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大化改新の方程式(133) 相原嘉之「飛鳥大嘗宮論」

前回の記事中で、宝流「対等外交のエビデンスづくり」大化改新の方程式(122))という少し以前の記事を参照していたが、そこで展開していたのは、千田稔の説をもとにした「飛鳥宮の東の丘は蓬莱山(ほうらいさん)のレプリカ」というストーリーであった。
一方で、直近の私の説の中心は、「飛鳥宮の東の丘は皇帝祭祀用の円丘」となっている。
はたして、読者からのコメントで「この2つはどういう関係にあるのか」という質問をいただいた。

正直にいえば、「蓬莱山のレプリカ」説を展開していたときは、皇帝祭祀は頭になかった。
レプリカの記事に対して梅前様からいただいた指摘をきっかけとして、両槻宮の宮地と推測した冬野(とうの)が飛鳥宮の東の丘(酒船石遺跡)からちょうど冬至の日の出の方角にあることがわかり、調べているうちに中国の皇帝祭祀まで考えがすすんだというのが真相である。
ただ、あまりに先を急ぎ過ぎたため、「蓬莱山のレプリカ」と「皇帝祭祀としての円丘」の関係には触れずにきてしまった。
ご質問をいただいた崖っぷちのボニョニョン様が混乱されたのは当然のことで、あらためてお詫びいたします。

現時点での私の説では、「多武峰を蓬莱山にみたてた」という点は引き続き主張していきたいが、飛鳥宮の東の丘については「皇帝祭祀用の円丘」とするに留めておき、あえて「蓬莱山のレプリカ」とまで言い切る必要はないだろう、と考えている。

ところで、皇帝祭祀に結び付けて飛鳥宮の東の丘を論ずる私のトンデモ説の援軍となる学説が、古代史の専門家によって展開されていたことを最近知った。
それは、『飛鳥大嘗宮論―初期大嘗宮と酒船石遺跡―』(相原嘉之)という論文で、すでに2003年に発表されている。
ネット上からこの論文を入手することはできなかったが、著者による同じテーマの講演を収録した記事が、両槻会(飛鳥好きの人々が集まった非会員性のサークルだが、遺跡めぐりや講演会の報告レポートのレベルの高さは半端ない。古代史ファンの層の厚さを思い知らされる)のサイトに掲載されていたので、無断リンクおよび引用となることをお詫びしつつ、ここで触れておきたい。

記事の全文はこちらをご参照いただきたいが、相原説を端的にまとめたセンテンスがあるので引用しておこう。
斉明天皇の時代に設けられた酒船石遺跡は祭祀を営むための神聖な常設施設であった可能性があります。天武天皇は、この遺跡の一部を大改修し、毎年の新嘗祭を大規模に営む常設の施設として利用していたのではないかと考えられます。
記事に即してこの説のポイントを箇条書きにしてみれば、以下となろう。
・亀形石造物が出土した空間では、湧水をろ過した水を聖なる水として何らかの祭祀を行っていたと思われる。
・その祭祀を考えるうえでヒントとなるのが、天皇家の祭祀として今でも皇室で行われている新嘗祭。
・天皇即位のはじめに行われる新嘗祭を大嘗祭というが、天武天皇は毎年の新嘗祭を大嘗祭並みに盛大に営んでいたらしい。
・大嘗宮は朝堂院に一回限りの臨時施設として設営されるものだが、朝堂院がない(※これには諸説あり)飛鳥宮では宮域の外側に常設されていたと思われる。
・平城宮での初期の大嘗宮をもとに推測すると、この「宮域の外側の常設の施設」は亀形石造物遺跡のエリアに比定できる。
・そのエリアで祭祀を行い(亀形石造物の水は沐浴に使用したようだ)、さらに石垣の階段を登って丘陵の頂部にいたり、そこの石板(酒船石)でも何らかの祭祀が行われたものと考えられる。

講演では亀形石造物のある山裾の大嘗宮での祭祀と丘頂における酒船石での祭祀との具体的な関わりは明確にされていないようだ。
平城宮の事例に則れば、山裾の大嘗宮での祭祀だけで新嘗祭が完結してもよさそうだが、最後のポイントにあるように、相原はそうはみていない。山裾から丘頂へと進行する一連の祭祀をもって天武式新嘗祭という1つのイベントができあがっているとみているわけだ。

