FC2ブログ

大化改新の方程式(123) 日本国号事始め

前回の記事に対して梅前様より「飛鳥宮からみて冬野のあたりに日が昇るというのは疑問だ」というご指摘をいただいた。
検証してみると、たしかに冬野から日が昇るのは冬至のときしかないことが判明。これについては再考の余地ありとせざるをえない。
両槻宮比定の糸口として「多武峰⇒蓬莱山⇒扶桑樹」にあえてこだわるのなら、御破裂山山頂としたほうがよいかもしれない。冬野も捨てがたいものがあるが・・・。

ところで、検証に利用させてもらったのが、「日の出日の入時刻方角マップ」という便利なサイト。
これでみると飛鳥宮の人々にとっては、ちょうど冬至のあたりで冬野の方角から日が昇ることになる。(山の高さを勘案すると若干ずれがあるかもしれないが)
ちなみに、このマップによると、飛鳥宮での日の出は冬野の方角(冬至)から桜井市にある崇峻天皇陵の方角(夏至)までの間で眺められることがわかる。中心点である春分・秋分は御破裂山北方200mのあたり。
さらにちなみに、冬野から真東に行くと伊勢神宮の内宮にあたる。(だからどうした? ではありますが・・・)

さて、前回私は、宝姫王が多武峰を蓬莱山とみたてたことが、将来倭国が自らを「日本」と名乗る下地となったという仮説を展開したが、ここではさらなる妄想を膨らませておきたい。
私にとってこの“将来”というのは、同じく道教に深い関心を寄せた天武天皇の治世を想定していたのだが、あるいは、すでに659年の遣唐使が、すなわち宝姫王の治世において、「日本」を名乗っていたのではないかとも考えるようになった。

いつから倭国は対外的に「日本」と名乗るようになったかについては諸説ある。
ここでは詳しく論じないが、736年に成立した唐の史料『史記正義』に「武后、倭国を改めて日本国と為す」と明記されているので、則天武后と対面した702年の大宝の遣唐使の際に正式に日本の国号が認められたとするのが有力だ。
ただ、『旧唐書』や『新唐書』の記述をみると、大宝の遣唐使以前に「日本」という国名が中国に伝わっていたのではないかと読み取れる。
その解釈にたつ場合、『新唐書』に拠って670年の遣唐使(唐の高句麗平定を祝賀するために669年に倭国を出発した河内鯨の一行)において国号変更を奏上したとするのが通説のようだ。

私も大宝の遣唐使以前に「日本」の名乗りがあったと考えているが、それが670年の遣唐使ではなく、斉明5年(659年)の遣唐使という仮説をあえて提示したい。斉明5年の遣唐使は、知ってのとおり、唐が百済征討を開始する前年に長安入りしたため、そのまま彼の地に拘束されてしまう。

私が注目したいのは、『旧唐書』や『新唐書』において、「日本」という国名に変更した理由が明確になっていないとされる点だ。
たしかに『旧唐書』や『新唐書』を読むかぎり、河内鯨などの使者がしっかりとした回答をしていなかったことに起因があるようだ。
ただ、もしそうであるならば、国名変更の奏上をミッションの1つとする使者にしては、あまりに外交音痴と言わざるをえまい。600年の遣隋使ならいざ知らず、僧旻や高向玄理が支えた大化改新や白村江の敗戦処理を経た大和朝廷の使者においてそんなことがありえるのだろうか。
また、唐の高句麗平定を祝賀するために来唐した使者が国名変更を合わせて奏上していたとしたら、中国側の正式な文書に残っていたはずである。
文字表記として「日本」という国号を定めるにあたって、それが用いられる場が想定されなければならない。国号を文字に記すということは、文書に記載することを念頭に置いていたことになる。そして、そうした文書としてまず想起されるのが外交文書である。(『日本古代君主号の研究』河内春人 p.304)
この疑念が正しいとすると、「日本」への国名変更を奏上した遣唐使は、その記録が正式なものとして中国側に残らなかった回のものだったという発想が成り立つのではないだろうか。
とすれば、斉明5年の遣唐使がまさにそれにあたる。
この随員だった伊吉博徳の記録によれば、無事唐皇帝との謁見は果たしたが、倭国使の従者による讒言のため流罪になりかけたあげくに、唐が百済征討を決断したため長安に幽閉されるに至る。つまり、彼らには唐皇帝の国書が付託されなかったのであり、いわば未完の遣使だったことになろう。

