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大化改新の方程式(113) 続・上宮王家滅亡事件は倭国版「毗曇の乱」だった

上宮王家滅亡事件(643年)については、蘇我入鹿の単独犯行ととるか(『日本書紀』)、諸皇子との共謀ととるか(『藤氏家伝』『上宮聖徳太子伝補闕記』)で事件の性格が大きく異なってくる。

私は、上宮王家の反乱計画を未然に察知した朝廷軍による討伐が行われたのが真相だとみている。
すなわち、皇極女帝の意向を受けて寵臣・入鹿が組織した正規軍が斑鳩の上宮王家を急襲したのである。
正規軍によるオペレーションであれば、もはや単独犯行なのか、共謀なのか以前の問題であろう。

実際に謀反の疑いがあって討伐軍が出動したとみる状況証拠としては、
・将軍が任命されている
・この事変で死亡したとされる人々の墓がない
をあげるだけで十分ではないだろうか。
これは、いずれ取り上げる蘇我倉山田石川麻呂の事件でも共通するチェックポイントだ。

それでは朝廷軍をして討伐に向かわしめるきっかけとなったのは何か。

日本書紀によれば、11月1日の急襲に先立つ10月12日に入鹿が「上宮の王達を廃(す)てる」決断をしている。
もちろんこれは入鹿の判断ではなく、皇極の命令が下されたということだが、私にはこの「上宮の王達を廃てる」というのが、討伐軍の組織・出動を意味するものとは思えないのだ。
というのも、もし10月12日の段階ですでに斑鳩への軍事行動を決定していたとすると、11月1日の急襲まで随分と日数がたちすぎている感が否めない。
将軍の人選などに手間取ったとみることもできるが、であれば朝廷の動向が斑鳩に漏れる可能性は十分にあっただろう。
それにしては、日本書紀の記述をみるかぎり、11月1日の山背皇子サイドは不意をつかれたきらいがあるので、ここはやはり上宮王家討伐はあくまでその直前に決定されたとみたほうがよいだろう。

おそらく、10月12日での「上宮の王達を廃てる」という皇極の決断と、11月1日の斑鳩急襲のそれとは別のものではなかったか。
「上宮の王達を廃てる」というのは「上宮王家を抹殺する」という意味ではなく、上宮王家がもっていた特権、以前私が“打ち出の小槌”と呼んだ壬生部を保持する権利を放棄させたということだと私は考えている(上宮王家の特権については、「“打ち出の小槌”を手に入れた上宮王家」(大化改新の方程式(66))および「それからの厩戸と上宮王家」(大化改新の方程式(67))をみていただきたい)。

日本書紀の10月12日の記事においては「上宮の王達」という表現をとっていることにも注意したい。
入鹿が「独り謀って古人皇子を天皇にしようとした」という部分を後世の脚色だとして無視すれば、ここでは山背皇子の王位継承権ではなく、上宮王家全体の処遇を問題としていると解釈できよう。

さらに日本書紀には、その裏付けとなる出来事も記されている。
それが10月3日の記事にある“国司”の改任をめぐる対立である。
これは前年から顕在化した上宮王家の壬生部をめぐる確執が頂点に達したことを述べていると私は考えているが、その詳細は次回取り上げることにしよう。

では、11月1日の斑鳩急襲へと事態を急展開させるきっかけは何だったのか。
壬生部を取りあげるという皇極の命令で飛鳥と斑鳩との間の緊張は一気に高まり、一触即発の様相を呈していたにちがいない。
そこに、飛鳥の朝廷をして「もはや猶予はならない」と判断せしめるニュースが、大陸からもたらされたのである。

そのニュースとは、百済・義慈王の攻勢で窮地にたち、高句麗への援軍要請に失敗した新羅が643年9月唐に助けを求めたところ、唐の太宗から直々に、婦人が王だから近隣の諸国から侮られるので、替わりに唐から王族の男子を王に迎えることを要求された、というものである。
言うまでもなく、これが4年後新羅で発生した毗曇(ひどん/ピダム)の乱での「女主不能善理(女性君主は国を治めることができない)」というスローガンの元になるのであるが、私はこの情報が倭国にもこの時期(10月下旬)もたらされたと考えている。

前回述べたように私は、皇極即位にあたって高向黒麻呂ら帰朝者を震源として「女帝不可」の思想が倭国朝廷内に浸透していったとみている。
そして、山背皇子にとってはこの思想こそが「中継ぎ」として即位した皇極を廃し、再び王位に手を伸ばすことができる唯一の武器だったのである。
まさに『藤氏家伝』で入鹿が上宮王家討滅を謀るににあたり、「皇后朝に臨みたまふ。心必ずしも安くあらず。焉ぞ乱無けむ」と述べたような状況だったといえよう。

実は、この説はかなり以前の記事「なぜ入鹿たちは上宮王家を襲撃したのか?」(『偽りの大化改新』を読む(9))および「「皇后朝に臨みたまふ。心必ずしも安くあらず。焉ぞ乱無けむ」の意味」(『偽りの大化改新』を読む(10))で展開しているが、今回はこれをより詳細に検討してみた。

