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大化改新の方程式(131) 舒明紀を読み解くカギは「大王家vs上宮王家」

今回は前回の続きとして、その冒頭にあげた2つの疑問の2番目、「「新たな皇統の始まりを演出する」という皇極天皇の思想はどこから来たのか?」について語りたい。

即位した年のうちに「皇帝祭祀」としての新嘗祭(11月)や八佾の舞を挙行しているので、皇極天皇こと宝姫王が「新たな皇統」を意識したのは舒明期に遡るとみるのが妥当だろう。少なくともその萌芽はあったにちがいない。

実は、このトピックについては、「蘇我離れ」ではない百済宮・百済寺の建設大化改新の方程式(51))という過去の記事でとりあげている。その一節で私は以下のように記した。
なお、敏達の王統に連なるとはいえ、長い「中継ぎ」の時代をへて誕生した舒明の王統は、人民を大規模に動員するという大唐の皇帝のイメージをかさねあわせることで、「新たな王統」という意識も舒明自身が持ち始めていたかもしれない。少なくとも、皇極はそれをはっきりと意識していた。それは、皇極によって改葬された舒明の陵墓(押坂陵)が八角形墳であり、それが斉明以降、文武まで継承されることに表れているのである。
この記事を書いていたときは「皇帝祭祀」まで思い至らなかったが、陰陽思想や祥瑞(しょうずい)思想に詳しい僧旻、隋唐のさまざまな祭祀を見聞し640年に帰国したばかりの高向玄理(黒麻呂)や南淵請安ら遣隋留学組が語る「皇帝祭祀」の模様が、絶対的な権力で人民に君臨する中国皇帝のパワーをもたらす秘儀として宝姫王の意識に刻まれたとしても不思議はない。

ところで、最近研究者のあいだでは、これまであまり注目されなかった舒明天皇の見直しがすすんでいるという---初めて飛鳥の地に宮を造営したこと、初めて遣唐使を派遣したこと、最初の勅願寺である百済寺を建立したこと、死後になるが大王では初めて八角形墳に埋葬(改葬)されたこと。
ただ、私には疑問なのがその見直しにおいても「大王家vs蘇我本宗家」という解釈軸はそのままであることだ。

舒明こと田村皇子にとっては蘇我本宗家は大王擁立の功労者として感謝こそすれ憎むべき相手ではない。
上で引用した記事で述べているように、舒明朝において対立構図をみるとすれば、「大王家vs上宮王家」であろう。

過去の記事の繰り返しとなるが、今回の論点と関わりがあるので、「大王家vs上宮王家」という解釈軸から舒明の治世を振り返ってみよう。

即位前の推古朝における田村皇子は、最初の遣隋使失敗の反動から「大和改造」に邁進する厩戸皇子(詳細は斑鳩宮造営から始まる“大和改造計画”大化改新の方程式(60))を参照)のそばにあって、そのカリスマ性に強く影響されたにちがいない。
蘇我蝦夷の強力なバックアップがあったとはいえ、その厩戸の息子・山背大兄皇子をおさえて大王の座を獲得した田村が厩戸の後継者として自らを意識したとしても不思議ではない。
それゆえにこそ、彼が即位後すぐに着手したのが遣唐使の派遣だ。
また、飛鳥岡本宮を飛鳥寺とセットでの“王宮&寺院複合施設”と捉えれば、舒明天皇の意識にあったのは、斑鳩宮・斑鳩寺だといえるだろう。

しかしながら、この第1回遣唐使は失敗。唐の答礼使・高表仁は大和入りすることなく倭国を去った。
私は『旧唐書』でいう高表仁と争った“王子”とは山背大兄皇子だと考えているが、冊封なき通交を国是としていた倭国としてみれば、高表仁が冊封にこだわった結果の失敗であれば、交渉を担当した山背大兄の責任を問う声はなかったであろう。
ところが、当時の朝廷にはかつて対隋・対朝鮮外交を成功に導いた厩戸皇子の“伝説”があった。そこでは7年もの歳月を費やした「大和改造」という中国との対等外交のためのエビデンスづくりが功を奏したというヒーロー厩戸の姿が語られていた。それとの対比で、即位早々何のエビデンスづくりもせずに遣唐使を送り出した舒明天皇の準備不足を非難する声があったにちがいない。
そして、その非難の急先鋒が、高表仁との交渉窓口だった山背大兄だと私は考えている(このあたりの事情については、632年のトラウマ(1)大化改新の方程式(70))から始まる4つの記事も参照されたい)。

