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大化改新の方程式(101) 記紀編纂時の支配者層のコンセンサスとは何か

前回、記紀編纂時の改変に対する私のスタンスに触れたが、それでは、「記紀編纂時の支配者層で広く得られたコンセンサス」として私が想定しているのは何か、ここであらためてまとめておこう。
もちろん、大王家による日本列島支配の正統性の根拠となる系譜と事蹟に各氏族の伝承を紐付けるという日本書紀編纂の本来の目的に沿って、始祖の捏造や系図の捻じ曲げが行われていることは当然として、そのうえでさらに統一的な方針をもって改変が行われただろう事柄についてみてみたい。
(1)“女帝を不可とする考え”が大化改新前後に大きなアジェンダとなっていたことは触れない
(2)中国の冊封を受けた、あるいは、受けようとした記録はすべて抹消する
(3)壬申の乱での大海人皇子の決起は近江朝に追い詰められたゆえの正当防衛として描く
(4)朝鮮諸国は倭国への朝貢国であり、とりわけ新羅は倭国・日本より格下の国として描く
(1)における「“女帝を不可とする考え”が大化改新前後に大きなアジェンダとなっていた」という仮説は、いわば大化改新という方程式を解くための基本定理というべきもので、これを否定されたら私の大化改新論は瓦解する。
ただ、程度の差こそあれ、当時“女帝を不可とする考え”が倭国朝廷内に浸透していたであろうことは、遠山美都男(『大化改新』p.284)、篠川賢(『飛鳥の朝廷と王統譜』pp.142-143)、仁藤敦史(『女帝の世紀』p.100)、中村修也(『偽りの大化改新』p.93)も指摘している。
私の場合、あえて“大きなアジェンダ”とするゆえんは、この考えを最初に唱え、さらに皇極女帝に譲位を迫ったのが山背大兄皇子であり、それが上宮王家滅亡の引き金となったと考えているからだ(詳細は「なぜ入鹿たちは上宮王家を襲撃したのか?」(『偽りの大化改新』を読む(9))を参照されたい)。
そして、この考えに触れないとする編集方針は、編纂当時が女帝の時代であったことから容易に説明がつく。

(2)については、倭の五王と中国南朝との冊封関係の記録が日本書紀にいっさい残されていないことで明らかだ。
そして、推古朝以降は実際の外交戦略としても「冊封なき朝貢」を志向するようになる。
倭の五王の時代においては、中国の冊封下で爵号を得ることは国内勢力に向けた権威づけとして有益な手段であったし、新羅は倭国の得た爵号のなかではその支配下にあった。
しかしながら、倭国内での大王家の支配体制が確立する一方で、朝鮮半島では新羅が勢力を拡大した6世紀以降においては、冊封のリスク、すなわち倭国が朝鮮半島諸国とりわけ新羅の下位に叙任される可能性を意識せざるをえなくなった。

大陸中国の先進的な文化や制度を吸収したい、されど冊封は忌避したい--- それを私は「大唐コンプレックス」として表現したが、その裏返しである「対等外交」のためのエビデンスづくりこそが、厩戸皇子から藤原不比等にいたる倭国・日本の外交のみならず国政の根幹をなしていたというのが私の主張だ(詳細は「「大唐コンプレックス」の始まり」(大化改新の方程式(53))、「「対等外交」のためのエビデンス」(大化改新の方程式(54))を参照されたい)。

もちろん大真面目に隋や唐と「対等外交」が実現できると信じていたわけではなかろう。当時の為政者の本音を代弁すれば、「絶域のくせにすごいやつ」と中国に言わしめ、それを朝鮮諸国に喧伝したい、というところだろうか。
そして、それをやってのけたのが厩戸皇子であり、その成功体験をその後の倭国はひきずることになる。
これについては、「厩戸マジック」(大化改新の方程式(63))と題する記事から複数回にわたり詳述したつもりだ。

ところで、上記のような視点にたてば、(2)の背後にあるものとして、朝鮮諸国とくに新羅との関係を記述する際の編集方針もあったとみるべきであろう。
そこで、今回(4)として新たに追加しておくことにした。
実はこれから乙巳の変後を描くにあたり、(4)は重要なポイントとなってくる。
というのも、私は孝徳政権が急速に求心力を失うのがその親新羅的な性格のゆえであると考えているが、そのあたりの事情を、(4)のような理由から、日本書紀は十分に語っていないと思えるのだ。このことはいずれ詳しく触れよう。

