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大化改新の方程式(105) 続・「“韓人”の正体」再考

乙巳の変における“三韓進調”の謎に迫る前に、前回未解決のままであった“韓人”の謎についてさらに考えてみよう。

私にとっての出発点は、古人大兄皇子が入鹿殺害現場から自邸まで逃げ帰ることができたのは、古人皇子を「皇太子」のまま掌中にとどめておきたい蘇我倉山田石川麻呂が手引きした、という命題だ。

この命題が真であるとする根拠についてはこれまでさんざん論じてきたが、自邸に戻った古人皇子が家人に伝えた言葉、「韓人、鞍作臣を殺しつ。吾が心痛し」もその傍証となると考えている(あくまで、このフレーズのとおり古人皇子の口から出たと仮定した場合だが)。

なぜなら、もし通説のごとく、古人皇子が修羅場を自力で脱出し命からがら自宅に辿り着いたというのであるなら、このフレーズにどこか違和感を感じないだろうか。
すなわち、彼は入鹿が殺害されたことを深く悲しんでいるが、そこに、これから自らにも危害が加えられる可能性があるという切迫感が感じられないのだ。中大兄皇子が主犯であれば、脱出した古人皇子をそのままにしておくわけがなく、追手がすぐそこまで来ているだろうとおののくべき場面のはずだ。
さらに寝所にこもってしまったというが、追手がくるのなら防戦の準備をすべきなのに、それすらもない。

であれば、古人皇子は自分の身が刺客たちのターゲットではないことを認識していたとみるべきではないだろうか。
そして、彼がそういう認識をもっているのは、おそらく石川麻呂の手の者とともに私邸に向かう途上で、この誅殺劇の真相をほぼ正確に知らされたからだ。
実行犯である中大兄のほかに、石川麻呂がその共犯、いやむしろ主犯的ポジションにいることを悟ったにちがいない。

ここまで至れば、数ある“韓人”の解釈のなかで俄然有力となるのは、遠山美都男の「韓人=倉山田石川麻呂」説だ。
やはりこれ〔引用者注:韓人、鞍作臣を殺しつ〕は、現場に居合わせた古人大兄が入鹿殺害の犯人を直接名指ししているのであって、彼から見て、「本物の韓人」「韓人と錯覚されるような装束の人物」、あるいは、「日頃韓人とよばれていた人物」のいずれかが直接手を下し、入鹿を殺したという以上の意味をもつものではない。韓人を「朝鮮かぶれ」という否定的な意味合いをふくんだ、中大兄のあだ名であるとする解釈もある。だが、中大兄よりも韓人とよばれるに相応しいのは、麻呂〔引用者注:蘇我倉山田石川麻呂〕その人であろう。蘇我倉家の麻呂は、「倉の大夫」として、朝鮮三国からの貢納の出納・管理と、それを大王に報告することを担当し、朝鮮との関係を示す名前の先祖(これらが韓人だろう)をふくんだ系譜を作り上げつつあった。麻呂こそは、同時代の人々から、とくに蘇我倉家の内情に通じている古人大兄のような蘇我氏内部の人間から見れば、韓人とよばれるに相応しいものがあったのではないか。(『大化改新』遠山美都男 pp.142-143)
私も「韓人=石川麻呂」に賛成だが、以下の2点について遠山の立論には賛同できない。
(1)遠山説では「韓人、鞍作臣を殺しつ」は入鹿殺害の犯人を直接名指ししている以上の意味はないとして、日本書紀編者の解釈である分注の「韓政に因りて誅せらるるを謂う」を完全に無視している。
(2)遠山は“三韓進調”がなかったことを前提に、石川麻呂が直接刀をふるって入鹿に切り付ける場面を想定している。

(1)について
この分注を担当した日本書紀編者が後世に謎かけを残すような屈折した暇人ではないとすれば、この注はこの内容に即して解釈すべきであろう。
そこで問われるべきは、なぜ注をいれたのか? なぜこの内容なのか?である。

日本書紀編者が注をいれた理由は簡単だ。「韓人=倉山田石川麻呂」までは思い至らない編者にとって、“韓人”を額面どおり捉えたら、意味が通らなくなると考えたからだ。
このことは実は重要なことを物語っている。
すなわち、注をわざわざ挿入したということは、蘇我入鹿殺害の現場に“韓人”と呼ばれる可能性のある人物がいること、具体的にいえば、本物であろうが偽物であろうが朝鮮の使節がそこにいることは、記紀編纂当時に知り得る知識からすれば想定外であると言っているに等しい。
次回触れる“三韓進調”の謎解きで詳述するが、飛鳥時代の外交儀礼においては外国の使節が大王に謁見するプロセスがないことを日本書紀の編者は知識としてもっていたのである。
読者(1300年後のわれわれではなく、当時の人々)もそうであろうから、“韓人”ってだれ?と首をかしげるにちがいない・・・ だから、ここは注が必要だったのだ。

