のものとなった。その戸数は1万5千戸を優に越え、倭国の支配人口の1割近くを占めたという推計もなされている。このような膨大な部民が押坂王家の政治的・経済的基盤となり、蘇我氏に対抗できる力を彼らに与えていたのである。(『飛鳥の都』吉川真司 pp.37-38)

とはいえ、ここで1つ新たな疑問が生まれてしまう。
つまり、皇子宮の家政機関(部民)の一定の規模が「大兄」の不可欠な要件であると仮定すると、逆に、同じ刑部を継承したはずの田村皇子(押坂彦人大兄皇子の長子にして、後の舒明天皇)はどうして「大兄」を名乗らなかったのか。

さらにいま1つ、田村皇子を考えるとき、「大兄は朝政に参加する資格」という、前回から展開してきた自説の大きなポイントにも疑問を抱かざるをえない。
厩戸皇子の死去にともない田村皇子をもって新たな王統をたてる青写真を描いた推古朝後期において、田村皇子が朝政に参画していなかったというのは想定しがたい。

彼が「皇太子」になれなかったことはともかくも、「大兄」とすら呼ばれなかった理由こそ、実は「大兄」の謎が隠されているのかもしれない。

奇しくも飛鳥の地では、田村皇子すなわち舒明天皇が最初に葬られたとおぼしき巨大方墳が発見された。

いまは「大兄」の一般的なあり方について拙速な結論を出さず、「大化改新の方程式」としての本来のテーマに戻るときかもしれない。
いずれまた「なぜ田村大兄皇子ではなかったか」というテーマをもって私の「大兄」論を再考する機会をもちたい。

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)