FC2ブログ

大化改新の方程式(106) “三韓進調”の謎

前々回の記事で、乙巳の変における“三韓進調”の謎、すなわち「入鹿殺害の現場にいたのは本物の使節か、偽りの使節か」の疑問を解くカギは、日本書紀が記した外交儀礼のなかにあるとした。

その外交儀礼とは、推古18年(610年)の新羅使・“任那”使を迎えたときの記事にある。

実はこの論点についてはすでに、昨年出版された廣瀬憲雄『古代日本外交史』で見事なまでに詳述されている。
廣瀬は、610年の記述をもとに当時の外交儀礼を以下のように復元している。
a.難波などで飾船による迎船を行う。
b.難波などの客館で調物の検査をおこない、具備していなければ返却する。
c.入京時に飾馬による迎労をおこなう。
d-1.朝廷で使旨の伝達。使者は導者に従い朝廷に入場する。
d-2.4人の大夫が庭中に登場。使者は4人の大夫に使旨を伝達する。
d-3.4人の大夫は庁の前に進み、大臣に使旨を伝達する。
d-4.使者に禄を賜う。
e.朝廷で饗宴をおこない、あわせて使者への叙位を行う。
(pp.150-151)
彼はこれを「倭国段階の外交儀礼」と呼び、その特徴は「大王が出御していない儀礼空間で、使旨を使者から4人の大夫が受けて大臣(または大臣に相当する人物)に伝達し、別の儀礼でその使旨が大王に伝達されるというもの」であり、この儀礼体系は「少なくとも686年までは維持されていた」(同 p.174)としている。

とすれば、乙巳の変の舞台となった“三韓進調”も、この「倭国段階の外交儀礼」に則って進行したと解すべきである。
乙巳の変が発生した舞台は、朝廷でおこなわれた使旨伝達の儀礼(d-1~4)の後に、伝達された使旨を大王に奏上する重要な儀礼と判断できる。(同 p.152)
入鹿殺害が大王の面前で実行されたのが事実であるなら、それは「伝達された使旨を大王に奏上する重要な儀礼」の場であって、そこには“三韓”の使者は出席していないのである。

謎はすでに解かれている。
「入鹿殺害の現場にいたのは本物の使節か、偽りの使節か」という問いかけ自体が誤りであったのだ。
また、使節の存在を前提とすると無理があるとして、日本書紀が描く“三韓進調”自体を虚構と決めつけるのも行き過ぎであったわけだ。(以前の私の考えがまさにそうであった)

『大化改新』で遠山美都男は、「入鹿が殺されたのが「三韓進調」の儀式の場であったというのは、明らかに事実ではない」として、入鹿殺害の舞台となった「「大殿」で行われていたのは朝鮮三国の使者による「進調」「上表」といった儀式ではなく、朝鮮三国の使者についての大王への報告なり、それに関しての支配者集団による討議だった」(p.223)としている。
たしかに「朝鮮三国の使者についての大王への報告」という実態は同じものだとはいえ、それは外交儀礼の1プロセスであったという意味において、“三韓進調”自体を否定する必要はなかったのである。

さきの『古代日本外交史』の引用では、この「伝達された使旨を大王に奏上する重要な儀礼」は、「朝廷でおこなわれた使旨伝達の儀礼」の後に行われるものとしている。
同時にそれは、同じ引用中の「e.朝廷で饗宴をおこない、あわせて使者への叙位を行う」プロセスの前であるはずである。
610年の新羅・“任那”の使節来朝時をみると、使旨伝達の儀礼(d-1~4)が10月9日に挙行され、朝廷で饗宴(e)が同月17日に催されているので、この間に「大王に奏上する重要な儀礼」が大王、皇太子、大臣などごく限られた近臣のみで行われたと考えることができる。

したがって、乙巳の変においても、入鹿殺害の当日(6月12日)に先立って、“三韓”使節の出席のもと使旨伝達の儀礼が行われていたはずである。ただし、あとで述べるように、高句麗、百済、新羅の三韓ではなく、高句麗、百済、“任那”の“三韓”であったのではないだろうか。(高句麗と百済・“任那”の使旨伝達が同日に行われたのか、日をずらして行われたのかは不明)
そして、6月12日に大王への使旨奏上の儀礼が、「大極殿」に大王出御のうえ、皇太子(古人大兄皇子)、大臣(蘇我蝦夷)、大王寵臣(蘇我入鹿)、奏上役(蘇我倉山田石川麻呂)という限られた参加者のもとで行われる予定だったのである。

使旨奏上の日が6月12日とされたのがどのタイミングだったかはわからないが、遅くとも、それに先立つ使旨伝達の段階ではフィックスされていただろう。

こうして、Xデーが決まった。
その日に向け、クーデター派の面々は当日の役割と進行の最終確認を入念に行ったことだろう。

コメント

絵に描いた餅

なるほどなるほど‥‥。
ドラマや小説によくある、大王やら重臣やらがいならぶ中で蘇我入鹿が斬り殺されたってえのは「絵に描いた餅」だったわけですな。
いや~そうでしたかぁ~~まいったまいったこりゃ一本取られました。くっすん(涙)

Re: 絵に描いた餅

入鹿が大王や群臣の居並ぶ前で切り殺されなかったり、蝦夷の館が燃え落ちなかったり、古人が出家しなかったり、自分の描く乙巳の変が、どんどんドラマティックでなくなっていることに私自身も当惑しております。
その分、梅前様のほうでドラマを盛り上げていただいているのが救いでもあるのです。

ただ、繰り返しになりますが、ほんとうに何が起こったのかはわかりません。
入鹿殺害の舞台については、廣瀬の『古代日本外交史』にのっかって論を展開していますが、これもあくまで1つの解釈です。とくに「686年までは維持されていた」というのは廣瀬の推測ですので、6世紀半ばにおいて、三韓の使節の使旨伝達が大王出御のなかで行われる儀礼だったことが確たる証拠で覆されたわけではありません。

私自身は廣瀬説が真相に近いと思っていますが、それはちょうど、「当時“大極殿”という呼称がなかったというのが有力だが、皇極期には使われたいた可能性もある」という事情とよく似ていると思います。

私は理屈屋として重箱の隅をつつきますが、歴史小説は全体としてリアリティがあればよいのでないでしょうか。
「絵に描いた餅」でも思わず手を出させてしまえば、それは作家の勝ちです。

さきほどの一部訂正 Re: 絵に描いた餅

「6世紀半ばにおいて、三韓の使節の使旨伝達が大王出御のなかで行われる儀礼だったことが確たる証拠で覆されたわけではありません」とありましたが、正しくは「7世紀半ばにおいて」でした。失礼しました。

殺害現場は

「庭」ですよね~。痛恨のミスです。
でも雨降ってたし。屋内のほうがいいかな~、って。

すみません、何度も。ここんとこヒマなんで。

Re: 殺害現場は

いえ、日本書紀では「庭」とは明記していないと思います。
強いて言えば、中大兄が入鹿の罪状を述べる時に「地に伏して」という記述があるので外のイメージがありますが・・・

入鹿の遺骸が外にあって雨にあたるところは、『皓月』のように殺害後に殿中からずり出したことも十分考えられます。

なお、私の想定する「使節抜きの使旨奏上の儀式」は、小墾田宮を参考に考えると、朝廷(にわ)から大門を経て奥に入ったところにある大殿で行われたはずです(この区画は大王以外は王族・大臣ぐらいしか出入りできないと思われます)。この区画の大殿前には中庭があります。
おそらく入鹿の遺骸が放置されたとしたら、この中庭ではないでしょうか。

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)