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大化改新の方程式(137) 孝徳天皇難波置き去り事件の謎

宝姫王にかかわる私のトンデモ説は、宝姫王が飛鳥にこだわった理由が大化改新の謎を解くヒントとなる大化改新の方程式(125))と題した正月の記事から始まったわけだが、そこで以下の2つの疑問を提示していた。
1.蘇我蝦夷・入鹿が甘樫丘につくったものはほんとうに山城なのか。
2.なぜ孝徳天皇は中大兄皇子や宝姫王に置き去りにされたとき、山崎(京都府乙訓郡大山崎)に宮をつくろうとしたのか。

私が指摘した宝姫王の“こだわり”なるものを一言でいえば、「飛鳥を聖地化して、そこで倭国流の皇帝祭祀を挙行する」ということだった。
この「飛鳥聖地化構想」は宝姫王が皇極女帝として即位した直後から実行にうつされ、蘇我入鹿がそれを積極的にサポートしたというのが私のストーリーだ。
そして、皇極3年の蘇我父子による甘樫丘の“邸宅建築”の話をその構想の一貫として読み換えるとき、甘樫丘の建造物は聖地「飛鳥」を象徴するランドマークだったというトンデモ説が浮かび上がってきた。つまり、甘樫丘のそれは邸宅でもなければ、山城でもなかったというわけだ。
これが第1の疑問に対する解答である(詳しくは 「天」を祀り「天」として祀られる大王大化改新の方程式(129))を参照されたい)

では、この宝姫王のこだわりが、第2の疑問とどうかかわってくるのだろうか。
ここからは私のトンデモ説の第2ステージとなる。

実は、653年のいわゆる「孝徳天皇難波置き去り事件」については、なぜ山崎に宮をつくろうとしたかという疑問以上に、もっと大きな謎がある。

その謎とは・・・
・この事件の翌年(654年)、第3次遣唐使の派遣と帰朝した第2次遣唐使への授位が行われているので、孝徳政権は引き続き機能していたはずである。とすると、ほんとうに孝徳天皇は“置き去り”にされたのか。
・652年難波長柄豊碕宮(前期難波宮)が堂々完成した翌年にこの事件が発生したが、規模・構造においてそれまでの宮をはるかにしのぐ新都を捨ててまでほんとうに飛鳥に戻ろうとしたのか。

もちろん私の説に従えば、第2の謎を解く糸口はすでにある。すなわち、宝姫王には飛鳥でやり残したことがあったのだ。
では、彼女はそのこだわりのゆえに、飛鳥への“還都”を画策し、孝徳を難波に“置き去り”にしたのであろうか。

おそらく宝姫王の頭のなかでは、そういう意図はなかったと私は思う。
そもそも彼女にとって難波宮造営は遷都ではなく、難波津における外交施設の拡充でしかなかったのではないだろうか。
いわば大王がおわすべき飛鳥の「首都」に対して、難波はあくまで外交儀礼に特化した「副都」であったのである。
もちろんこれは孝徳天皇の思惑とは異なるものだったにちがいないが・・・。

ここで注目したいのが、中大兄皇子(実際には宝姫王)が「飛鳥に戻りたい」と主張したのが、難波宮が完成した翌年であり、そしてまた、23年ぶりの遣唐使を派遣した年であったことだ。

これは何を意味するのか?----次回はこの答えを考えるところから始めてみたい。


<追記>
最後から2行目で当初「15年ぶりの遣唐使」としていたものを訂正しています。

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