前後するが(3)については、「「出家」した2人の皇子」(大化改新の方程式(85))で、壬申の乱が勃発した背景については多くを語りたくない理由があるとしたが、詳細は触れていなかった。
言うまでもなく天武朝は簒奪政権であるが、日本書紀が語りたくないのはそのことだけでなく、大海人皇子決起の真の理由と背景である。
それは上記の(2)や(4)に関わることであり、また遠因を問えば、白村江の敗戦にまで遡るというが私の考えだ。
そして、自説の一部を先回りして言えば、日本書紀が黙して語らない事実こそが、大海人皇子が百済復興戦争における九州前線基地の総司令官であったことである。
これについてはもまたいずれ詳述することになろう。

コメント

「女帝不可」

いつもながらの深い論考、敬服しつつ拝読しております。
今回は「お子ちゃま」から先生に質問させていただきたく。

「女帝を不可とする考え」が、中国を基点として当時のアジア世界に広がっていたことは、唐が新羅に対し女王を廃するよう求めたことからも明らかですが、中国王朝においてそれが一般的理念となったのはいつ頃からなのでしょう。
かなり古い時代からそうした考えはあったのでしょうか。
それとも、隋唐あたりになってから「発明」されたものなのでしょうか。

遅くとも隋代にはもうその考えは定着していますよね?
裴世清来倭時の仰々しい外交儀礼は、何とかして大王の顔を見せまいとする苦肉の策と思われます。唐皇帝ですら外国使節との謁見では直接面会するというのに、はるばる海を越えてやってきた裴世清に顔を見せないというのは、大王が女性であることを隠そうとしたものとしか考えられません。

もし倭国が「女帝不可」の考えをそれまで知らず、最初の遣隋使が初めてそれを知って帰国し、倭国の大王が女性であることを慌てて隠そうとしたのなら、その後なぜ皇極が即位できたのでしょう。
有力な大王候補の対立回避など、倭国独自の事情はもちろんあったのでしょうが、「なんか女が王ってダメらしいよ」と知っていたなら、多少無理しても男王を立てる道もあったと思えるのです。
中国王朝に「女帝不可」の考えが古くからあったとしたら、推古が大王となったのも疑問ですが、皇極の場合は裴世清の来倭により倭国支配層はその思想を必ず知っていたはずで、「知っているのになぜ女?」と思ってしまいます。
さらに、彼女が斉明として重祚した頃には東アジア世界は風雲急を告げており、そこになぜわざわざ「不可」とされた女帝を、それも高齢の女性を位につけたのでしょう。
何か意味があってのことなのか。
それとも単なる外交音痴なのか。
元明・元正は、則天武后を間近に見た遣唐使が帰国していますから、彼女たちの即位は理解できるのですけれども。
そのあたり、これから展開されるであろうれんしさんの論の中でお考えをお聞かせいただけたら嬉しいです。

Re: 「女帝不可」

梅前さま
毎度チャレンジングな質問をありがとうございます。

「女帝を不可とする考え」が明確な理念として存在していたわけではないようですが、その根本にあるのは儒教思想に由来する男尊女卑の考えです。その意味では古くから存在した考えです。
ただ、儒教の名誉のために言えば、儒教自体が男尊女卑を唱えていたわけではありません。
儒教が教える5つの道徳(五倫)のなかに、夫婦の徳として、それぞれの異なる役割を認識して努めることがあります。そこから妻は内助の功に徹する姿勢を良しとする風潮が生まれ、男尊女卑に結びついていったようです。

>隋唐あたりになってから「発明」されたもの

ある意味、この言い方が正しいと思います。
女帝不可がでてくるのは、まさに不可とすべき女帝が出現したからです。つまり、それが、倭国の推古であり、朝鮮初の女帝である善徳であったわけです。
女帝の統治を経験したことのない中国にあって、儒教的な男尊女卑をベースとした隋唐の人々には、「女性が国を統治すること」は純粋に驚きであったにちがいありません。なかには嫌悪感や蔑みの念を抱いた人もいたでしょう。
そして、男性だけなく女性のなかにもそういう感情を抱いた人がいたようです。その1人が太宗(李世民)の長孫皇后で、女性が政治に口を出すと国が滅びると言って、慎ましい生活を送ったそうです。そうした女性のあるべき姿勢を記した『女則』という本まで著わしています。
彼女が636年に早死にした後、『女則』を読んだ太宗が彼女の死をいたく悲しんだと言われています。数年後、太宗が新羅の支援要請に「女帝不可」をもって応えた理由として、もともとあった儒教的な男尊女卑の風潮に加え、死んだ長孫皇后の存在もあげるべきでしょう。

>遅くとも隋代にはもうその考えは定着していますよね?

