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大化改新の方程式(110) それぞれの乙巳の変~高向黒麻呂の場合

もし大化改新のメインキャラクターを3人あげよと問われたら、私は迷うことなく、軽皇子(孝徳天皇)、宝皇女(皇極・斉明天皇)、そして高向黒麻呂(玄理)をあげるだろう。
そこでは、蘇我入鹿も中大兄皇子も、そして中臣鎌足すらも脇役でしかない。

乙巳の変について孝徳主犯説をとる立場からは軽皇子をあげるのは当然として、なぜ宝皇女と高向黒麻呂なのか?
このブログの訪問者の多くは『皓月』(梅前佐紀子)の読者だと思われるので、軽皇子はともかく、宝と黒麻呂の名があがることには抵抗がないかもしれない。

ただ、『皓月』ファンにはあらかじめ謝っておくが、私のストーリーのなかの宝と黒麻呂は、『皓月』のなかとは真逆の、敵対関係にあったというものである。
極端な言い方をすれば、宝と軽という同母姉弟の強烈な個性のぶつかり合いに、いわば油を注いて、歴史の歯車を大化改新へと大きく動かした張本人こそが黒麻呂だったのである。

とはいえ私は、黒麻呂が大王家にとって代わって倭国に君臨しようという野心をもった梟雄だと言うつもりはない。
むしろ『皓月』の設定にあるがごとく、「倭国を“国”たらしめよう」という不動の信念をもった人物であったという点はおそらく疑いのない事実であろう。

もちろんその信念とは、黒麻呂の長きにわたる中国での生活に根ざしたものだ。

高向黒麻呂は学生として608年に遣使・小野妹子とともに隋に渡り、640年に唐から帰朝した。記録が残る限りでは、隋代に派遣され倭国に戻った留学生・留学僧のなかでは、南淵請安とともにもっとも長い中国滞在歴となる。

623年に帰朝した恵日(彼の渡隋年は不明)が「留学者たちの学業は成就した」という報告をあげているので、その時点で中国に残留していた黒麻呂は少なくともその後15年以上、唐において何らかの官職についていたはずである。
さらに第1回遣唐使への返礼使とともに帰朝した632年の僧旻らに同行しなかったことから考えると、唐官界においてそれなりの地位についていたのではないだろうか。

そして、その間、彼の思想に大きな影響を与えたのが、唐皇帝・太宗による治世である。
中国史上最もよく国内が治まった時代と言われる「貞観の治」は627年に始まったため、632年に帰国した僧旻と異なり、黒麻呂はそのプロセスと成果をリアルタイムで体感することができたはずだ。
おそらくこの点が、大唐に憬れて僧旻の学堂に集った軽皇子や中臣鎌足らを惹きつけ、僧旻以上に彼らの思想と行動に影響を与えたのだと思う。

では、それなりの地位にあった黒麻呂をして倭国への帰国を決意させたのは何であったのか。

1つには637年に定められた「貞観律令」がある。いちおうの完成をみた律令制を倭国にも移植したいと思わせるには十分であったであろう。
さらに黒麻呂を、そしてまた南淵請安をして倭国への帰還を決定的にする出来事が640年にあったのである。

『三国史記』(新羅・高句麗・百済の三国時代から統一新羅までの歴史書)によれば、640年に太宗が中国全土から儒学者たちを都に集めて一大セレモニーを開催している。学問施設を大幅に増強し、中国のみならず高句麗、百済、高昌(ウイグルの王国)、吐蕃(チベットの王国)からも多くの若者が派遣されたという。新羅もこれに王族の子弟を参加させたい旨申し出た記録が残っている。
おそらくこのセレモニーの主催者側のスタッフとして関わった高向黒麻呂や南淵請安(帰国後中大兄皇子や中臣鎌足に周孔の教えを教授したということから儒学に造詣が深かった)は、若き日に厩戸皇子によって与えられた渡隋の使命をあらためて思い出したにちがいない。

新羅王・善徳女王の要望どおり新羅の若者たちが参加していたならば、彼らが帰国するタイミングに合わせて倭国へ帰還するルートも確保できたであろう。

こうして、高向黒麻呂は“律令君主の伝道師”として32年ぶりに倭国に戻ったのである。

コメント

高向黒麻呂について

拙著に言及いただきありがとうございました。
「このブログのほとんどが『皓月』の読者」とは思えませんが、拙著の主人公の登場ということで、コメントを差し上げることにしました。
たびたびお騒がせし申し訳ありません。

今までにもいろいろなところで書いてきましたが、私の書いた小説はあくまで「小説」なので、そこに書かれたことがすべて真実というわけではありません。歴史の空白部分について想像で補ったり、脚色したり強調したりしているので、「歴史を都合よく解釈している」とのお叱りもいただきました。
物語を面白くしようという気負いを捨て、客観的な目で見てみれば、大化改新(乙巳の変)の真相については、私の小説よりれんしさんの展開する説のほうがよほど説得力があるといえましょう。

私が「高向黒麻呂」という人物に興味を持ったのは、もうずいぶんと昔、大化改新を調べ始めた頃のことでした。
推理小説ではよく、「利益を得た人物が犯人」といいますが、乙巳の変で一番の利益を手にしたのは、改新後に大王となった軽皇子(孝徳)、国博士という地位を得た高向黒麻呂と僧旻で、彼らこそが入鹿殺しの重要参考人と思われたからです。
日本書紀では中大兄皇子と中臣鎌足の業績をことさらに大きく書きたてていて、中大兄は大王の位を軽に禅譲、鎌足も内臣の地位を得たということになっていますが、それらは書紀編纂時の権力構造の影響を受けたものと思われます。鎌足は入鹿暗殺現場に居合わせた以外、特筆すべき具体的な業績は見当たらず、それでもいかにも偉大な足跡を残したかのように書かれているのは、ひとえに「不比等の父」として逆算され、加算された可能性が高いように思えます。
中大兄にいたっては、殺人という究極の血の穢れを受ける役割を負わされたことからみても、将来大王となる可能性の低い、単なる「鉄砲玉」にすぎなかったと思われます。もしかしたら鎌足も、佐伯子麻呂のような「突撃部隊」の一員だったのかもしれません。

