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大化改新の方程式(120) 淵蓋蘇文と道教

やっと仕事漬けの1カ月半が終わりました。だんたんと更新ペースを取り戻していこうと思います。

朝鮮三国時代から統一後の新羅までを記した歴史書『三国史記』には、淵蓋蘇文がクーデターによって高句麗の実質的な権力を掌握した直後の642年に、「儒教・仏教・道教は鼎の足のようなもので1つでも欠けるわけにはいかない。いま高句麗では儒教と仏教は興隆しているが道教は盛んではないので、唐に使いを送り道教を求め、それをもって民を導きたい」と国王(宝蔵王)に進言したとある。王がそのとおり唐に上表したところ、太宗はそれに応えて道士8人を派遣するとともに『道徳経』(道教の経典の1つ)を下賜している。

唐では老子(李耳)が唐皇帝と同姓であることから宗室の祖として尊崇されていたため、道教は儒教や仏教よりも上位にみなされていた。そのため淵蓋蘇文の進言には太宗の歓心を買うことで唐朝内の対高句麗強硬派を牽制する意図があったのは明らかだ。
また、先代(栄留王)が624年唐に冊封される際、唐から道士が派遣され王は国人とともに『道徳経』の講義を受けている。淵蓋蘇文はこの事例に習い早々に宝蔵王が冊封を受けることを狙ったとも言えよう。

ただ、派遣された道士の館(道観=道教寺院)として仏教寺院を与えたということから、淵蓋蘇文が高句麗国内において道教の普及に努めたこともまた事実であろう。
『三国史記』よりも資料性に乏しいされる『三国遺事』ではあるが、そこには淵蓋蘇文による道士招請の後日談があって、道士たちは仏僧のみならず儒学者よりも厚遇され、平壌城の修築(物理的というよりは呪術的というべきものだったろうが)にも携わったという(「唐の道教をめぐる高句麗・新羅と入唐留学生の諸問題」『専修大学東アジア世界史研究センター年報第4号』土屋昌明 p.148)。
また、『三国遺事』が書かれた13世紀には「道教の導入が高句麗の滅亡を招いた要因だった」という認識であったことから、淵蓋蘇文が主導する宝蔵王の治世には道教の積極的な導入が図られたとみてよいのではないだろうか(もちろん『三国遺事』の筆者が仏僧で道教には否定的であることを間引いて考えるべきではあるが)。

淵蓋蘇文が道教政策を推進していたころ、倭国でも道教に深い関心を寄せていた人物がいた。
それが、皇極女帝こと宝姫王である。

そして、彼女が斉明天皇として再び王座に返り咲いた後、彼女が温めていた構想を具現化すべく招請したのが、斉明2年8月の81人という大所帯の高句麗使ではなかったか。

では、宝姫女が飛鳥の地にこだわり、そこに実現しようとしたものは何だったのだろうか。

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