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大化改新の方程式(127) [私見] 道教とはなんぞや

前回の記事に対して、「中国の皇帝祭祀は儒教からきていると理解しているのですが、もしそうであれば、皇極(斉明)が道教に立脚していたという貴殿の説とは整合しないのではないでしょうか」というコメントをいただいた。

ご質問は「道教とはなんぞや」という本質に関わるものでできれば避けたい論点ではあるが、私の“トンデモ”説をご理解いただくためにポイントとなる要素を含んでいると思われるので、これを機会に私なりの回答を整理しておこうと思う。

道教の定義としてもっとも簡潔なものは「不老長生の現世利益の神仙思想を中心とする宗教」(『渡来の古代史』上田正昭 p.154)というものだろう。
ただ、以前引用した『日本の道教遺跡を歩く』(福永光司・千田稔・高橋徹)からすれば、そうした定義づけでは十分ではないということになるようだ。とはいえ、この本を読んでも、(「道教とは何か」という章が設けてあるにもかかわらず)すっきりとした定義づけを見出すことはできなかった。

あくまで現時点での私の理解という留保付きで道教を定義すれば、「中国古代の祖先や自然を祀る土俗の信仰をベースに、不老長生の仙人を理想とする神仙思想をコアとして老荘思想、儒教、仏教を取り入れながら唐代以降に体系化された宗教」ということになろうか。
コアとなる神仙思想では、秦の始皇帝や漢の武帝のように自然(神)を祀ることで仙人のような不老長生のパワーを獲得する(薬をいただく)という現世利益が信仰動機であったにすぎない(ここまで言い切るのは乱暴かもしれないが....)。もちろん仙人のほうはただ長生きをむさぼっているわけではなく、ちゃんと“道(タオ)”を極める修行を続け、民に道を教え導くためにこそ不老長生を役立てているというストーリーが一方にある。その“道”の部分に、無為自然の老荘思想、儒教、仏教、そしておそらくキリスト教やイスラム教すらも混入してくる余地があった。つまり、どんな宗教の神も預言者も創唱者も道教の神や仙人になってしまえるわけだ。
そして、これら外部宗教との距離の取り方が時代々々で異なるため、「道教」のありようも変容していく。そういう事情が、道教の“すっきりとした”定義づけを困難なものとしているといえよう。

さて、そうした前置きを踏まえて、ご質問の儒教との関係について、『日本の道教遺跡を歩く』からの引用で回答させていただくとすると・・・
儒教と道教とは本来的にははっきりと分けられない部分を多く持ち、卑俗な言葉でいえば、もともと“同じ穴の貉(むじな)”であるという一面を持っています。その証拠に3世紀、魏晋の頃までは儒教もまた道教と呼ばれることがありました。(p.259)
この“同じ穴の貉”について、儒教の重要な経典で周王朝の国家制度を書き残したとされる『周礼(しゅらい)』を例に補足すれば・・・
『周礼』に記す国家レベルの祭祀も、もともとは村々で土俗的に行われていたものです。それを民間レベルから国家レベルに切り替えて、祭祀権を政治権力と結びつけ、これは国君だけしか行うことができないなどと想定したわけです。そして民間の土俗的な祭りの仕方を参考にしながら、大勢の学者がデスクワークで整理粉飾したもの、これが『周礼』であり、儒教の礼典といわれるものです。
古代日本や東アジアの諸国で礼典とよばれている国家的な宗教儀式は、みなここから来ているといえましょう。(p.261)
そして、そうした道教的な要素の大陸から倭国へ流入は、弥生時代から脈々と続けられていたようだが、とくに飛鳥時代になってからは百済・高句麗からの渡来僧や仏教のみならず儒学などを幅広く学んだ留学僧・留学生を媒介者としたため、倭国おいては仏教、儒教、道教の区別なく受容された(例として、前者では推古期に暦・天文地理の書とともに遁甲(とんこう)、方術(仙人の術)をもたらした観勒(かんろく)、後者では中大兄や鎌足に周孔の教えを講義した南淵請安)。
そういう意味において、以前述べたように、斉明朝の記事に現れる「須弥山」の記述は、本来は蓬莱山をイメージしたものをそう呼んでいたとしてもなんら不思議はない。

今回の「皇帝祭祀」にしても、帰朝した遣隋留学組の知識・見聞をもとに皇極女帝が導入したものであろうが、それが儒教をもとにしたものか、道教をもとにしたものかという区別を意識していたとは思えない。
おそらく宝姫王にすれば、それがどういう宗教に由来する儀礼であるかは重要ではなく、まさに中国の皇帝しかできない儀礼であるという点こそが重要であったのだ。

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