ところで、たしかにこの大陸からの情報は、山背が主張する「女帝不可」というスローガンの求心力を急速に高めたであろう。
しかしながら、たとえ「女帝不可」を支持する群臣が多かったと仮定しても、女帝を廃した後の候補(男帝)としては蘇我本宗家のバックアップを受けている古人皇子のほうが有力な選択肢だったはずだ。
その意味で、山背皇子にとって乾坤一擲の賭けとなるこの政変は、暴力的な手段の行使が伴うものであったにちがいなく、機先を制するかたちで討伐軍を派遣した入鹿の判断は的確だったというべきであろう。

それでは、その上宮王家にとっていわば倭国版「毗曇の乱」呼ぶべき反乱計画にはどの程度の勝算があったのであろうか。

コメント

古代の情報伝達スピード

唐の皇帝が新羅の使者に「女帝を交代させよ」と言ったのが9月です。
それが10月には倭国の朝廷に届いていたというのは、当時の情報伝達スピードらして無理だと思うのですが、ご意見をお聞かせ下さい。

Re: 古代の情報伝達スピード

雑種様

コメントありがとうございます。
痛いところを突かれました。たしかに9月の唐(おそらく長安)における出来事のニュースが、10月末の時点で飛鳥の朝廷に到達していないと私の説は瓦解してしまいます。

遣使の公式ルートはともかく、間諜などが利用した非公式のルートがどのくらいの日数をかけて大陸と情報交換をしていたのかの記録を見出すのはむずかしいでしょう。
おそらくたしかなことは、このニュースは当時のほかの情報と同じく、唐から直接倭国に至ったものではなく、新羅あるいは百済経由ではいったものと思います。

唐への援軍要請が不首尾に終わったことを知らせる使者が大急ぎで新羅に戻ったことはまちがいないでしょう。これがどのくらいの日数を要したのかはわかりません。ただ何度も行き来しているルートがあったはずなので1カ月以上もかかったとは思えません。
(これについて何か記録がありましたらご教示いただきたい)

では、新羅から倭国まではどうでしょうか。あるいは新羅での情報を得た百済の間諜が百済を経て倭国に情報をもたらすにはどのくらいの期間が必要でしょうか。

これについて参考になるのが、660年に百済が唐・新羅の連合軍によって攻撃され滅亡した際、そのニュースが飛鳥の朝廷に到達した日数です。
日本書紀によれば、9月5日にその第一報を得ていますが、その内容には7月の王都の陥落や義慈王の降伏だけでなく、鬼室福信らレジスタンスの活躍が含まれています。この活躍が、『三国史記』に記されている任存城に拠った復興軍が新羅軍を撃退した戦闘のことだとすると8月26日です。そうであれば、9月5日に届いたニュースは、8月26日以降に発信されたものといえます。
つまり10日足らずで朝鮮半島の情勢が飛鳥の朝廷に伝達されたということです。

もちろん、問題としている「女帝を交代させよ」という643年のニュースは新羅にとっては大ニュースで急ぎ持ち帰る必要があったかもしれませんが、倭国に対して急ぎ知らせる必要があるものだったとは思えませんので、10日というのはありえないとしても、2週間ぐらいとみていいのではないでしょうか。

とすると、中国から新羅を経由、あるいは新羅からさらに百済を経由するルートを含めても全体で1ヶ月半あれば、中国の情報は倭国朝廷の知るところになると考えていいのではないだろうか。
新羅の使者が唐の太宗に謁見したのが9月の前半というのが前提となりますが、もしそうであれば、ぎりぎり10月末には倭国にその情報が到達していても不思議ではないと考えます。

出典は

さーせん、会長、質問です。
643年9月に新羅が唐に救援を求めたところ「女主不能善理」と諭されたという話の出典はどこでしょうか。
当方「新唐書」しか手許になく、そこには「高句麗と新羅に攻められた新羅から使者が来て、援軍を要請した」としかありません。「旧唐書」のほうですかね。
ご指導よろしくお願いします。

‥‥みずからこのキャラになってみました。

Re: 出典は

梅前さま

コメントありがとうございます。
この話の出典は『三国史記』新羅本紀・善徳王にあります。
ただ、それ自体が、唐の詔勅文や上奏文がたくさん掲載されていて唐研究の重要資料とされる『冊府元亀』の記述をそのまま掲載したものです。

実はこの『冊府元亀』の該当箇所をみると、この出来事は「九月庚辰」となっていて、日本書紀と『冊府元亀』で使っている暦日が同じであれば、9月4日のこととなります。
これが正しければ、倭国に届く10月末まではけっこう余裕があったといえるのではないでしょうか。

逆に原典をもう一度読んでみて間違いにも気付きました。
私は新羅の使者が太宗に謁見して、直々に言葉を賜ったように書きましたが、それは間違いで「人を介して」という記述がありました。お詫びして訂正いたします。

れんし

ありがとうございました

早速のご教示ありがとうございました。

『冊府元亀』‥‥。なんすかそれ。初耳。
知らないことが多すぎる。

古代の情報伝達スピードの件

真摯にお答えいただきありがとうございます。
しっかりとした長安・新羅間の通交記録があるとよいですね。

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