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大化改新の方程式(132) 飛鳥聖地化に込められた宝姫王の意図

前回展開した内容からすれば、「新たな皇統の始まり」を意識したのは舒明天皇からであったということもできよう。
ただ、その始まりを“演出する”段階まで高めたのは、やはり宝姫王(皇極天皇、重祚して斉明天皇)であったと私は考える。

その理由としては、「皇帝祭祀」の断片として皇極紀に記録されているさまざまな記事の存在(そう読み取るのは私だけかもしれないが)に加えて、皇極天皇として即位後の宝姫王が宮地を再び飛鳥においた事実をあげたい。

通説どおり「大王家vs蘇我本宗家」という解釈軸を皇極紀にもあてはめるなら、皇極の代で宮が飛鳥に戻ったことは、舒明天皇による蘇我離れのシナリオが潰え、とどまるところを知らない蘇我本宗家の権勢に王権が飲み込まれたことを意味しよう。
そこには弱々しい宝姫王の姿しか映らない。

しかしながら、飛鳥に宮を戻すことは、ほかならぬ新大王・宝姫王の強い意志だったというのが私の考えだ。
つまり、新たな王統にとって聖地「飛鳥」が必要だったわけだ。
だからこそ、この地に母親の吉備姫王のみならず亡き夫・舒明の母(糠手姫皇女)も住まわせたのである。舒明に連なる神々が住まう聖なる地の誕生、前々回に使用した言葉を使うなら「飛鳥の高天原化」だ。この2人が「皇祖母」と称されるゆえんもここにある。
(「大王家vs蘇我本宗家」という通説にのっとれば、2人の母親たちは蘇我本宗家の領内に拉致された人質ということになるわけだが・・・)

飛鳥の聖地化という構想を入れ知恵したのは蘇我入鹿だったのかもしれない。たしかに吉備姫王や糠手姫皇女が居所とした飛鳥嶋宮がもとは蘇我馬子の館だったことから、蘇我本宗家の全面的な協力なくして、この「新たな皇統の始まりを演出する」舞台はなしえなかったと言えるからだ。
だが、蘇我本宗家滅亡から10年におよぶ孝徳天皇の治世を経て、宝姫王が大王(斉明天皇)として返り咲いた際、再び飛鳥を宮と定めた事実は、この構想自体が彼女と一体となっていたことの証だと私には思える。

それでは、宝姫王が皇極として着手していた「飛鳥聖地化構想」は、10年を経てどのように進化していたのであろうか。

私の推論では、皇極3年(644年)に蘇我蝦夷・入鹿父子が建てた甘樫丘の上の施設は、初代大王・神武天皇ゆかりの畝傍からみて冬至の太陽が昇る位置に建設したランドマークであったというものだ。そこでは、舒明以前の皇統を代表して神武天皇が飛鳥という聖地、そしてそこに住まう押坂系の大王家を祀っているという構図がある(「天」を祀り「天」として祀られる大王大化改新の方程式(129))を参照)。

これが、“「天」として祀られる大王”という演出だ。
私は上記のように、甘樫丘の上にある施設は蘇我蝦夷の“館”ではないと考えているので(実際の大臣邸は別の場所=甘樫丘麓のエベス谷のあたりか)、乙巳の変で焼失することなく斉明重祚後まで残っていたはずだ。

そして、もう1つ演じるべきが、“「天」を祀る唯一の存在としての大王”である。これは言うまでもなく、歴代の中国皇帝が天子として行っている祭祀すなわち皇帝祭祀そのものだ。
すでに、皇極期において新嘗の儀式を皇帝祭祀として挙行していた宝姫王であったが、雌伏10年のあいだに彼女の構想はさらに発展していたのである。
皇極期のように単に中国の祭祀を真似るのではなく、神仙思想(道教)を取り入れた倭国流(宝流)皇帝祭祀の具体的なプランが、遅くとも白雉4年(653年)までには出来上がっていたとみていいだろう。

宝姫王は、孝徳政権末期には非公式に、そして飛鳥に還都するや公式に、朝鮮3国にそのプランを実行するためのサポートを依頼したにちがいない。
これに呼応したのが、斉明元年・2年(655年・656年)に朝鮮半島から大量に倭国に送り込まれた使節だ。日本書紀は両年とも高句麗、百済、新羅それぞれから調使があったことを記しているが、それといっしょか、あるいは別に、元年には百済150人(7月条)、百済100人(この年条)、新羅から技術者12人(この年条)、2年には高句麗81人(8月条)といったこれまでにない規模の使節団を記録している。

まず、本場中国に勝るとも劣らぬ祭祀場としての円丘を宮の東の丘につくる。その石垣を精緻に積み重ねる作業は、百済や高句麗の山城建築の技術が導入された。もちろん石垣の石を運ぶ運河の建設には倭国の土木技術が惜しみなく投入されたことは言うまでもない。
そして、この円丘から冬至の日の出の方角、多武峰の山頂の一角(おそらく冬野)には「両槻宮」と呼ばれた道観(道教の寺院)を造営。これには、山城建築の技術に加え、道教を積極的にとりいれた高句麗の助言が不可欠だったろう(高句麗における道教については淵蓋蘇文と道教大化改新の方程式(120))を参照されたい)。
さらに、稲淵から南に広がる山地を「神仙世界」とみたて、それと現世との結節点となるべきパワースポットを、皇極期の大丹穗山(おおにほやま)から、より開けた地形にあり景勝地である吉野にもとめたのである。

円丘はともかく、両槻宮と吉野宮の演出は、中国の皇帝祭祀にはないものだ。
両槻宮については皇極時代に甘樫丘の上に造らせたランドマークから着想を得たのであろう。
そして、斉明期でのそれは単なるランドマークではなく、そこにあった両槻を扶桑樹に模すことで、多武峰を蓬莱山としてイメージさせていた。
宝流「対等外交のエビデンスづくり」大化改新の方程式(122))という記事で書いたように、まさに「飛鳥の地に蓬莱山を中心とした神仙世界を現出させる」ことで、「唐が世界の中心なら、倭国も中心」として中国の世界観を相対化することを目論んだのだ。

宝姫王の飛鳥聖地化は、「新たな皇統の始まりを演出する」と同時に、大唐をにらんだ「対等外交のエビデンスづくり」でもあったのである。

コメント

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Re: No title

もちろんです!
ありがとうございます。

東の丘について

舒明・皇極・斉明の治世を再評価する試みにはとても関心を持っています。
斉明のときだけでなく、皇極のときにもスポットライトをあてるれんしさんの論考は興味深いですね。
ところで、れんしさんの以前の記事では「飛鳥宮の東の丘は蓬莱山のレプリカ」といっていましたが、今は「皇帝祭祀用の円丘」ということですが、この2つの関係はどうなっているのでしょうか。ちょっと混乱してきた感があります。
私の理解が甘いのでしょうか。よろしくお願いします。

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Re: 東の丘について

崖っぷちのボニョニョン様

ご返事が遅くなってすみませんでした。

私の議論の進め方が性急すぎたようです。
そのため、混乱させてしまったのだと思います。
そのあたり詳しくは次回、触れさせていただきますね。

引き続きよろしくお願いいたします。

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