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大化改新の方程式(107) 「韓政に因りて」の中身(1)

私は前々回の記事で、日本書紀の編者は乙巳の変の背景には外交方針をめぐる対立があったのを知っていたが、編集方針の制限から多くを語ることができず、「韓政に因りて」という分注をいれるにとどめた、とした。
そして、日本書紀が多くを語りたがらない「外交方針の対立」とは、クーデター派が新羅寄りの姿勢をとっていたことに起因するとも述べた。

これについては、かなり以前の記事「6月12日、その日何が起こる予定だったのか」(『偽りの大化改新』を読む(22))で、皇極期の外交プロセスを整理しつつ、乙巳の変に至るストーリーを組み立ててみた。
最近の記事で再考したように、いまとなっては、そのときのストーリーには重大な欠点があったことを認めざるをえないが、百済か新羅かという対立がクーデターの背景にあった(もちろんそれだけではない)という認識はいまも変わらない。

今回は上記の考察を、「倭国段階の外交儀礼」という側面からあらためて検証してみたい。

まずは、前々回に廣瀬憲雄『古代日本外交史』から引用した「倭国段階の外交儀礼」を再度みてみよう。
(<  >は引用者による補足)
a.難波などで飾船による迎船を行う。
 ↓
b.難波などの客館で調物の検査をおこない、具備していなければ返却する。
 ↓
c.入京時に飾馬による迎労をおこなう。
 ↓
<P.使旨伝達の儀礼(d-1~4)>
d-1.朝廷で使旨の伝達。使者は導者に従い朝廷に入場する。
d-2.4人の大夫が庭中に登場。使者は4人の大夫に使旨を伝達する。
d-3.4人の大夫は庁の前に進み、大臣に使旨を伝達する。
d-4.使者に禄を賜う。
 ↓
<Q.使旨奏上の儀礼>
 ↓
e.朝廷で饗宴をおこない、あわせて使者への叙位を行う。
 ↓
<R.返詔=難波などの客館へ勅使(大夫クラス)を派遣して大王の詔を伝える>
 ↓
<使者帰国>
6月12日の乙巳の変の舞台となったのは、「Q.使旨奏上の儀礼(=大王出御のもと、伝達された使旨を大王に奏上する儀礼)」であるが、おそらくその数日前に「P.使旨伝達の儀礼(=使節出席のもと、朝廷でおこなわれた使旨伝達の儀礼)」が挙行されていたはずである。

実はこのことを所与として日本書紀を読み返すと、「P.使旨伝達の儀礼」がもう一度行われていることに気づく。
すなわち、乙巳の変後の7月10日に再び、使者たちを入京させて進調させているのである。
大王が代わったため形式上進調の儀式をあらためて行ったものと解されるが、日本書紀ではさらに同じ日に、巨勢徳多を派遣して孝徳天皇の詔を伝えている。これは「R.返詔」にあたる。

だが、儀礼プロセスをみると、「R.返詔」の前段階として「Q.使旨奏上の儀礼」と「e.饗宴・叙位」が行われているはずであろうから、「P.使旨伝達の儀礼」と同じ日というのはありえない。
もちろん、クーデターの背景に外交政策の対立があったとすれば、「Q.使旨奏上の儀礼」を経るまでもなく返詔の内容はすでに決まっていた、さらにまた、政変直後という理由で「e.饗宴・叙位」が省かれたという解釈もありえる。
しかしながら、巨勢徳多は使者たちの逗留先である難波の外交施設に出向いたはずであろうから、やはり同日というのは考えがたい。後日行われたものを盛り込んで記事化しているという解釈が妥当であろう。

いずれにしても、この7月10日に行われたとされる進調の儀式の記事において注意したいのは、以下の3点だ。
・進調は高句麗、百済、新羅が行ったこと。
・百済の大使(佐平・縁福)が病気で入京せず、「使旨伝達の儀礼」を欠席したこと。
・「返詔」のなかで、百済による“任那”の調が不足していたため返却し、あらためて百済が占領した“任那”を視察するために倭国の使者を遣わすことにしたこと。

次回は、この3つのポイントから「韓政に因りて」の真相に迫ってみたい。

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