鎌足や中大兄は結果的には権力を手にすることになりますが、それは乙巳の変によるものではなく、紆余曲折ののち得たものです。
従って、入鹿殺害により直接的な利益を得たのは軽皇子と僧旻、そして高向黒麻呂以外にはいませんでした。入鹿殺害を計画・実行した容疑者として、疑いがもっとも濃厚なのは彼らなのです。

僧旻や南淵請安、黒麻呂らがどんな意図、どんな意思をもって唐から戻ってきたのかは、これからのれんしさんの考察の中で明らかにされることでしょう。
南淵請安は、改新後の動きが記録されていないことからみて、入鹿暗殺前に病臥、あるいは死去した可能性が高いと思われます。

黒麻呂が入鹿暗殺を企画した人間だったとすれば、彼は前大王である宝を処刑するよう軽に求めたに違いありません。彼女を生かしておくことは、その後の政権運営に暗影を投ずるものであるからです。
けれども軽は宝を処刑しなかった。それは、実の姉という情緒的な側面もあったかもしれません。そして宝を殺しておかなかったことが、のちに軽や黒麻呂を破綻に追い込むことになったのです。
そのあたり、私の小説とはあまりに違いすぎてめまいがするのですが。

いずれにしても、高向黒麻呂という人物がいなければ乙巳の変や大化改新はありえず、この国は今とはまったく違う国になっていたことでしょう。
あの時期にあのまま中央集権化がなされずにいたら、この国は「倭国」のまま強国にのみこまれていた可能性すらあるのです。
私が拙著の終章において、黒麻呂の息子と設定した人物に「日本」の建国を高らかに宣言させているのは、そうした意味をこめてのことです。

高向黒麻呂がいたからこそ、今の日本がある。
その意味で、ロマンスの相手役にしろ、ダークな悪役にしろ、彼にもっとスポットライトが当たることを、私は願ってやみません。

訂正

「このブログのほとんどが『皓月』の読者」じゃなくて
「このブログの訪問者の多くは『皓月』の読者」でした。
ぜんぜん意味違うし。願望かっ、うめまえ。ぷぷぷ。

ごめんなさい、会長。許して♡

Re: 高向黒麻呂について

梅前さま

コメントいただきありがとうございます。

私も「利益を得た人物が犯人」的アプローチに賛成です。
その意味では、石川麻呂も孝徳・黒麻呂・旻に負けず劣らず得した人間です。

孝徳と石川麻呂とをクーデターの中核ととらえるのが遠山や篠川の説ですが、孝徳と石川麻呂との間には初めから微妙なずれがあったのではないかと言うのが私の考えです。
大臣を左右に分け、左大臣でなく右大臣に石川麻呂においたのも彼に対する警戒感があったのだと思います。
これもおそらく黒麻呂の入れ知恵とみていいかもしれません。

黒麻呂が「前大王である宝を処刑するよう軽に求めた」というのはちょっと過激ですね。
本場の儒教を学んだ大陸帰りだからこそ「禅譲」を理想としたはずでしょうから、前大王の処刑というのは彼のスタイルには合わないではないでしょうか。
「女帝不可」の気運のなかで決行されたクーデターだったので、もはや宝の復活はありえないだろうとたかをくくっていたこともあるかと思います。

たしかに「高向黒麻呂という人物がいなければ乙巳の変や大化改新はありえず、この国は今とはまったく違う国になっていた」というのは賛成です。
一方で、彼が唐で客死せず、本来の遣唐使の目的を達成していたらどうなっていただろうと考えるのも面白いですね。

> 私が拙著の終章において、黒麻呂の息子と設定した人物に「日本」の建国を高らかに宣言させているのは、そうした意味をこめてのことです。

このくだりの「月と太陽」は見事でした。

たびたび失礼します

武装を解かねばならない場に相手をおびき寄せ襲いかかるという手口からみて、黒麻呂らが玄武門の変を参考にしたのは明らかですが、玄武門の変で太宗は確かに、高祖に退位を求めただけで殺してはいませんね。
事件後の反発を最小限にとどめるためにそのあたりも参考にしたのでしょうが、あの時あの女の息の根を止めておきさえすれば、少なくとも軽くんはあんな目にあわずにすんだはずです。
ラスボスの力を甘く見すぎたってことですかね。

石川麻呂に関しては、一族の者を売る人間なんて、私でも信用しませんわ。
「裏切り者はまた裏切る」わけですから。
玄武門の変で、敵である兄や弟のために奮戦した人間をその後重く用いたという太宗を見習ったのかとも思えますが、「裏切り者」である石川麻呂を右大臣の地位につけるのにも、軽には躊躇があったのではないでしょうか。
結局「裏切り者がまた裏切った」のが石川麻呂謀反事件ってことなんでしょうね、きっと。

Re: たびたび失礼します

「日本書紀では中大兄皇子と中臣鎌足の業績をことさらに大きく書かれている」のと同じ程度に、「持統・元明の祖父」としての石川麻呂の悲劇も脚色されているのではないかと思うのです。

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