舒明政権発足の経緯からぎくしゃくしていた田村皇子と上宮王家との間の溝はこれによっていっそう深まったのである。
このあと、飛鳥岡本宮が焼失するという事件がおきているが、おそらく当時これを放火として、その影に上宮王家を疑う声もあったであろう。
山背大兄皇子の叔父でありながら田村皇子擁立をすすめた蘇我蝦夷は大王家と上宮王家の間にあって両家の融和を図ろうと努力した甲斐なく、両者の溝は深まるばかり。敏達直系の長老・大派王が綱紀粛正をもとめる提言に大臣・蝦夷がなんの有効な手立ても講じなかったという舒明8年(636年)7月条の記事は、無力感にさいなまれていた蝦夷の姿を描いたものではないだろうか。

ただ、こうした蘇我蝦夷に失望して舒明天皇が次第に蘇我離れをしていったというのは、穿ちすぎだと私は思う。
蘇我離れの証拠としてあげられるのが、飛鳥岡本宮焼失のあとの宮が飛鳥から遠のいていったこと、百済寺とのセット造営として最終的に宮地と定めた場所が、舒明の祖父・敏達天皇が百済大井宮を営んだ場所であり、推古以前の大王たちにゆかりのある磐余(いわれ)に近い場所であったことだ。
しかしながら、飛鳥岡本宮以降の宮(田中宮や厩坂宮(うまやさかのみや))は飛鳥から離れたとはいえ、どれも蘇我氏の勢力圏内である。また、百済宮・百済寺の造営の責任者は蘇我氏配下のテクノクラート書直県であったことから、蘇我氏の全面的なバックアップなしにはなしえなかったはすだ。

むしろ百済宮・百済寺についていえば、まさにこの造営こそが、舒明天皇が満を持して開始した上宮王家への反撃の第一弾だったのだと私は考えている。
まず、この“王宮&寺院複合施設”は、飛鳥寺に隣接する飛鳥岡本宮造営と同じく、斑鳩を意識したものであったことは明白だ。
また、この複合施設の建設地にしても、大和川を遡って海柘榴市(つばいち)に上陸する外国の使者に対し、その威容を誇示するためにつくったものと解することはできないか。斑鳩寺や飛鳥寺の仏塔をはるかに凌ぐ九重の塔の建設を先行させたことに舒明の意気込みがみえよう。すなわち、第1回遣唐使の失敗を舒明の準備不足のゆえとなじる山背大兄に対して、第2回遣唐使派遣を見据えた対等外交のためのエビデンスづくりに着手したことを宣言したわけだ。

さらに、この複合施設を飛鳥につくらなかったもう1つ単純な理由として、飛鳥の地にはもはや大寺院を建立するスペースがなかったこともあげたい。飛鳥か磐余かという以前の問題だったわけだ。

日本書紀には記録にないが、舒明天皇が香具山での国見をしたことが万葉集に記録されている。
飛鳥に背を向けて行った国見にアンチ蘇我の姿勢を見出すこともできるが、私はむしろ、自らが宮地と定めた飛鳥を背景として、そこから西北にひろがる大和平野を見渡しながら、大王としてしろしめす国土を歌い上げたのではないだろうか。
その視線のずっと先には、山背大兄皇子ら上宮王家が拠る斑鳩があるのである。

コメント

タカラ&ゲンリー

「はぁい、タカラちゃん。お久しぶり~」
「あら、ゲンリーじゃないの」
「なんかさ、ボクがタカラちゃんに教えてあげた『皇帝祭祀』っての? あれ、生徒会長のブログで取り上げられたらしいじゃない。さすが会長、って感じ?」
「今さら遅いけどね。アナタがあたしのブレーンだったってことくらい、ちょっと考えればわかることだと思うけど」
「うふふ。だってボクはタカラちゃんの『永遠の恋人』だし」
「あ、それは違うから。あたし、タイプじゃないから、アンタのこと」
「またまたそんなつれないことばっかり」
「でもさぁ、『近頃舒明天皇の見直しが進んでいる』って、それ、舒明じゃないから。あたしだから。いい? あたしがダンナを動かして、全部やったことだから。そこんとこよろしくね、生徒会長」
「だからそういう押しつけがましいところが嫌われてるんだってば、タカラちゃん。もうちょっと謙虚に、おしとやかにできないの? 大和なでしこなんだからさ」
「謙虚? おしとやか? そんなこと言ってたら二度も即位はできないのよっ! 大変だったんだから! いい? そのあたりわかってんの?」
「あ、ボク、そろそろ失礼しま~す」
「待ちなさいよ、ゲンリー、話は終わってないわよっ!」
ゲンリー、そそくさと去る。

Re: タカラ&ゲンリー

皓月異聞コンビ、久々の登場ですね。

ほんとうはどんなキャラクターだったかはともかく、宝姫王という人はとんでもなくすごい人だったんだとつくづく思います。
飛鳥を掘り返せば、蘇我氏だけでなく、きっと彼女の真実に迫るものもでてくるはず。

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