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大化改新の方程式(102) 吉野太子

お持ち帰りの仕事が増え、ブログにまとまった時間がとれなくなってしまいました。
更新頻度が落ち気味になっていますが、どこかで巻き返しをはかりたいと思っています。


このあたりで話を戻そう。

これまで複数回にわたって用明天皇の素性や穴穂部皇子による三輪逆討滅事件、「丁未の役(ていびのえき)」と呼ばれる蘇我物部戦争を論じてきたが、そのきっかけは、「中大兄」という呼称を俎上にあげるにあたり、まずは「大兄」全般を理解しようという無謀な試みからだった。
はたして、「大兄」論については自らに宿題を課すかたちで未完とするしかなかった。
「中大兄」という呼称の謎についてはいましばらく棚上げにするしかない。
(期待していた方がおられたら、申し訳ない・・・)

というわけで、ここで戻るべき場所とは、「「中大兄」としての葛城皇子」(大化改新の方程式(86))において、以下のように結論を先取りしていたところだ・・・
結論から言えば、乙巳の変の前後において皇太子は2人存在したのであり、葛城皇子が諱(いみな=本名)である中大兄皇子が「中大兄」と呼ばれていた事実がそれを物語っているというのが私の考えだ。
先に間違いを指摘しておくと、「乙巳の変の前後において皇太子は2人」ではなく、「乙巳の変の直後において皇太子は2人」というべきであった。

もし古人大兄皇子が乙巳の変の直前に皇太子となっていて、しかもクーデター後に出家していなかったとしたら、彼は皇太子の地位に留まっていたとするのが自然だろう。

そのことは、日本書紀において、吉野にある古人大兄皇子を「吉野太子」と呼んでいることからも推察できよう。
もちろん、咎なくて死に追いやられた古人大兄を後世の人が憐れんでそのように呼んだということも考えられるが、上記の記事で書いたように、日本書紀が古人皇子謀反事件を描く箇所においては、葛城皇子が「皇太子」ではなく「中大兄」として登場していることを考え合わせると、古人大兄を「太子」(当時はどのような呼称だったかは不明だが、少なくとも王位継承者としての地位を意味するもの)と呼ばしめる客観的な状況があったのだと私は考える。

その客観的状況とは、古人大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂の庇護のもと、以前と変わらぬ姿のままで吉野にあったということだ。

それでは、なぜ吉野なのだろうか。

われわれは、この古人大兄皇子や大海人皇子の顛末を知っているので、幽閉または蟄居の場所として、この辺鄙な吉野の地が選ばれたというイメージをもっている。

たしかに吉野は不老長寿の泉湧き出る神仙の地とされていたが、もう一方で、交通の要衝でもあるのだ。
吉野宮を田舎と思ってはいけない。南へ出ると紀伊の海岸、西へむかうと紀湊のある名草郡、東は伊勢、北は飛鳥と交通の要衝で、縄文時代の宮瀧遺跡があり、弥生時代と古墳時代の遺跡が重なり、斉明のころには吉野寺や宮がつくられた。(『敗者の古代史』森浩一 pp.252-253)
ずっと時代は下り、南北朝時代の南朝が拠点としたように、ここは天然の要害に囲まれ、攻めるに難く守るに易い土地であると同時に、万一の場合はどの方向にも逃げられるという利便性をそなえている。

古人大兄皇子や大海人皇子がそこにいたのは、追いやられたのではなく、身を置くにはもっとも安全な場所として自らが選択した結果であるといえよう。

そして、時の政権が、彼らがそのような地に居を移すことを問題視しなかったのは、彼らが脅威とは映らなかったからだ。
とくに古人大兄皇子は、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の庇護下、裏を返せば管理下にあったわけで、それ以上、古人大兄を追い詰める必要はなかったはずだ。

だが、中大兄皇子には少々事情がちがっていた。
彼には古人大兄皇子を排除すべき理由があった。
すなわち、古人大兄がなお「太子」としてそこにいたからだ。

中大兄にとって乙巳の変はまだ終わっていなかったのだ。


<追記>
以下は地図を見ながらふと思ったことなので、妄言の類と思って読んでいただきたい。

吉野宮があったとされる宮瀧遺跡は、飛鳥から斑鳩までの直線を逆方向に延長した線上にある。
南南東から北北西に向けてなだらかに傾斜している奈良盆地の地形から考えれば、吉野宮、飛鳥、斑鳩が一直線上にくる蓋然性は高いとはいえ、そこに何らかの意図があるのではないかと思わないでもない。

さらにいえば、吉野宮と斑鳩を結ぶ直線のちょうど中間点が藤原宮のあったところだ。

いうまでもなく吉野宮を造営したのは斉明天皇なので、その約40年後の藤原宮との関連性を云々してもお門違いかもしれない。
だが、斉明天皇がどのくらいのスケールをもって飛鳥を改造しようとしていたかは不明なままだ。
むしろ私は、飛鳥の地に留まらない、奈良盆地全体を念頭においた青写真を彼女はもっていたのではないかと思っている。

ここで思い出すのが、厩戸皇子もまた“大和改造計画”のハード面として、飛鳥から斑鳩に至る“都城計画”を練っていたであろうことだ(詳しくは「大唐コンプレックス」の始まり(大化改新の方程式(53))という記事以降、数回にわたり展開している記事群を参照されたい)。

私は、皇極・斉明こと宝皇女は、夫・舒明天皇と同じく上宮王家を強く意識していたのだと思っている。(たとえば、舒明の百済寺・百済宮のセット造営は、蘇我本宗家ではなく、上宮王家の斑鳩寺・斑鳩宮に対抗したものと考えるべきではないだろうか)
斉明の“都城計画”が厩戸皇子のそれを超えるものであっても不思議ではない。

彼女は何をしようとしていたのか? 
百済復興戦争で中断を余儀なくされなければ、もっと明確なグランドデザインのコンセプトを後世に残したことであろう。

あるいは、大海人皇子が壬申の乱の勝利のあと、都を再び飛鳥の地に戻したのは、亡き母の理想を実現させるためであったのかもしれない。

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