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大化改新の方程式(135) 飛鳥の防衛か、聖地化か

前回の記事からかなり日にちが経ってしまい、申しわけありません。
「酒船石から冬野は望めない」という事実にもかかわらず、なおも命脈ある自称トンデモ説を展開していくべく、連休をあてこんでいましたが、実家の屋根の修理やら急ぎの仕事やらで思うようにいかず、更新がのびのびになってしまいました。
自説が綻びたショックで先にすすめなくなったというわけではありませんので、ご安心ください。


前々回では「両槻会」様の記事を参考にしつつ、相原嘉之の「飛鳥大嘗宮論」についてみてみたが、同じ記事のなかで相原の「飛鳥防衛システム構想」にも言及していた。
これが私の「飛鳥聖地化論」にとってきわめて示唆的であったので、今回はその論文をとりあげてみたい。

『倭京の守り-古代都市 飛鳥の防衛システム構想-』と題したこの論文はネット上から入手可能なので、こちらをご参照いただきたい(明日香村文化財調査研究紀要 pp69-90)。

論文の要点は以下となろう。
倭国の国防システムとしては九州から瀬戸内海にかけての山城や烽火台、および生駒山の高安城が日本書紀に記録されているが、飛鳥京自体を防衛するシステムについては、文献資料からは確認できなかった。
だが、近年の発掘(酒船石遺跡向イ山地区と八釣マキト遺跡)で注目された稜線を巡る掘立柱塀の存在を「一種の羅城的施設」とみなせば、それらと運河・河川、古代寺院、山城、兵庫が有機的に結びついた飛鳥を取り巻く防衛システムが浮かび上がってくる。
そして、このシステムは京の守りよりも飛鳥中心部の宮城の守りを目的としているとみられ、同じことが後の藤原京(新益京)でもいえる――。

ただ、私にはこの塀の敷設目的は、羅城のような物理的な防衛ではなく、飛鳥という聖域と域外とを分かつ観念的な境界、つまり結界を設けることにあったのではないかと思えるのだ。
というのも、上記の相原説では小墾田宮は掘立柱塀の北限の外側に位置することになる。兵庫として利用されていたであろうことが日本書紀の記述からわかるように、当時なお重要な施設であった小墾田宮が掘立柱塀による「防衛ライン」の外側に位置づけられるのは不可解だ。実践的な防衛を意図したものであればラインの内側、あるいは、少なくともライン上に置かれるべきであろう。
掘立柱塀の設置時期については、酒船石遺跡向イ山地区のものは特定できないが、八釣マキト遺跡のものは7世紀中頃から後半の可能性が高いということだ。
飛鳥を囲むように想定される掘立柱塀は、斉明が始め、その息子・天武が引き継いだ「飛鳥聖地化構想」の一貫として捉え直してみることができるのではないだろうか。

また、相原は(前々回にみた記事で触れたように)酒船石遺跡を「祭祀を営むための神聖な常設施設」とみているが、両槻宮については「飛鳥防衛システム」の一貫として山城のような防衛施設を想定しているようだ。
ただ、私には、同じ時期に建設した飛鳥宮の東の丘の施設(酒船石遺跡)と両槻宮は同じ目的、つまり祭祀用と考えたほうが妥当だと思える。
ましてや、両槻宮には道観(道教寺院)があり、「天宮」と呼ばれているのだから。


<追記>
上記には基本的な間違いがあったことが判明し、次の記事にて訂正している。

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