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大化改新の方程式(112) 上宮王家滅亡事件は倭国版「毗曇の乱」だった

なかなか更新できずすみません。
再び乙巳の変の核心に迫ろうとするいま、同じ論点で3年近くも前にこのブログ上で展開した自説の検証にまとまった時間をとりたいところ、仕事が忙しくてままならぬといった状況です。
とはいえ、忘れ去られない程度に更新頻度を保つことも必要ですので、今後は「続きは後日」的な締めくくりでお茶を濁すこともあるかもしれません。どうか長い目でみていただければ幸いです。

学会でも在野の研究家でもあまり問題視されていないようだが、上宮王家滅亡事件(643年)に至る過程をみると、どうも腑に落ちない点がある。

それは、推古天皇没後の王位継承問題であれほど世間を騒がせた山背大兄皇子が、皇極即位にあたって異議を唱えた形跡がないことだ。

通説によれば、舒明崩御の時点(641年10月)で王位継承権をもつ皇子が複数いた(少なくとも山背皇子と古人皇子の2名)ので、争いを避けるために皇后であった宝姫王を即位させたということになっている。
であれば、その裁定の過程で山背皇子が「今度こそわしだよね」的なアピールをしたはずだ。それこそ日本書紀の編者にとって、その2年後に皇子を襲った悲劇を際立たせるにはもってこいのトピックだったろう。ほぼ脚色なしで採用できたネタにちがいない。

しかしながら、日本書紀は黙して語らない。

こうした疑問に対するもっともらしい解答は、山背皇子が異議を唱えることもできないほどに、蘇我氏の権勢は極まっていたという見方だろう。
が、これは少々無理がある。
古人皇子が王位争いにからむことができたということは、この時点で20歳を超えていたとみるべきで、かつ、蘇我氏の意向が古人皇子を大王にすることなら、宝姫王を大王にせずに、なかば強引に古人皇子を即位させればすんだはずだ。

さらにいえば、上宮王家がその2年後に一族もろとも滅ぼされたことを考えれば、斑鳩の山背皇子らが飛鳥の朝廷にとって無視できぬ存在であったことは否定できないだろう。

やはり、通説の立場にたつと、山背皇子がなんの異議も差し挟まなかったこと、あるいは、異議を唱えたが日本書紀がそれを記録に残さなかったことはあまりに不自然と言えないだろうか。

私にとって“腑に落ちない”この問題を解く、いわば補助線となるのが、これまでの記事で何度も触れてきた「近親婚による20歳以上の男子が王位を継ぐ基本ルール」とその例外措置としての「中継ぎ大王制」だ。

つまり、蘇我氏の権勢が極まっていたとしても、さらにまた、古人皇子が20歳を超えていたとしても、舒明が死んだ時点で葛城皇子(中大兄皇子)が20歳に達していないがゆえに、舒明の皇后である宝姫王が「中継ぎ」として即位するのが決まっていたわけだ。

この王位継承ルールの前では、山背皇子も古人皇子も等しく異議を唱える立場にはなかったのである。

しかしそれだけでは十分ではない。
その2年後に上宮王家が滅ぼされる理由が説明つかないからだ。

ここで第2の補助線を引いてみよう。
それが、「女帝不可」の思想をもった帰朝者たち、なかんずく舒明崩御1年前に帰国したばかりの高向黒麻呂の存在だ。
すなわち、この王位継承ルールの例外規定で誕生した女帝の存在を否定できる大義名分を山背皇子が手にしたと見るべきなのだ。

おそらく皇極即位の段階で、黒麻呂たちによる「これから大唐と渡り合っていくべきときに女帝では馬鹿にされる」という趣旨の奏上があったであろう。
これこそが、もはや王位継承権を失ったと自他共にみなされていた山背皇子にとって、起死回生の突破口になりうるものと映ったにちがいない。

あるいはこの帰朝者らの諫言に便乗して、この時点ですでに山背皇子は異を唱えたのかもしれない。
しかし、この「女帝不可」のトピックは日本書紀の編者にとってタブーであったため、記録から抹消されたという解釈もありえよう。(これについては、「歴史から消された“女帝を不可とする考え”」というかなり以前の記事(『偽りの大化改新』を読む(6))を参照されたい)

いずれにしも、皇極即位に際して山背皇子がなんの異議も差し挟まなかったこと、あるいは、異議を唱えたが日本書紀がそれを記録に残さなかったことは、2つの補助線を使えば、無理なく解に至ることができるのである。

それでは、この大義名分を得た山背皇子が2年後に滅ぼされるきっかけとなったものは何だったのか、次にそれをみていこう。

コメント

なぜ中大兄は入鹿を斬ったか

お久しぶりです。大黒丸です。

貴殿は「中大兄即位までの中継ぎ」としての皇極即位だったとの論を展開されておられるが、貴殿の言われる「王位継承のルール」が蘇我の権勢を凌駕するまでに徹底していたならば、なぜ中大兄は蘇我入鹿暗殺に及んだのだろうか。
待っていればやがて得られるであろう果実を、危険を冒してまでむしり取る必要はなかったのではないだろうか。
「血の穢れ」に触れることは、当時最大のタブーだったはずだ。

Re: なぜ中大兄は入鹿を斬ったか

大黒丸様

ご無沙汰です。
忘れないでいただき、ありがとうございます。

さて、ご指摘の件ですが、かなり以前の「古人大兄立太子と中大兄皇子の立場(大化改新の方程式(42)」(コメントではリンクがはれないようです)で触れたように、私は644年の後半に古人大兄が立太子したとみています。
これは、645年に20歳になり、私のいう「王位継承のルール」にのっとれば太子となることを予定されていた中大兄にとっては、母の皇極が没した後に大王となるルートを阻まれたことを意味します。
それが、彼をして孝徳一派のクーデターに与するインセンティブを与えた、というのが私の考えです。

さらに、その中大兄の入鹿・古人に対する憎悪を利用しクーデターの実行部隊に参画させ、ご指摘のとおり彼を「血の穢れ」に触れさせることで、クーデター直後に皇極から中大兄への譲位の可能性を潰しておく、というのが孝徳一派の隠れたシナリオだったのではないだろうか、と考えています。

中大兄が鎌足といっしょに南淵請安に通った道すがらクーデターの計画を練ったということですが、いわば中大兄の洗脳も目的にあったといえます。

少々妄想気味の展開ではありますが、このストーリーが成り立つなら、以下のように言うこともできます。

つまり、644年にクーデターが決行されていたら、その時点では20歳になっていなかった中大兄はメンバーに入っていなかったでしょう。

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