このとき、「日本」への国名変更を奏上した事実だけが残ったのである。

倭国にしてみればすでに届出済みの国名である一方で、中国側では「いったいどの時点で認知されたのか」という要領の得ない事態となったわけだ。
その10年後、高句麗平定を祝賀するのが唯一のミッションだった河内鯨にしてみれば、国名変更の経緯をいまさら問いただされても戸惑うばかりであったろう。

702年大宝の遣唐使に国名変更に関するミッションがあったとすれば、「いったいどの時点で認知されたのか」わからなくなっている「日本」を中国朝廷に正式に追認させることだったのではないだろうか。

コメント

冬至

冬至に日が昇るからこそ、そこが「冬野」なのではないですか?
それともまた釣られてしまいましたかね?

今日もきっと冬野からまぶしい朝日が昇ったことでしょう。
日本国号についてはまたのちほど。

Re: 冬至

梅前様

コメントもいただき、ありがとうございます。

> 冬至に日が昇るからこそ、そこが「冬野」なのではないですか?

釣ったつもりはないのですが、千田の本によるともともとは「とうの」と呼ばれていたらしく、語源は山がたわんだ地形の「たわの」ということです。
多武峰も岩手県の遠野も語源は同じらしいです。

ただ、これに「冬」をあてたのは、たしかに「冬至」とからんでいたのかもしれませんね。

国号の変更

たびたびの出没で申し訳ありません。
冬至も終わりましたので、今回は国号の変更について述べさせていただきます。

 私が思うのは、「国号の変更」という重要極まりない決定が、いつの時点で行われたのかということです。国の名前を変えるということはすなわち、国の体制が根こそぎ変わったことを示すものだからです。支配者を含め、それまでのその国のありようをすべて変えるような事態がその時点で起こったからこそ、国号の変更があったのだといえるでしょう。
 パッと見は「壬申の乱」がその候補に最もふさわしいように思えます。(私も小説の中でそのように設定しました。物語の設定上、大海人皇子の即位はまさしく「国の体制を根こそぎくつがえす」ものだったからです)
 しかし、れんしさんがおっしゃるように斉明5年の遣唐が国号の変更を唐に奏上するものであったなら、それは、孝徳朝に行われた大改革、すなわち大化の改新によるものとせざるを得ません。そして、それもかなりの確率で核心に迫るものと私は思います。
 確かに、「倭国」という国号が蔑視の意味を含むことを肌身に感じていたのは唐で暮らしていた僧旻や高向玄理だったはずで、彼らが国号の変更を目指したのは必然だったはずです。
 けれども遣唐は結果的に失敗に終わった。唐側にそれを阻止しようとする意図があったとは思えませんが、「日本」という国号は唐に認められないまま時が過ぎ、670年の遣唐での失態に至ったことを考えれば、「大化の改新」という大改革は、性急すぎ、そして先進すぎた改革だったといえるのかもしれません。そこに留学生たちのジレンマと悲しみが凝縮しているように思うのは、感傷的にすぎるでしょうか。

最後に、メリー・クリスマス。
楽しいクリスマスをお過ごし下さい。

Re: 国号の変更

メリークリスマス!
今宵は一人寂しいクリスマスです。(妻は出張、息子は合宿)
いただいたコメントがなによりのプレゼントです。

たしかにおっしゃるとおり、国号の変更を目指すとしたら、まずは僧旻や高向玄理だったのかもしれません。
その意味では、高向玄理が遣使したとき、すでに国号変更を奏上する特別な任務をもっていたのかもしれません。

これまで私は、「押使」という特別のタイトルでのミッションとしては唐の答礼使を実現することだと思っていましたが、考えてみれば、第1回遣唐使のときに答礼使が来ているので、答礼使が来倭することは当然なことぐらいに考えていたかもしれません。
つまり、「押使」である以上、もっと大きな任務があったわけで、それこそ国号の変更を奏上する以外に考えられないですね。

「日本」という国名は、私のストーリーのなかでは、宝姫王の発案だと思います。

それがどうして失敗したのか。そして、なぜその記録が唐に残されていないのか。
そこのところは謎ですが、玄理の死、そして新羅援助が命じられたことと関係があるのかもしれません。

そして、おそらくこれも仮説にすぎませんが、653年の飛鳥遷都事件は、唐の答礼使をどう迎えるかの対立だったではないでしょうか。(このあたりはいずれまた詳しく)

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)