次になぜ注が「韓政に因りて」という内容なのかについてみてみよう。
この日本書紀の編者は、“入鹿が韓人に殺された”という意味不明な発言を読者のために翻訳してあげる自信があったにちがいない。
なぜなら、乙巳の変の背景には外交方針をめぐる対立があったという事実を彼が知っていたからである。
そしてまた彼は日本書紀の編集方針がその対立を詳しく描くことは許さないことも承知していたのである。
当時の対立を詳述したくないという編集方針は、クーデター派が新羅寄りであったことに起因する(かなり以前の記事「孝徳政権の親新羅的側面」(『偽りの大化改新』を読む(29))で触れたことだが、いずれあらためて取り上げるつもりだ)。
いずれにしても、編集方針とのぎりぎりの妥協点が「韓政に因りて」だったといえよう。

この編者にとってこの注は必要なものであったし、また正しい解釈であると自負していただろう。
もし根拠が希薄であれば、「韓政に因りて誅せらるるを謂うか」と疑問形にしたはずだ(日本書紀は「一書に曰く」として異説をとりあげたり、わからないところはわからないと正直に告白したりする、公的な歴史書としては珍しいぐらい低姿勢の編集がなされていることに思いを致すべきだ)。

結果としてこの編者の解釈は間違っていた。しかしながら、後世のわれわれには、これによって乙巳の変の謎を解くヒントを得たといっても過言ではない。

(2)について
遠山説では、古人大兄皇子は「クーデター派の殺害目標に入っていた」が、「いかなる理由からか、古人大兄は刺客たちの凶刃をかいくぐり、辛くも虎口を脱してしまった」(『大化改新』p.234)となっているので、自邸に辿り着いた彼をして“韓人”すなわち石川麻呂が入鹿を殺したと言わしめるには、「麻呂自身が、刀をふるい、入鹿に襲いかかった場面」(同p.143)を古人皇子が目撃していなければならない。
遠山は“三韓進調”がなかったとする立場なので、石川麻呂に表を読みあげさせる必要がなくなる分、彼が刀をふるって直接手をくだすという役回りを与えることはできる。たしかにその意味では首尾一貫している。
しかしながら、次回述べるように“三韓進調”は実際にあったと解釈すべきであり、その儀式を利用して石川麻呂が表を読みあげ、中大兄らが切り込むという役割分担もまた日本書紀が描くように事実だとする私の考えとは相容れない。

現場で古人大兄皇子が実際に目撃したのは日本書紀が描くように中大兄皇子が入鹿を切りつける場面だが、自宅に連れていかれたときには実行犯の親玉は石川麻呂であると認識していて、家人に対して「韓人(石川麻呂)が鞍作(入鹿)を殺した」と伝え、そのまま、身の安全と引き換えに軟禁状態に置かれたというのが真相に近いのではないだろうか(これについては別の角度から論じている「古人皇子は逃がされていた?」(大化改新の方程式(83))も参照されたい)。

コメント

韓政に因りて

お久しぶりです。大黒丸です。

今回の「韓政に因りて誅せらるるを謂う」について、私は貴殿とは異なる考えを持っている。
貴殿は「読者のために翻訳してあげる」ために書紀の編者がその注釈をつけたと考えておられるが、私は単純に、「入鹿が殺されたのは韓政における対立が原因である」と編者が主張したいからこそ、そこにその注釈をすべり込ませたと考えている。
これについては、クーデター後、新羅へ赴いた高向玄理が任那の調の放棄を宣言していることがヒントとなろう。
つまり、日本書紀の編者は、乙巳の変とは、任那の調に固執する蘇我入鹿と、新羅との友好関係を構築するためにそれを放棄しようというクーデター側との対立だったということにしたいように思えてならないのだ。
だが、これについては、真実を隠ぺいしようとする編者のこころみのように私には思える。
編者が隠ぺいしようとした真実イコール事件の黒幕であるが、いかがだろう。

Re: 韓政に因りて

大黒丸様

ご無沙汰しております。久々のコメントありがとうございます。

さて、大黒丸様のお考えは、「任那の調に固執する蘇我入鹿と、新羅との友好関係を構築するためにそれを放棄しようというクーデター側との対立が乙巳の変の原因だった」と思わせるために、編者は「韓政に因りて誅せらるるを謂う」というフレーズを挿入した、ということになりますか。

