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大化改新の方程式(111) 女帝不可の思想

高向黒麻呂(玄理)を大化改新のメインキャラクターの1人とみなす理由は、彼が唐皇帝・太宗よる「貞観の治」をつぶさに観察した体験をもとに孝徳政権の理論的指導者かつ政策立案者となったと推測するだけで十分かもしれない。

しかしながら私はさらに2つ理由を加えたい。

1つは、以前の記事「クーデター派が手本にした「玄武門の変」」(大化改新の方程式(80))で述べたように、「革命の指南役」として乙巳の変のクーデターに直接関与したという点、そして、もう1つは、乙巳の変に至る政争においてアジェンダとなった「女帝不可」の思想を唱えた張本人だったいう点である。

私は「女帝不可」の思想が大化改新(乙巳の変)の謎を解く鍵だと考え、これまで折に触れてこの思想について説明してきたが、今回あらためて私の考えを整理してみようと思う。

まずはじめに断わっておくが、中国には古代から「女帝不可」という明確な理念が存在したわけではない。

天武・持統と同時代人である唐の武則天(則天武后)が中国史上最初にして最後の女帝である。つまり、それ以前において、女帝のゆえに国が乱れたという経験を中国はしたことがない。
したがって、歴史的教訓から「女帝不可」という思想が形成されたという解釈はありえない。

私はむしろ、当時において「女帝不可」の思想に形を与えたのは、中国の周辺国において女帝、すなわち倭国の推古や新羅の善徳が登場したこと自体だと考えている。

以下に述べるように、もともと中国には女性が政治に関与することにネガティブなイメージをもつ儒教的エートス(ある社会集団を支配する心理的態度)が存在していた。その中国と接することで母国における女帝の存在を“国としての未熟さ”ゆえと考えた倭国人や新羅人が自国に帰って「不可」を唱えたのである。
いわば中国流のエートスに染まった帰朝者たちが、自国の女帝と対峙するなかでそのエートスを純化させたものが「女帝不可」という思想ということができよう。

おそらく中国のどの経典をさがしても「女帝不可」の思想そのものは見つけられないだろう。

では、女帝の存在にネガティブなイメージをもつ儒教的エートスとは何か?

まずあげられるのが、男尊女卑の考えだ。
しかしながら、儒学の名誉のために言っておくべきことだが、そもそも男尊女卑の思想が明確な教義として儒教のなかに存在しない。儒教が教える5つの道徳(五倫)のなかに、妻は内助の功に徹する姿勢を良しとする夫婦の徳があり、それが男尊女卑の考えに普遍化していったということのようだ。

さらに、同じく儒教の基本経典の1つ『書経』に「雌鶏が時を告げると、家が滅びる」がある。
本来夜明けを告げるのは雄鶏であるが、それを雌鶏がしている家がだめになる、つまり「王后や王妃が権力を握ると国家が滅びる」という箴言である。

3つ目としては、儒教が説く徳治主義の基本である天命思想が、女帝を前提としていないということも背景にあろう。
天帝が地上世界の統治をゆだねた有徳の天子がその世界の王となるのだが、その委託は「天帝の元子(長男)」として認知されることで担保される。つまり、中国王朝の歴史に連綿と受け継がれてきた天命思想上、地上世界を任せられるのは男帝以外ありえないわけだ。

長い在唐生活の間にこうした儒教的エートスに感化された遣隋の留学組が、舒明天皇没後、宝姫王が大王に奉戴されるにあたり「女性が大王になられるのはいかがなものか」と異を唱えたであろうことは想像に難くない。いわばハーバードあたりのMBAを取得したコンサルタントがグローバル・スタンダードを振りかざして地方では著名な同族会社の女社長に物申したといったところか。

そして、留学組のなかでもとくに強くそれを主張したのが、高向黒麻呂なのではなかったか。
というのも、僧旻が帰国した632年以降も唐に残留した黒麻呂は、以下の経験をしているからだ。

1つには、新羅で632年1月に真平王が死去し、中国および朝鮮では初の女王となる善徳女王が即位したことだ。このとき彼女が唐から新羅王として冊封されるまでに3年を要している。おそらく“男が皇帝である”ことを当然としていた中国にとってこれはかなりの驚きであったにちがいない。どういう爵号を与えるべきかかなりの議論があっただろう。このあたりの事情を唐の官界にあった黒麻呂がリアルタイムで耳にしていたであろうことは十分想像できる。

2つ目は、先にあげた「雌鶏が時を告げると、家が滅びる」を戒めとして政治には口出しをせず、慎ましい生活を送った太宗の長孫皇后が636年に死去したことである。彼女がそうした女性のあるべき姿勢を記した『女則』という本を読んだ太宗が彼女の死をいたく悲しんだということだが、この美談は当時広く流布されたものと思われる。
そして、その風潮のなかで、前回述べたような儒学者たちによる一大セレモニーが開催されているわけだ。
もちろんそこで「女帝不可」が取り上げられたというつもりはないが、夭逝した皇后を偲んで女性のあるべき姿勢が議論される場面もあったのではないだろうか。

こうした在唐時代の体験をベースに皇極女帝の出現に公然と反対を表明する高向黒麻呂に、我が意を得たりと飛びつく人物があった。その人物こそ、黒麻呂らを隋へ送った厩戸皇子の息子・山背大兄皇子である。

コメント

ならば

なぜ、「女帝不可」思想の本場であるはずの中国で武則天が即位できたのでしょう。

Re: ならば

大黒丸様、お久しぶりです。
またまた鋭いコメントをいただきまして、ありがとうございます。

ずるい言い方をすれば、私の本文で「中国のどの経典をさがしても「女帝不可」の思想そのものは見つけられない」としているのは、まさにその質問を想定したものでした。
つまり「女帝不可」という明確なルールがあったわけではないので、私のいう「儒教的エートス」をなし崩し的に無力化していけば、やがては女帝も「可」となる、ということだったのではないでしょうか。

とはいえ、武后が皇后になってから帝位につくまでに35年かかっています。
その意味では、明文化されたルールを捻じ曲げる以上に大変な作業だったと言えます。

詳しく調べたわけではありませんが、政敵を次々と葬り去っていきながら、即位へのお膳立てとして使用したのが仏教だったようです。
最終的には、仏典にこじつけた偽りの文章で「彼女は弥勒の生まれ変わりだから帝位に就くべし」と言わせ、唐朝そのものを否定するに至ります。

ただ、面白いことに、彼女が唐の代わりに再現しようとしたのが、儒教の精神的故郷である古代中国の周でした。
儒教の外(仏教)で正当化された「女帝」にとって理想とされたのが儒教の拠り所である周王朝だったというわけです。

仏教も儒教も彼女の野望実現のための方便だったと言えば、それまですが・・・

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