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大化改新の方程式(117) 要塞都市・飛鳥

炎天下の出張が続いて、まともにブログに向かう時間と気力がありませんでした。ご心配をおかけしました。

上宮王家一族を滅ぼしてまで、宝姫王がやろうとしたことは何だったのだろうか。

皇極期の治世を考える場合、2つのことを念頭におく必要がある。

1つは、642年(皇極元年)の義慈王による新羅侵攻によって“任那”の地を百済が占領したこと、もう1つは、前々回の記事で述べたように、宝姫王が「世界の中心たる新たな王権のイメージ」を創出しようとしたことだ。

第1の点は、かなり以前の一連の記事で触れたように、乙巳の変にいたる外交的要因を語ることでもある。
642年、東アジア大変動の始まり『偽りの大化改新』を読む(16)
異例の事態が展開していた皇極朝の外交『偽りの大化改新』を読む(17)
錯綜する642年と643年の外交記事『偽りの大化改新』を読む(18)
甦る60年前の日羅建策『偽りの大化改新』を読む(19)
百済に翻弄される倭朝廷『偽りの大化改新』を読む(20)
“韓人”の正体『偽りの大化改新』を読む(21)
6月12日、その日何が起こる予定だったのか『偽りの大化改新』を読む(22)

いま振り返ってみると、そこで展開した自説については、多くの部分で修正の余地がある(すでに“韓人”の正体や“三韓進調”の真相については再考記事を書いた)が、以下のような大枠の筋書きはなお有効と考えている。

・新羅に要求していた“任那”の調を百済に肩代わりさせる外交方針を早々に決定したこと。
・それを実現させるため、60年前の敏達期に来倭した日羅の建策による「船舶造営・毎津列置による脅迫によって、百済王または大佐平・王子の来朝を促し、問責を行う」という恫喝外交を採用したこと。
・従順な姿勢を示しつつも期待通りの調貢を行わない百済への反発と同時に、「やはり女帝じゃだめだ」的な気運が倭国内に盛り上がってきたこと。(「女帝不可」を唱えた上宮王家を滅ぼしたことへの批判の声もでたにちがいない)
・皇極・入鹿政権は、百済の調使に倭国朝廷による人民動員力をみせつけることで百済の譲歩を引き出すことを狙い、甘樫丘の山城化を中心とした“要塞都市・飛鳥”建設を強行したこと。(対外的なデモンストレーションのみならず、朝廷内の反女帝勢力への圧力の意味もあったであろう)
・“要塞都市・飛鳥”建設を開始した644年末ごろに、古人皇子を朝政に参加させたこと(太子制度が完成していない当時においてはこれが「立太子」に相当)

結局、飛鳥の要塞都市化は、乙巳の変によって途上で潰えることになる。
この構想が、宝姫王が斉明天皇として返り咲いてすぐさま着手した「興事=土木工事」へと継承されたというのが私の考えだ。
だからこそ、彼女は飛鳥の地に執着したのではなかったか。
しかも、斉明としての彼女の頭のなかでは、土木工事の目指すものが、飛鳥の地の改造に留まらず、大和盆地を視野においた一大プロジェクトへと進化していたのである。

それは同時に、最初に私があげた皇極期の2つ目のポイント、宝姫王が「世界の中心たる新たな王権のイメージ」を創出しようとしたことに関連がある。
そして、あまりに唐突な意見かもしれないが、そうした彼女の思想形成に影響を与えた人物として、高句麗の宰相・淵蓋蘇文(えんがいそぶん)を名をあげておかなければならないだろう。おそらく彼こそが後年倭国が百済復興戦争に軍事介入するにあたり、宝姫王をして“勝算あり”と確信させたキーパーソンだったのではないだろうか。

