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大化改新の方程式(126) 冬至における皇帝祭祀

これまでの私の考えによれば、宝姫王は飛鳥の地に「蓬莱山(ほうらいさん)」を中心とした神仙世界を現出させたかった。
彼女にとって多武峰こそが蓬莱山であり、山頂にある大槻が“そこから太陽が昇る樹”=「扶桑樹(ふそうじゅ)」である。だからこそ、そこに日本書紀の斉明2年9月の記事にある「両槻宮」が建てられた。そして、飛鳥宮におわす大王はその方角から昇る太陽を拝んだ、というわけだ。(詳しくは「宝流「対等外交のエビデンスづくり」」(大化改新の方程式(122))をみていただきたい)。

だが、千田稔の説に依って私がその比定地を談山神社の南方の冬野としたところ、梅前様より「飛鳥宮からみて冬野のあたりに日が昇るというのは疑問だ」というご指摘をいただいた。
調べてみたところ、そこから日が昇るのは冬至のときだけだということが判明したのだが、実はこれが大きなヒントとなった。

古代史の研究者にとっては常識なのかもしれないが、中国には「皇帝祭祀(さいし)」といって皇帝が自然神や祖先神を祭る重要な儀式があり、冬至や夏至に行われていた。
起源は秦の始皇帝にあるとされるが、古代に限らず明や清まで中国では連綿と続けられてきた儀式である。

旧暦では冬至は11月にあたるが、古代中国では冬至の月を1年の始まりとしていて、とくに11月1日が冬至と重なる(つまり元旦が冬至となる)のが19年に一度訪れるため、それを「朔旦冬至(さくたんとうじ)」といって盛大に祝っていた。

中国において儀礼化された皇帝祭祀は当然倭国にも知られていたであろうが、史実として朔旦冬至の祭祀を行ったと確認できる最初の例は桓武天皇だ。桓武は784年(長岡京遷都の年でもある)、朔旦冬至に合わせて盛大に皇帝祭祀を催している。
では、桓武天皇以前はこうした冬至における皇帝祭祀とは無縁だったのであろうか。

私は、皇極天皇のときから、この皇帝祭祀を意識した儀式を行っていたのではないかと推理する。

「新嘗祭」は11月23日に行われる宮中祭祀だが、もともとは冬至のある旧暦11月に行われる儀式だった。
即位後の最初の新嘗祭を「大嘗祭」といい、これを格式化したのが天武天皇(あるいは持統天皇)とするのが通説である。
ただ、皇極天皇の治世に起源をもとめる説もあるようで、私はそちらを支持したい。

おそらく収穫祭としての新嘗の儀式はかなり以前から大王家に限らず豪族においてもなされていたと思われるが、皇極天皇は中国における皇帝祭祀を倭国流にアレンジした祭祀を志向したのではないだろうか。

その根拠としては・・・
・日本書紀に皇極元年11月、大王とは別に王子・大臣がそれぞれ新嘗を催したという記述がある。これは、中国における皇帝祭祀にならい皇帝(大王)のみが司祭できる儀式として位置づけたことを物語っていると思われる。
・中国では太宗の治世となって初めての「朔旦冬至」が640年に訪れている。また、このときは干支の一番である「甲子」にも重なる「甲子朔旦冬至」ということで、盛大な祭祀が挙行されたことはまちがいない。同じ年に帰朝した高向黒麻呂や南淵請安がこのセレモニーを見聞することはなかったが、642年に即位した皇極天皇の関心を引いたであろうことは想像に難くない。
・日本書紀によれば、斉明天皇が派遣した659年の遣唐使は高宗による朔旦冬至の祭祀に出席している。その後紆余曲折を経て帰国した伊吉博徳は「その儀式ではどの朝貢国よりもわれわれが勝っていた」と誇らしげに報告している。おそらくこの遣唐使は19年に一度しか訪れない朔旦冬至の皇帝祭祀の有り様を直接見聞してくることが任務の1つではなかったか。それは皇極期の頃からの宝姫王の宿願であったにちがいない。(661年やっとの思いで帰朝した彼らの報告を聞く彼女は、しかしながら飛鳥から遠く九州の地にあって、しかも彼女に残された時間はわずか2ヶ月であった----)
・桓武天皇は自らを新たな皇統(天武系から天智系へ)として意識した天皇であったとされている。その意味では、八角形墳を造営することで新たな皇統イメージを押し出した皇極天皇も同様の発想をもっていたであろう。