もしそうだとすると、ここで逆にご質問したいのですが、
1.そのように読者を誘導したいのなら、もっとはっきりと本文で書けばよかったのに、どうして思わせぶりなフレーズをわざわざ、しかも注のかたちで用いたのか?
2.編者が隠ぺいしようとした真実とは何のか。大黒丸様は「事件の黒幕」がそれだとおっしゃるが、それはだれだとお考えでしょうか?
3.「隠ぺい」が行われたとして、それが当時の人々にとってどういう意味をもっていたのか。つまり隠すだけの価値があるのものなのか?

3は意地悪な質問なのかもしれませんが、いわば「隠ぺいの費用対効果」を問題にする姿勢は「日本書紀」を読み解く上でとても大事だと私は考えています。


ふたつの仮説

早速のお返事に御礼申し上げる。

まずお断りしておかなければならないのは、私は乙巳の変について、真相はこうだという確たる考えを持っていないということだ。
なので私は、状況証拠からあぶり出されるものを偏見のない目で見極め、判断することによって、事件の真相に少しでも近づければと思っており、あらかじめ決められた結論に向かって状況を導こうとは思っていないことをご承知おきいただきたい。
その意味で、貴殿の設定された質問に答えることは、私にとっても闇の中を進む手がかりとなるだろう。

「隠ぺい」が行われたかどうかについて絶対的な自信を持っているわけではないが、それが行われたと仮定すると、ふたつの全く異なる仮説が浮かび上がってくる。
どちらがより真実に近いのか、私には判断できない。
なので、ふたつの仮説についてひとつずつ質問にお答えし、状況証拠を集めていきたいと思う。

まずひとつめの仮説は、日本書紀が作成された時代、天武系の皇子たちが実権を握っていたことから、隠ぺいが行われたのは天武、あるいは彼の実母である皇極がクーデターに関わっていたことを隠すためというものである。
天武がクーデターに関わっていた可能性について、私は皆無ではないと思っている。ただ、兄である中大兄が20歳だったことを考えれば、計画の中心人物だった可能性は低いはずだ。それでも、中大兄だけが激しい血の穢れを受けたという日本書紀の記述は、中大兄をヒーローとして持ち上げると同時に、天武はそれを受けていない(だから国を統治する資格がある)と強調したものなのかもしれないとは思っている。
それはさておき、天武が年少だったことを考えれば、隠ぺいすべき黒幕は皇極しか残っていない。孝徳をクーデターの黒幕とする説が近年多く出されているが、孝徳は明らかに失脚した天皇であり、日本書紀の編纂当時、彼を守ろうとする勢力があったとは考えられないからだ。
事件当時、皇極は天皇だった。事件を無垢な子どもの目で見てみれば、真っ先に疑われるべきは皇極であるはずだ。天武の母である皇極を歴史の汚名から守るために、彼女の名前から目をそらそうと「韓の政に因りて」という奇妙な注釈をつけたのではないだろうか。
この説にしたがってご質問にお答えするならば、
1.入鹿には大した落ち度はなかったのに、それでも殺されてしまったのは何らかの「理由」があったとする必要があった。しかしそれは書紀編纂当時の人々にとっても苦しい言い訳であったために、注釈のかたちで付け加えるしかなかった。
2.前述のとおり。
3.これも前述したとおり、彼女が書紀編纂当時の皇子たちの曾祖母(父方母方含めて)にあたっていたために、彼女に歴史の汚名を着せないようにするためだった。

次に、第2の仮説である。
これは貴殿がこれまで展開してこられた説におもねるものになるかもしれない。
事件後即位した孝徳が送った遣唐使が唐の冊封を受けようとしたものと考えれば、クーデターを起こして即位した孝徳は、唐の冊封を受けることをよしとする姿勢だったと考えられる。入鹿は「冊封反対派」だったというわけだ。それを隠すため、入鹿を殺した理由として、あえて「韓の政」(唐の政ではなく)を強調したと考えられる。
貴殿の説のように、日本書紀が唐の冊封を受けようとしたことを隠そうとすることをアジェンダとしていたとするならば、冊封に反対していたはずの入鹿を、時の皇子たちの祖父や曽祖父にあたる中大兄が殺したことは、何か他のもっともらしい理由をつけずにはいられないものだったはずだからだ。
したがって、この仮説をとった場合、
1.冊封に反対していた入鹿を殺したのは、「韓の政」に落ち度があったからだと強調したかった。しかし、やはり編纂当時はまだ入鹿の政治姿勢を知っている人間が存命であり、はっきりとした形で本文に残すのはためらわれた。
2.クーデターの黒幕は冊封賛成派の孝徳。第1の仮説で述べたように、彼は失脚した天皇ではあるが、中大兄が彼に加担してクーデターに参加したため、孝徳を悪者として描くことはできなかった。
3.クーデターを「善」としてしまったからには、孝徳が「冊封を受けようとしたこと」は徹底的に隠さねばならなかった。

