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大化改新の方程式(142) なぜ群臣は“興事好き”の前大王に従ったのか

以前の記事(「山碕宮」造営と鎌足大化改新の方程式(139)))に関して、宝姫王と孝徳天皇(軽皇子)とが揉めた理由がわかりにくいというコメントをいただいた。
その際(くだけた表現ではあるが)ポイントをまとめた返信をいれておいたが、姉弟の争点を一言でいえば、「孝徳は姉・宝の飛鳥の聖地化(祭祀都市化)へのこだわりを認識はしていたが、それを実現するために民を大規模に動員する価値をみいださなかった」ということになろう。
孝徳にとっては飛鳥は交野と代替可能な“聖地”でしかなかったのだ。

日本書紀は皇極天皇こと宝姫王について「古道にしたがって政治をした」と評する一方で、孝徳天皇については「仏教を尊重して神道を軽んじた」としている。岩波文庫版『日本書紀』の注釈によれば、ここにいう“神道”とは「民族的な祭祀ほどの意」(4巻 p237)とあるが、宝にとってその祭祀は飛鳥の地で行ってこそ意味があるのだ。
それゆえに、その意味を解さない孝徳は押坂彦人系の皇統(宝と孝徳の父・茅渟王は押坂彦人大兄皇子の息子で、舒明天皇(田村皇子)の異母兄にあたる)であるにもかかわらず、八角形墳には埋葬されなかったのではないか。

私の仮説では、宝姫王は皇極天皇のときから“興事好き”だったのであり、643年の上宮王家滅亡事件の背景には彼女の“興事志向路線”に対する群臣の不満があったとする(「上宮の王等の威名ありて」の意味大化改新の方程式(114)それぞれの乙巳の変~宝姫王の場合大化改新の方程式(115))を参照されたい)。

もしこの仮説が正しいならば、1つの疑問が生じよう。

653年中大兄が「飛鳥に戻りたい」といったとき、人々はその背後にかつて“興事志向路線”で不評を買った宝姫王の意向を容易に悟ったはずだ。
それにもかかわらず、なぜ「公卿大夫・百官たちはことごとく従った」のか?
その後も政権が維持されていたことをみれば、皆が従ったとするのは誇張された表現であろうが、無視できない勢力(おそらく蘇我氏や巨勢氏)が中大兄一派に従ったのはまちがいないだろう。

大和平野に地盤を有する豪族の支持があったのはたしかであろうが、堂々たる王宮が完成し臣下の居住空間が確保されていてもなお有力豪族をして難波京を捨てさせた(主都としての位置づけを認めない)背景を理解するためには、孝徳政権が求心力を失った原因をさぐる必要があろう。
それは、単に山崎に大王を誘う策謀を巡らせている中臣鎌足に対する反発だけではないだろう。
それを理解するのは、やはり孝徳政権の外交事情をあらためて検証する必要があろう。


コメント

山碕

論の途中で失礼します。
「山碕」って、大友皇子が自害した場所ですよね。
孝徳の構想と何か関連があるのでしょうか。
スミマセン、話の腰を折るような質問で。
「それ、あとから言おうと思ってたのに!」ということでしたら
心おきなく無視なさってくださいませ。

Re: 山碕

コメントありがとうございます。
よいところに気づきましたね、と言いたいところですが・・・

私も以前、孝徳の構想というよりは、山崎の地が鎌足のいた三島に近いので、大友は中臣氏を頼って逃げてきたのか、などを考えたのですが、おそらく以下が真相かと思います。

日本書紀によると、大友が自害したのが7月23日です。
実は、そのあとの記述で、飛鳥京での戦いに辛勝した大伴吹負が難波を攻略した後、7月22日に山崎のあたりまで軍をすすめたとあります。
どこに逃れるつもりだったかはわかりませんが、大友は山崎まで来て、そこから大阪方面に向けて陣をはっている反乱軍の光景をみて「もはやこれまで」と覚悟したのだと思います。
ご存知のとおり、山崎の地は京都方面から大阪平野にでる交通の要衝で、かつて豊臣秀吉と明智光秀とか争った天王山があるところです。

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