上記のように、男尊女卑の思想はあったでしょうが、「女帝不可」の考えにまで及んでいたかどうかはわかりません。
以前私は、遣隋使が倭国の王を男性の名前で表現したのは「女帝不可」の考えに配慮したことだと考えていましたが、「近親婚による王位継承で読み解く政争(2)」で書いたように、推古は「中継ぎ」にすぎないので、本来あるべき政体(大王・王后・太子の分掌体制)を述べたものだと考えています。その記事にあるように、「“女帝を不可とする考え”が倭国においても思想としてかたちをなすのは、やはり僧旻や高向玄理らが唐から帰朝してから後のこと」というのが現在の私の考えです。
また、裴世清来倭時に大王が顔を見せなかったのは女帝の存在を隠すというよりは、もともとそういう外交儀礼だったのだと思っています。(実はこれは乙巳の変の謎を解くカギとなります。それはまた後日)

>なぜ皇極が即位できたのでしょう。

「女帝を不可とする考え」が倭国に浸透していたという仮説が正しいとすると、皇極の即位は舒明天皇の死によって自動的に決まっていた、すなわちそこに異論を差し挟む余地はなかったという解釈の妥当性が高まります。もし通説がいうように、山背と古人のいずれを即位させても争いのもとになるという判断から妥協の産物として皇極を立てようとしたのであれば、「女帝を不可とする考え」から異論が出てくるだろうからです。まさに梅前さんが疑問視したことですね。
そして、「中継ぎ」というシステム的な処理に、「女帝を不可とする考え」をもって強硬に異を唱えたのが山背だというのが私の考えです。

先に書いたように、この考えを広めたのは中国留学組ですが、とくに高向黒麻呂が急先鋒だったと考えています。
黒麻呂が「女帝不可」の思想を強くした理由として、彼が長い滞唐中に儒教思想を習得したこと(長孫皇后の『女則』を読む機会もあったでしょう)、倭国の支配者(推古)がたとえ「中継ぎ」であるとはいえ実は女性であったことに唐の人々に驚かれたことに加え、帰国する際に新羅に立ち寄ったことが影響しているのだと思っています。善徳が王位についたとき、唐の冊封を受けるのに数年を要しました。なにせ倭国を除く東アジアで初めての女帝ですから、どういう爵号を与えるべきかどうかかなりの議論があったのだと思います。もちろんこのとき黒麻呂が新羅に滞在していたわけではないでしょうが、後年、新羅に立ち寄ったとき、反女王的な立場のグループ(毗曇ら)と意見交換もしたのだというのが、私の妄想に近いストーリーです。

なお、斉明の即位についてみれば、「女帝を不可とする考え」のゆえに退位させらせた宝にしてみれば、政権を取り戻したという意識のほうが強かったでしょう。
ご存じのとおり私は、皇極も斉明も祭り上げられた大王とはみていないので、彼女は彼女なりの唐とのつき合い方があったのだと思います。

長くなりましたが、最後に・・・ ここで登場する宝と黒麻呂は『皓月』に登場する2人とは似ても似つかない人物像ですが、でもこの2人がいたから、大化改新という歴史の歯車が大きく動いた、という視点は同じものだと思っています。

すげえ

先生、ありがとうございました。
お忙しいところ本当に丁寧に解説いただき、感謝の念に堪えません。
「女則」ですかぁ。初めて知りました。
本当に何でもご存じなんですね。人間データベース?
私にもれんし先生くらいの知識量があったらなぁ~、などと遠い空を見つめるワタシ。
先生にとっては私の書いた小説なんて「小学生の作文」のようなもんなんだろうなぁ、なんて。
「あああ、またこんなこと書いちゃって。ここもここも添削添削」みたいな?
‥‥まあいいや、バカはバカなりに生きていかねば。

これからも厚かましくもデータベースにアクセスしていきたいと思いますので
どうぞよろしくお願いいたします。
今回は本当にありがとうございました。

Re: すげえ

「データベース」というと聞こえはいいですが、前後関係を無批判に拾い集めた知識の断片にすぎないので、恥かしいです・・・・

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