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大化改新の方程式(109) 「韓政に因りて」の中身(3)

乙巳の変後の7月10日の再進調におけるポイントの1つ、高句麗、百済、新羅の3国が進調したにもかかわらず、新羅への返詔の記事がないことについて前回詳述した。そこでの私の推論は、記録から消された返詔が新羅寄りな内容の外交方針であったというものだった。

今回は残りの2つのポイントについてみてみよう。

まず、百済の大使(佐平・縁福)が病気で入京せず「使旨伝達の儀礼」を欠席したことだが、佐平というトップクラスの人物が大使として派遣されている点、そして百済の調使が“任那”の調の貢納を兼務している点に注目したい。

かなり以前になるが「百済に翻弄される倭朝廷」と題する記事(『偽りの大化改新』を読む(20))で、642年秋の百済・義慈王による“任那”奪回以降、倭国と百済とは“任那”の貢納をめぐり緊張関係にあったとした。
個々の外交記事の解釈には再考の余地がありそうだが、基本的な流れの解釈は今も変わらない。

とすれば、佐平を大使にした645年の百済使節の目的は、644年の進調において“任那”の調を差し出さなかったことで予想以上に倭国朝廷の態度を硬化させたことに恐れをなして、百済が“任那”の調を兼ねる調使派遣に踏み切り、倭国との関係を修復することにあったと推察される。
百済が譲歩した背景には、以前に述べたとおり、人民の動員力を見せつける飛鳥の“要塞都市化”や船舶の建造に皇極朝廷の“本気度”を見てとったことに加え、644年11月から開始された唐による高句麗遠征に乗じて百済が新羅への侵攻を計画(645年5月に実施)していたため、これ以上倭国を刺激するのは得策ではないという判断があったであろう。

こうして佐平を派遣し倭国との手打ちを期待した百済であるが、当然ながら、佐平・縁福は乙巳の変の前に行われた「使旨伝達の儀礼」には出席していたであろうから、後は「使旨奏上の儀礼」(外国の使節は参列しない)を経て倭国勅使による返詔を難波の外交施設で待つだけだったはずだ。
ところが、「使旨奏上の儀礼」の最中に入鹿誅殺事件が発生したため、進調の儀式は振り出しに戻り、7月10日に改めて「使旨伝達の儀礼」から行うことになった。
百済の大使・縁福にすれば、両国の関係修復が成ったという期待が裏切られ、倭国との関係がそれまで以上に困難な状況に置かれる可能性を察知したため、抗議の意味を込めて「病気での欠席」を演じたのではないだろうか。

その“困難な状況”とは、最後のポイント、つまり、百済による“任那”の調が不足していたため返却し、あらためて百済が占領した“任那”を視察するために倭国の使者を遣わすという返詔のなかにある。

「“三韓進調”の謎」(大化改新の方程式(106))での当時の外交儀礼のプロセスを思い出してほしい。
そこの「b.難波などの客館で調物の検査をおこない、具備していなければ返却する」にあるように、調に不足がある場合はこの段階で返却されていたはずである。それが無事「使旨奏上の儀礼」にまで至っていたなら、「調物の検査」はクリアしていたと考えていいわけだ。
それなのに新しい倭国の主のもとでの再進調になって「これでは足りん」として突き返されたのである。

“任那”問題で倭国に譲歩することで、倭国との関係修復のみならず、反義慈王的言動で“悪さばかりしている”塞上の本国送還と倭国内での親新羅派の一掃という朗報すら持って百済に凱旋できると期待していた大使・縁福にとっては、乙巳の変は倭国内部の政権抗争にとどまらない出来事だったのである。

日本書紀の編者は「韓政に因りて」という分注を加えるのみで具体的な事実を語らなかったが、以上のように7月10日の再進調の記事を裏読みすることで、その真相が透けて見えたと言えないだろうか。

ただ、誤解がないように付け加えておけば、乙巳の変は親新羅を標榜して起こされたクーデターだとは私は考えていない。クーデター派の主導者の1人が新羅派であったことが、結果としてクーデター、そしてその結果樹立された孝徳政権の性格を新羅寄りにしたとみている。
その人物とは、新政権の国博士・高向玄理、すなわち“律令君主の伝道師”にして“革命の指南役”と私が呼んだ高向黒麻呂であることは言うまでもないだろう。

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