そして、私はこの丘頂での祭祀がこの新嘗祭のクライマックスであり、天武の母・宝姫王が創出した皇帝祭祀を継承したものだと考えている。

以前述べたように、もともと新嘗祭は旧暦11月に行われていたもので冬至とは深い関わりがある。
おそらく飛鳥時代よりはるか以前、古代中国で行われていた冬至の儀式が倭国に伝承されていたにちがいない。
中国での儀式は儒家によって格式化され、天帝を祀るのは皇帝のみというように序列化がすすんだが、倭国では収穫祭的な儀式としてひろく民間でも行われていた。
それを本家中国の皇帝祭祀を参考に倭国流のアレンジを加えて「大王家の新嘗祭」として初めて企画したのが皇極期の宝姫王であり、長いインターバルを経てそのための大規模な祭壇を造営するにおよんだのが斉明期の宝姫王だったというのが私の説の根幹だ。

もちろん「飛鳥大嘗宮論」の相原がそこまで説を展開してくれているわけではない。ましてや酒船丘陵の頂部に円丘の祭壇があったと言っているわけでもない。あくまで皇帝祭祀に結びつけるのは、私のトンデモ説の空想域内である。
ただ、酒船石の表面の枝分かれている溝の角度が冬至・夏至の日の出の方向に合致することに注目すれば、ここでの祭祀がそれらと無関係であるとは到底思えない(酒船石復元図が両槻会の記事にあるので参照いただきたい)。

よしんば冬至との関わりを認めるにしろ、「皇帝祭祀」までは疑問だという反論があるだろう。
それに対しては、これまでの私のブログ記事で述べてきたように、宝姫王が「新たな皇統の始まり」を強く意識していたという想定を是とするなら、八角形墳のほかにもなにかしでかしたにちがいないと考えてみてほしい。なにせ興事好きな女帝なのだから。
そのうえで、その“なにか”こそ遣隋留学組の話をヒントに導入した中国式の「皇帝祭祀」であったのだ、という仮説まで踏み込むことは飛躍しすぎであろうか。
冬至の日の出前に丘陵の北裾の大嘗宮で沐浴をすませた大王が石段を登って丘頂にいたり、祭壇におかれた石板(酒船石)の溝の延長上に上る太陽に向かって天帝を拝すという構図は、あながち支離滅裂なイメージではないと思うのだがいかがだろうか。

なお、ここで紹介した両槻会の記事中で酒船石の使い方についての相原の考えが披露されている。
それによれば、石板上の溝に水を流し笹舟を浮かべ、その笹舟がどの窪みに流れ込むかで何らかの占いや祭祀を行ったという。「酒船石の名称は酒に由来するのではなく、笹に由来する笹船石だったかも知れない」というわけだ。
相原が冬至・夏至との関わりで酒船石の用途を解釈する説(この説自体はすでに存在する)についてどう考えているかは残念ながらわからない。

ところでもう1つ、両槻会の記事がとりあげている相原の説に「飛鳥防衛システム構想」がある。
これも私にとってはたいへん示唆に富む内容だったので、回をあらためて言及してみようと思う。

コメント

冬野について

「冬野」が両槻宮である可能性について、両槻会の風人さんからコメントをいただきました。
詳しくは風人さんのブログをご参照くださいませ。

「風の書」 http://asukakaze.blogspot.jp/2016/04/blog-post_13.html#comment-form

実は、両槻会事務局の風人さんは、飛鳥応援大使の先輩なのです。
昨年飛鳥で行われた応援大使交流会でお目にかかり、以来何かとお世話になっています。
そのご縁で、両槻会が発行しているメルマガ「飛鳥遊訪マガジン」に、私の駄文を載せていただけることになりました。
4月29日発行分から不定期で掲載予定ですので、よろしければご購読下さいませ。

Re: 冬野について

梅前様

ありがとうございました。

さっそく両槻会様の過去レポートを拝見させていただきました。

「冬野」が両槻宮である可能性については言及されていないようですが
以下の記事のなかに、現在冬野に建っている電波塔を橘寺付近から
撮ったという写真がでていました。
http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-13/teireikai13-1.html

これが酒船石遺跡の丘の頂部からも眺められるとよいのですが・・・。

また、冬野のあたりは「植林された樹木のために、ほとんど遠望は利きません」
ということなので、ここからは飛鳥のどの範囲が見えるのか、
登ってみてもわからないようです。
http://asuka.huuryuu.com/kiroku/teireikai-19/teireikai19-2.html

風人さんご自身は藤本山が両槻宮だと考えられているようですね。

いずれにしましても貴重な情報をいただきました。
感謝申し上げます。

いつかこの会のウォーキングに参加できるようになりたいですね。

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Re: No title

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