FC2ブログ

大化改新の方程式(115) それぞれの乙巳の変~宝姫王の場合

猛暑のなかでの出張続きでいささか体が参ってしまいました・・・。

私のストーリーのなかでの宝姫王(皇極天皇・重祚して斉明天皇)のキャラクターは、私のオススメ本である『皓月』(梅前佐紀子)のなかのそれとは、実はかなり異なっている。
ある意味、対極にあると言っていいだろう。

そもそも私の想定では、蘇我入鹿は宝姫王の寵臣であった。
もちろん『皓月』のなかでも宝姫王の秘めた決意を知らない多くの群臣にとっては、入鹿は彼女の寵臣として映っていた時期もあったが、私の場合は、乙巳の変のその瞬間まで入鹿は彼女の忠実なる下僕にして、頼もしい政策運営者だったはずだ。
その寵臣があろうことか息子に殺され自らの退位を強要されるとは晴天の霹靂以外のなにものでもなかった。

さらに私にとって皇極期の宝姫王は、日本書紀において“興事好き”と描かれた斉明期の彼女であり、『皓月』の主人公からは想像もつかないほど民を使役した大王であった。
とはいえ、『皓月』ファンにあらかじめ断っておくが、プリンセス・タカラならぬマレフィセント・タカラがそこにいた、というつもりは毛頭ない。

以前私は、後世「聖徳太子」と呼ばれる人物から始まる倭国の律令国家建設への長い道程を解釈するキーワードとして「大唐コンプレックス」をあげた(詳しくは「大唐コンプレックス」の始まり大化改新の方程式(53))および「対等外交」のためのエビデンス大化改新の方程式(54))。
そこに書いたように、宝姫王の“興事志向路線”はいわばこの「大唐コンプレックス」の発現形態であった。

それが唐の都城や制度を模した国家体制をつくりあげることに邁進した軽皇子の“唐真似路線”と異なる点は、世界の中心たる新たな王権のイメージを浸透させ、その権威によって隋唐の皇帝のように人民を思うがままに動員する体制を彼女が模索したことにある。
これまでにない板葺きの宮を築造し、夫・舒明天皇をそれ以前の大王と異なる八角形墳に改葬したのはその表れといえよう。

千田稔はこの八角形墳に着目して以下のように述べている。
八方を治める大君(天皇)とは、八方つまり東西南北とその中間の方位南東・南西・北東・北西の八方位を統治する大君(天皇)を示す。八方位をもって世界(宇宙)とするコスモロジーは、中国の土着的宗教である道教のものである。皇極は改葬までして道教的コスモロジーでもって舒明の陵墓を新たにつくった。そのような行為には、新しい権力者観があったと考えねばならない。(『平城京遷都』pp.107-108)
さらに「天皇という称号がいつごろから使用されたか」については・・・
公式・非公式を問わないとすれば、舒明朝に天皇号が用いられていた可能性はあるというのが私の考えである。一歩ゆずって皇極朝に舒明に天皇号を追贈したとみてもよい。(同p.109)
まったく同感である。
ただ私は、インスピレーションは夫・舒明から得ていたとしても、明確な理念のもとで「天皇」という呼称を最初に使用したのは皇極期の宝姫王であると考えている。

以上のように皇極期の宝姫王がすでにして“興事好き”であり、蘇我入鹿が宝姫王の寵臣であったとすると、ここで1つの仮説が生まれる。
日本書紀に書かれている皇極天皇の指示のもと行われたこと(頓挫していた百済大寺の建立の再開、飛鳥板蓋宮の造営、船舶の建造、吉備姫王の陵墓建造)のほかにも、蘇我蝦夷・入鹿の名の下で行われたとされることが、実は宝姫王の“興事”の一貫であった。

蘇我父子の専横の極みとされる八佾の舞(やつらのまい)のエピソードも、宝姫王による新しい王統を権威づけるためのパフォーマンスではなかったか。ここに「八方を治める大君(天皇)」をもとにした八角形墳と同じ着想をみることはできないだろうか。

皇極期において宝姫王がどこまで明確な青写真をもっていたかはわからないが、645年の乙巳の変による寵臣・入鹿暗殺は彼女の壮大な構想が潰え去ったことを意味したはずだ。

コメント

皇極「天皇」

皇極が大規模な人民使役のシステムを構築し、その上に立つ大王を「天皇」と称したとするなら、皇極はこの国の王権を根底から造り変えた人物ということができるでしょう。
「八侑の舞」が道教思想由来のものではないかとの着想は面白いと思いました。

いずれにせよ、皇極が「天皇」であったとするなら、飛鳥板蓋宮には「大極殿」が存在したことでしょう。蒸し返すようで申し訳ないですけど。

Re: 皇極「天皇」

梅前様

いつもありがとうございます。

> 「八侑の舞」が道教思想由来

「八侑の舞」は周の時代を起源とする舞踊ということで、古代中国の宇宙観に根ざしたものです。
道教を「中国の土着的宗教」とするなら、まさに八角形墳と根は同じと考えてよいでしょう。


>飛鳥板蓋宮には「大極殿」が存在した

千田稔も同じ本で「皇極期に大極殿が存在してもおかしくない」といっています。

この本にあることでさらにおもしろいのは、「皇極」という名前ですね。
奈良時代に漢風諡号をつくった人物(淡海御船とされています)は、歴代の大王の真の姿をどこまで知っていたのでしょうか。

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)