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大化改新の方程式(116) 皇極女帝による東国壬生部の接収

私の仮説では、皇極期での宝姫王の“興事好き”の所業は、後年「入鹿誅滅物語」が形成される過程で宝色が消え、日本書紀において藤原鎌足の顕彰という編集方針が打ち出されるにいたり、蘇我蝦夷・入鹿の“悪行”として歴史に刻まれることになった。

逆に、鎌足の顕彰という目的とは無関係な斉明期の所業については、日本書紀はほぼありのままを物語っているといえる。
いやむしろ、宝姫王が持統天皇や元明天皇の祖母ということで書紀の記述に手加減が加えられていたとするなら、実際にはもっと過酷な使役が行われたのかもしれない。

皇極期での人民使役の状況は蘇我父子の“悪行”の影に隠れてみえないが、上宮王家滅亡事件以降は上宮王家が所有していた壬生部を接収するかたちでなされたにちがいない。

その証拠としてあげたいのが、その事件の翌年にある「常世(とこよ)の神」の顛末だ。
それは富士川近辺から出た大生部多(おおうべのおお)が教祖となった新興宗教のエピソードだが、信者たちは蚕に似た虫を「常世の神」として祭り、踊り狂い、財産を捨てたという。ついには飛鳥周辺でも流行りだしたが、聖徳太子の近従だった秦河勝によって教祖が討伐されるにいたり収束した。
江戸時代の幕末に流行した「ええじゃないか」のように世情不安を背景とした一種の集団ヒステリーといえそうだが、このエピソードの注目点は以下の3つだ。

1.一説によると「大生部」は「壬生部」に由来するもの(『秦氏とその民』 加藤謙吉)であり、多は上宮王家が所有する東国の支配地(甲斐、相模、武蔵など)の出身と考えることができる。
2.この運動が飛鳥まで伝播したのは、東国の壬生部の民が多数、飛鳥での土木工事に駆り出されたことが背景にあろう。
3.秦氏は壬生部を統括する役目を負っていたとみられることから、大生部多らの監督責任があったはずである。

この事件を裏読みすれば、皇極女帝による過酷な壬生部解体、動員、使役に対して不平分子化した人々を秦河勝が弾圧したということにならないだろうか。

ここまで考えが至ると、もう1つの仮説もたてたくなる。

それは、山背皇子が蘇我入鹿の襲撃を受けた際に、いったん生駒山に逃れながら、「深草の屯倉(京都市伏見区)を経由して馬を使い東国に入り、壬生部の民を糾合し攻めのぼる」との三輪文屋の進言を退けた本当の理由というべきものだ。
日本書紀が語る理由は「民を巻き添えにしたくない」という美談であったが、私にはこれが真相とは思えない。
もし深草の屯倉まで行くルートがまだ残されていたのなら、決起するのは諦めるにしろ、少なくとも女子供はそちらから逃がすだろう。
しかしながら、山背は一族そろって斑鳩寺に戻って集団自決してしまう。

とすれば、答えは1つ、深草の屯倉に行けない理由があったとしか考えられない。

このとき深草の屯倉を管理していたのは、ほかならぬ秦河勝だった。
つまり、その河勝から「上宮王家には馬を貸せない」という回答が、生駒山に潜んでいた山背たちに届いたのではなかったか。
上宮王家にとって唯一のサバイバルルートが、秦氏の裏切りによって断たれたのである。

そして、その翌年の「常世の神」事件で秦河勝自ら壬生部の民を弾圧したという事実は、秦氏が大王家による壬生部接収を認め、皇極・入鹿政権の軍門に下ったことを物語るのである。


<追記>
東国の壬生部といえば、信濃の善光寺周辺にもあったとする研究があるらしい。
もしそれが本当なら、『善光寺縁起』におもしろいエピソードがある。
詳しくはここをみていただくとして、そのなかで「皇極天皇が地獄に堕ちた」とある。
つまりこれは、皇極天皇が当時、この壬生部の民に対して“地獄に堕ちる”ほどの恨みを買う施策を行ったということを示唆していないだろうか。
まさに上宮王家滅亡事件の皇極2年(643年)が建立年とされる善光寺、歴史の闇に封印された真実が眠っているのかもしれない。

コメント

二人が目指した場所は

私は、宝姫王の「興事」は対外戦争に備えたものと考えており、唐新羅の脅威が高まった斉明朝からだと考えていますが、れんしさんの説はそれとは全く異なりますね。
どちらが真相により近いかはおくとして、れんしさんがおっしゃるように宝が入鹿とともに「人民を過酷に使役しての興事」「壬生部接収」を断行したとするなら、二人はどのような体制を目指していたのでしょう。
それは存外、二人の夢を打ち砕いて樹立された孝徳政権が実行したものと、ほとんど同じだったようにも思えるのですが。

Re: 二人が目指した場所は

梅前さま

コメントありがとうございます。

「二人はどのような体制を目指していたのでしょう」とは、まさに次回のテーマなんです。

> それは存外、二人の夢を打ち砕いて樹立された孝徳政権が実行したものと、ほとんど同じだった

たしかに、大王を中心とした中央集権国家をつくるという点においては同じだったと思います。
ただ、次回どこまで具体的に言えるかわからないのですが、それを実現するやりかたが、宝&入鹿と、軽&黒麻呂&鎌足との間で異なっていたと考えています。

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Re: 先日はどうもありがとうございました

こちらこそありがとうございました。
また是非お会いしましょう。

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