倭国・日本において年ごとの冬至はともかく朔旦冬至の祭祀すら桓武天皇になるまで挙行しなかったのは、それが中国皇帝のみに許された儀式だったからといえるが、それをあえて行うことができたのは「中国の世界観を相対化しようとした」宝姫王だからこそと言うべきであろう。(その意味では蘇我蝦夷が行ったという「八佾の舞」もそれが史実なら皇極天皇が主催したものだと思う。臣下の蘇我氏が行ったから不遜というが、もともと中国皇帝のみに許されるものであるから、絶域の王が行ったとしても不遜。蘇我氏に倭国の王どころか中国皇帝と同列になる野心があったとは到底思えない)

では、この倭国流皇帝祭祀が、蘇我蝦夷・入鹿の“邸宅”とされた甘樫丘の施設とどう関係してくるのか。そして孝徳天皇が山崎につくろうとした宮とどうからんでくるのか。
いよいよ私の“トンデモ”説の出番となる。

コメント

光栄でございます

 私のコメントをヒントにしてくださったとのこと、大変光栄です。まったく、頭のいい方は他愛のないことであってもピンと「ひらめく」ようですね。
 で、頭の悪い子にご教示いただきたいのですが、640年が「甲子朔旦冬至」とのことですが、640年は庚子ではないでしょうか。それとも、中国と日本では干支の数え方が違うのでしょうか。
 それから、蘇我が「八侑の舞」「祖廟」と次々僭越なことを繰り出したのは、倭国の「王」を飛び越えて、その上の「皇帝」と並ぶ存在であったことを示したかったとも考えられます。だからこそ蘇我は滅ぼされたのだ、という結論に至ると、「日本書紀の思うつぼ」のようでちょっと悔しいのですが。
 また、孝徳天皇が宮を造営したとされる「山碕」は、京都府の山崎なのでしょうか。通説はそうなっていますが、私個人の考えでは、「山の先」(丘陵地の先端)ではないかと。れんしさんの論の展開に期待するところです。(京都府のほうだとしたらウイスキーの名産地でそれはそれで嬉しいのですが)

Re: 光栄でございます

コメントありがとうございます。

>640年が「甲子朔旦冬至」とのことですが、640年は庚子

すみません、説明が足りませんでした。
年ではなく日です。つまり、冬至であり、11月1日であり、「甲子」の日だったということです。
ただ、この年の11月1日は実際には「癸亥」だったのですが、暦の操作によってわざと目出度くしたということらしいです。
その意味でも盛大な祭典を行ったと見られる、ということになるわけです。
実は暦のことはよくわからないのですが、このことは以下のブログから拝借しました。
九州王朝説の方のブログのようですが、とても参考になります(リンク掲載許可をとっていませんが・・・)
http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/c01022d6aaa88d47e20c81ec8bfd123a/?st=1

「八侑の舞」については、そこまで確認犯的に王室をないがしろにしていたなら、入鹿の死に際の「われに何の罪がある」というがあまりに白々しいです。(そのあたり『皓月』ではうまく描いていましたね)

孝徳の「山碕」はやはりウイスキーですね。というかもう少し広い範囲(すなわち長岡京まで含めた範囲)を考えております。あまりいうとネタばれになりますが・・・

皇帝祭祀は儒教

中国の皇帝祭祀は儒教からきていると理解しているのですが、もしそうであれば、皇極(斉明)が道教に立脚していたという貴殿の説とは整合しないのではないでしょうか。

Re: 皇帝祭祀は儒教

雑種様
久しぶりのコメントをいただきありがとうございます。
「皇帝祭祀は儒教からきている」というご指摘、たしかにそのとおりだと思います。
ただ、この問題はそもそも「道教とはなんぞや」ということに関わることで、なかなか厄介です。
これについての私なりの考えを次回に述べつつ、先にすすみたいと思っておりますので、いましばらくお待ちくださいませ。

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