私の中でも揺れ動いているものを書き表したので、両方とも非常に不安定な仮説になってしまったことをお許し願いたい。
貴殿の添削を望む。

Re: ふたつの仮説

大黒丸様

早速の返信をいただきながら、仕事が詰まっており、お返しに時間がかかってしまいました。すみませんでした。

さて、いただいた内容にしっかりとご返事するには、私が想定する乙巳の変の全貌を描いたうえで、日本書紀がどういう隠ぺい・改ざんをしているのかについて私の考えを明らかにする必要があります。これについてはこの『大化改新の方程式』のテーマそのものなので、これからもお付き合いいただきたいと申し上げるしかありません。
ただ、これまで断片的に述べてきた内容から、私がどういうスタンスで大化改新前後の時代をとらえているかについてはある程度ご推測いただいているものと思っております。

というわけで、ここでは大黒丸様の2つの仮説に即してコメントさせていただきます。

第1の仮説について、大黒丸様は「事件を無垢な子どもの目で見てみれば、真っ先に疑われるべきは皇極であるはず」と言われますが、「誰が一番得をしたか?」という刑事ドラマの定番的な発想でいえば、むしろ“真っ先に疑われるべき”は孝徳天皇ではないでしょうか。
また、皇極が積極的にクーデターにからんでいたなら、「邪魔者を排除できてすっきりしたはずなのに、どうして譲位をしたのか」「ほんとうは中大兄に譲りたかったのに血の穢れとか長幼の序とかで果たせなかったのなら、どうして孝徳失脚後に中大兄に譲らず重祚したのか」。皇極主犯説に立つとこうした疑問をクリアしていかなければなりません。
だからといって皇極主犯説が成り立たないと言うわけではありません。「理屈で考える大化改新」を標榜する私としては、どうしても易きに流れてしまうだけです。
事実は小説よりも奇なりというぐらいですから、こと古代史に関しては、理屈は小説以上に真実から遠いところにあるのかもしれません。
あと第1の仮説で気になったのが、入鹿は「大した落ち度はなかった」のに殺されたとしている点です。大がかりな計画をたてて誅殺している以上、何らかの理由があったはずです。もし蘇我氏の権勢が大きくなりすぎたというのが理由であるなら、それは大王という権力の中心にある者としては、りっぱな「殺す理由」でしょうし、そのことを孫たちが「歴史の汚名」だと恥じる必要はないと思います。(私が描くように入鹿が皇極の寵臣だとして、突然殺されたとしたら、たしかにこれは雄略どころか武列なみの非道ぶりではありますが・・・)
なので、大黒丸様が第1の仮説でさらに自説を展開されるのなら、「入鹿が殺された理由」を明確にする必要があると思いますが、いかがでしょうか。

第2の仮説は、たしかに私の想定している部分とかぶるところがありますね。
したがって、詳細な回答は、さきに述べたように、私の考えを今後展開していく中で再度大黒丸様に吟味していただくしかないのですが、1点、私の考えと異なる部分について指摘させてください。
大黒丸様は、孝徳は「唐の冊封を受けることをよしとする姿勢」だったと言われますが、クーデター派がみんな「冊封賛成」でまとまっていたわけではないと考えます。孝徳(軽皇子)はたしかに唐のような皇帝を夢みていたとはいえ、おそらく乙巳の変の時点で、「唐と積極的に交わり、孝徳が理想とする国をつくりあげるためには冊封もやむをえず」と考えていたのは、クーデター後に国博士となった高向玄理ただ1人だと思っています。
645年直前の状況をみると、私の過去の記事で書いたように、百済による 旧“任那”占領以降、百済か新羅かという「韓政」外交面での緊迫した状況は読み取れますが、対唐関係、すなわち、遣唐使をどういうかたちで再開するのか、あるいは、将来想定される唐の侵略からクニを守るためにはどうすればよいか、というアジェンダはまだ政策課題としてはあがってきていなかったと思われます。
そういう点から私は、「韓政に因りて」という分注は真実を物語っているのだと考えています。

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