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大化改新の方程式(103) 古人皇子謀反事件の真相

前回の記事で、吉野に居を移した古人大兄皇子は蘇我倉山田石川麻呂の庇護下にあったと述べた。
今回はこれについて触れておこう。

日本書紀によると、古人大兄皇子の謀反に加担した一党の筆頭に蘇我田口臣川堀の名があがっている。
彼が古人大兄とともに殺害されたのかは不明だが、蘇我田口氏はその後も2回登場する。
1つは、クーデター後最初の施策となった東国「国司」派遣のなかに、名は不明のまま「田口臣」として登場する。
もう1つは、4年後の蘇我石川麻呂討滅事件で連座して処刑される蘇我田口臣筑紫だ。

古人皇子謀反事件は「国司」派遣中のことなので、「国司」の田口臣は川堀ではなく筑紫である可能性が高い。
新政権にとって一大イベントである「国司」任命には左・右大臣が関与していたはずであろうから、筑紫は石川麻呂の腹心中の腹心であったというべきだろう。

一般的な解釈では、乙巳の変後、蘇我一族内の求心力が弱まり、蘇我田口氏のように、川堀が古人大兄皇子に臣従する一方で、筑紫が蘇我倉山田石川麻呂に組するといったケースがでてきたということになっている。
だが私は、古人皇子謀反事件での蘇我田口臣川堀が蘇我田口氏のなかで異端だったのではなく、石川麻呂の意を受けて、古人大兄皇子のボディーガード兼監視役だったのだと思っている。

それでは古人皇子謀反事件はどのように推移したのだろうか。

ここで参考になるのが、古代史学会のなかにあって蘇我氏の“復権”に先鞭をつけた門脇禎二の解釈であろう。
門脇は「事件は9月から11月にかけてほぼ3ヵ月にわたる事件であった」(『「大化改新」史論 下巻』 p.22)として、実際に謀反の謀議があったことを前提に、次のように推理する。

謀反計画が吉備笠臣垂の密告によって発覚した後、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の意向を強く受けた第一次征討隊によって説得工作が行われ、多くの離反者がでていったんは落着。
しかしながら、その結果を不服とする中大兄皇子が左大臣・阿倍内麻呂を説き伏せて第二次征討隊をおくり、古人皇子を妻子ともども誅殺。
(詳細は「いわゆる、古人王子「謀反」事件について」『「大化改新」史論 下巻』を参照)

以下の点からこの門脇説には説得力があるようだ。
・日本書紀の本文では9月の事件としつつ、或本に曰くとして11月説を載せていて、征討隊の面子がまったく異なっている。
・計画に加わった倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津、物部朴井連椎子は後年中央政界で活躍した形跡がある。これが謀殺説の根拠だが、側近のほとんどが裏切り者というのは逆に想定しづらいのではないか。むしろ彼らは第一次征討隊によって説得されて帰順したというほうが現実的だ。
・11月の第二次征討隊は、中大兄皇子の子飼い(乙巳の変で活躍した佐伯子麻呂)と阿倍氏の配下の者で構成されている。

門脇説では謀反があったのは確かだとされているが、私は前回の記事で述べたように、中大兄皇子にとって古人大兄皇子を排除する必然性があった、すなわち、中大兄が名実ともに「皇太子」となるには、もうひとりの「皇太子」である古人大兄を抹殺する以外にないという意味で、追い討ち説をとりたい。

その証拠に、古人大兄皇子以外の謀反人に流罪にすらなった者がいないことに加え、この謀反の討伐には将軍が任命されていないことをあげたい。

飛鳥時代における討伐・討滅事件おいて、将軍が任命されているのは、上宮王家滅亡事件(643年)、乙巳の変(645年)、蘇我石川麻呂討滅事件(649年)だ。
一方、蘇我物部戦争である丁未の役(587年)、古人皇子謀反事件(645年)、有間皇子謀反事件(658年)では将軍の任命はない。

丁未の役は大王空位時に発生したため将軍の任命がなかったという解釈ができよう。
また、有間皇子謀反事件ではかなり以前の「「20歳」の意味」という記事(大化改新の方程式(40))の追記で述べたことだが、蘇我赤兄が機転をきかせて工夫たちを動員しての捕縛劇であったというのが私の解釈なので、将軍が登場する余地はない。

将軍が任命されていない古人皇子謀反事件は、孝徳天皇の黙認はあったであろうが、あくまで中大兄皇子の私闘に近い扱いだったといえるのではないだろうか。

逆にいえば、上宮王家滅亡事件や蘇我石川麻呂討滅事件において将軍が任命されている事実は、実際にかなり大がかりな謀反計画がそこにあり、朝廷軍が動員されたことの裏付けになると考える。

ちなみに、乙巳の変では巨勢徳多が将軍に任命されているが、このとき中大兄皇子に将軍の任命権があったとは思えないので疑問である。実際『藤氏家伝』に登場する徳多は将軍を冠してはいない。
おそらく巨勢徳多に言わせた“君臣の別”の口上ともども後世の脚色であろう。

以上のことから、私にとっての古人皇子謀反事件の真相とは以下のような展開となる。

・中大兄皇子の意をうけた吉備笠臣垂が古人大兄皇子謀反のでっちあげをはかる(9月)。
・糾問使が派遣される(討伐軍ではない)。
・古人大兄の居に出入りしていた人々が取り調べを受ける。
・古人大兄の後見人である右大臣・蘇我倉山田石川麻呂の意向もあり、事件はシロと判定。取り調べを受けた者も無罪放免(門脇は「帰順」というが、もともと濡れ衣だったのではないか)。おそらく蘇我田口臣川堀もお咎めなし。
・おもしろくない中大兄は、難波遷都の日程がのぼった段階(11月)で、危険分子として古人大兄排除を主張する。
・左大臣・阿倍内麻呂の賛同を得て、孝徳天皇の黙認のもと、討伐隊(9月は糾問使なので討伐隊としては11月が最初)が派遣され、古人大兄は妻子ともども誅殺される。

結局は右大臣・蘇我倉山田石川麻呂も古人大兄皇子を見捨てざるをえなかっただろうが、まがりなりにも「皇太子」という駒を掌中にしていた石川麻呂にしてみれば、打撃は大きかったであろう。

門脇はこの事件について、これを機に蘇我倉山田石川麻呂と阿倍内麻呂・中大兄皇子との対立が抜きさしがたいものになったとしているが、全面的に賛成だ。
しかしながら門脇が、石川臣麻呂の立場がこの事件を機に急速に悪化し、4年後の蘇我石川麻呂討滅事件の原因になったとしている点については、大化政権の実権が中大兄皇子にはなかったと考える私にとっては、これを直接の原因とまでは言えないとしたい。
蘇我石川麻呂討滅事件勃発までには、石川麻呂と阿倍内麻呂・中大兄との確執を抱えたままであるが、なお紆余曲折が必要だと思われる。

このまま4年後の蘇我石川麻呂討滅事件にすすみたいところではあるが、それは後日展開するとして、石川麻呂と古人大兄皇子とのつながりが確認できたところで、ふたたび乙巳の変に戻ろうと思う。

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