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大化改新の方程式(121) 田身嶺(たむのみね)の観(たかどの)

斉明天皇として返り咲いた宝姫王が飛鳥の地に実現しようとしたものは、斉明2年の記事に描かれた一連の土木事業のなかに読みとることができる。
ポイントとなるのは、「田身嶺(たむのみね)に観(たかどの)をたてた」とする箇所だ。

この「観」は道観すなわち道教の寺であろうことはほぼ通説になっているとみていいだろう。

岩波文庫版『日本書紀(四)』の注では「観は、もと、合わせそろえる意。宮門の右と左とにある物見の高い台。ここでは道観、即ち道教の寺院か」とある。

斉明天皇と道教の関係を強く主張する千田稔は、以下のように述べている。
舒明天皇には道教への傾倒が見出せないのだが、斉明(皇極)女帝には、顕著にそれを示す事跡が多い。その理由を明らかにすることはできないが、憶測するならば、女性が本能的にそなえやすいとされる霊的な資質が呪術性を多分に内包する道教へと宗教的心性を向けやすいのでないだろうか。道教を構成する要素に不老長生を願う神仙思想がある。
斉明紀2年(656年)に多武峰(奈良県桜井市)に両槻宮(ふたつきのみや)を造るとある。
両槻宮は観(たかどの)という建造物とされているのだが、文字からみて、道教寺院である道観の「観」を指すものと思われる。そのことを裏付けるように、両槻宮を天宮(あまつみや)と呼んでいることからも理解できる。つまり、「天宮」とは、道教において天空に営まれる仙人たちの宮殿をさすからである。
また、同年に、吉野宮(よしのみや)も造っている。飛鳥の南山(なんざん)というべき吉野(奈良県吉野郡)は、仙人の住む土地すなわち神仙境に擬せられてきた土地であり、そこに造られる宮(離宮)には、道観的性格を連想させる。(『飛鳥の覇者 推古朝と斉明朝の時代』pp.159-160)
この「観」については、高殿(たかどの)すなわち物見やぐらと解し、一連の土木事業を唐の侵攻に備えたものとする解釈もある。
しかしながら、私には当時の倭国が「唐が攻めてくる」という現実的な脅威をもっていたとは思えない。
もちろん、宝姫王を主人公とした小説『皓月』(梅前佐紀子)のように、唐の怒りを買うような“事件”が起きていたのなら話は別だが。
日本書紀の記録から唐侵攻の脅威があったとみなすことができるのは、白村江敗戦の直後以外では、後日触れることになるが、天智天皇崩御の頃(壬申の乱の直前)であったと私は考えている。

なお、この「観」すなわち両槻宮の場所については、諸説あるようだが、談山神社の南方の冬野と呼ばれる地区とするのが説得力がある(『日本の道教遺跡を歩く』福永光司・千田稔・高橋徹 pp.9-13)。
最近の発掘調査では、飛鳥板蓋宮の北東の丘、酒船石遺跡のあたりとするのが有力のようだ。
だが、ここも千田説に拠るしかないが、酒船石遺跡の「石列」は両槻宮をめぐらせた石垣ではなく、巨大「須弥山」を創出するために使用されたものであったと思われる(同 pp.21-22)。

コメント

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Re: No title

覚えてくれていたんですね。ありがとうございます!
今後ともよろしくお願いいたします。

今月の12日に地元の横浜市歴史博物館で仁藤敦史の「東アジア外交から見た『大化改新』」という講演会があるのを発見しました。でもすでに締切っていました。うむむ残念。。。

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