コメント

塩を送る

神功皇后摂政前紀に、

「皇后、武内宿禰を召して、剣鏡を捧げて神祇を祈りまさしめて、溝を通さむことを求む。(略)時の人、その溝を号(なづ)けて裂田溝(さくたのうなで)といふ」

とあります。
ご存知の通り、神功皇后には西征する斉明の姿が投影されているとも言われています。また、武内宿禰といえば、言わずと知れた蘇我の祖先とされる人物です。
この説話は、入鹿と宝が共同して「興事」にあたったという傍証にならないでしょうか。

ちなみにこの「裂田溝」は、那珂川の右岸を今も2㌔以上にわたって流れる「裂田水路」のことだそうです。

Re: 塩を送る

いただいた「塩」はなかなかに微妙な味わいですね。

言われるように、皇極期の宝が入鹿と共同して「興事」にあたったのが史実だとしたら、なぜに九州での事業(「裂田溝」は実際に存在したもの)に彼らの施策を投影したかを問うべきですね。

当時朝鮮半島に攻め入った倭国の王が実際に存在したのは、好太王碑文から明らかです。
その人物を歴史上から抹殺してまで、その業績を斉明の西征とオーバーラップさせてしまうことにどんな編集上の意図があるのでしょうか。

そう考えると、九州王朝説がひょいと顔出すような気がして、なんだか剣呑です。

今更な質問ですが…

この度は、再開したブログにコメント頂きありがとうございます。お恥ずかしいたらありゃしない。

ところで。
日本書紀を最近初めて読んでいます。皇極天皇のあたり。
で、以前からちょっと気になっていることがあり、もしかしたらもう既にその筋の方々の中でも、れんしさんのブログの中でも答えはとっくからあるのかもしれないのですが…

日本書紀でも万葉集でも、中大兄は「皇子」という敬称が付いた表記が一個もないのは、どういうわけなのでしょう。
ほんとに皇子だったのでしょうか。
A=C,B=C,ゆえにA=B みたいなものだと思うのですが、どうも釈然としなくて。
娘に「日本史の先生に聞いてみて」と言っても嫌がるんです。「いいところに目を付けたね」って、褒められそうな気がするんですけどね。

コメントのお礼のつもりがこんな質問ですみません。
こんな私ですが、そうぞよろしくお願いします。

Re: 今更な質問ですが…

ももそさま

コメントありがとうございます。

「中大兄は「皇子」という敬称が付いた表記が一個もない」ということについては
学会ではどういう見解になっているのかはわかりませんが、
在野の研究家の著作『万葉集があばく捏造された天皇・天智』で触れています。
とはいえ、この本は購入はしたのですが、いわゆるトンデモ説の類かなと思って読んでいません。

私もこのことは「「中大兄」としての葛城皇子」(大化改新の方程式(86))で
とりあげたつもりだったのですが、そのあとの「大兄論」で梅前さんに叩かれて
失速してしまいました。
ただ、私が問題としたのは「中大兄“皇子”」という表記がない、ということではなくて、
なぜ「中大兄」なのか、という点でした。

『万葉集があばく捏造された天皇・天智』では、なぜ“皇子”でなく、
さらになぜ“中大兄”なのかという点について詳述しているので、
もしご興味があった読んでみてください。
(手に入りづらいようでしたら、お貸しすることもできます)

私が“皇子”がないという点を問題視しなかったのは、
たしかに「中大兄」には1回もありませんが、「古人」の場合も皇子がついているのは
1回しかないからです。
(『万葉集があばく捏造された天皇・天智』では古人も捏造だと断じているようなので
 あまり反証にはなりませんが・・・。私は古人の出家の記事は捏造だと考えていますが、
 古人自体の存在は否定していません)

私のほうは、「中大兄」という呼称そのものは重要なポイントだとしつつも、
実は結論に至らないでいまだに放ってあります。

私からも「いいところに目を付けたね」と言いたいところですが、
申し訳ございませんが、しっかりとした見解を示せない状態です。

蛇足ながら、『皓月』では「中大兄」という呼称について梅前さんの自説が
展開されていますね。
ただ、当然ですが、「皇子」がないということは問題視してません。
(これを問題視したら、小説自体が成り立ちませんものね)

これからもコメントよろしくお願いします!

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