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大化改新の方程式(149) 乙巳の変の背景(5)~親新羅派の排除

前回、乙巳のクーデターが決行された直接のきっかけとして、古人大兄皇子の朝政参画について論じたが、今回は朝廷内に蔓延してきた親新羅派の排除についてみてみよう。

もちろんこれに関しても日本書紀が具体的にふれている記事はない。
分注で「韓政に因りて」とコメントしているのみだ。
「韓政」の解釈には諸説あり、「緊迫する東アジア情勢への対処をめぐる対立」という獏とした解釈が通説に使いものだと思うが、やはり踏み込んだ回答は提示されていない。

私は、642年の百済・義慈王による旧加耶地域占領への対応をめぐる争いが「韓政」だと考えている。
その政争が「女帝不可」を標榜する親新羅派の弾圧へと発展する矢先、政変が勃発したというものだ。
あくまで状況証拠でしかないが、その根拠は、実は日本書紀が描く三韓進調の記述のなかにある。

三韓進調については、廣瀬憲雄『古代日本外交史』にあった「倭国段階の外交儀礼」のプロセスをもとに、以前の記事で詳しく論じた(「韓政に因りて」の中身(1)大化改新の方程式(107)「韓政に因りて」の中身(2)大化改新の方程式(108)「韓政に因りて」の中身(3)大化改新の方程式(109))が、あらためてその論点をまとめておこう。

廣瀬氏によれば、少なくとも天武期まで行われていたとされる「倭国段階の外交儀礼」では、送迎や饗宴を除けば、
調物の検査→外国の使者による使旨の伝達(使旨伝達の儀礼)→使旨の大王への奏上(使旨奏上の儀礼)→使者への大王の詔の伝達(返詔)
というプロセスをとるが、ここでのポイントは以下だ。
・「使旨伝達の儀礼」では大王は出御しない。つまり使者に大王が対面することはない。
・「使旨奏上の儀礼」では皇太子、大臣などごく限られた近臣のみで奏上が行われる。

もし皇極期における三韓進調もこのプロセスどおりであったとするなら、6月12日入鹿は大王の面前で斬殺されているので、クーデターは「使旨奏上の儀礼」中に実行されたことがわかる。つまり、三韓の使者たちは現場にいなかったのであり、彼らが本物だったのか偽物だったのかという議論自体が成り立たないことになる。
ここまでは廣瀬氏が指摘していることだ(『古代日本外交史』p.152)

さらに私が日本書紀において注目しているのは、クーデター成功後の7月10日の記述だ。
上記のプロセスによれば、すでに6月12日以前において「使旨伝達の儀礼」が終わっているはずなのに、ここで再び「使旨伝達の儀礼」が催されている。
たしかに政権の担い手が一新されたのであらためて儀式をとりおこなったという解釈もなりたつが、百済にとっては本来期待していたものと異なり、あまりに不本意な流れになったことは以下の点から察することができる。
・百済の使者である佐平・縁福が病気で入京せず、2度目となる「使旨伝達の儀礼」を欠席した。
・大王からの「返詔」のなかで、百済が担うべき“任那”の調の不足を厳しく糾弾されている。
・そもそも1度目の「使旨伝達の儀礼」以前に調物の検査はクリアしていたはず。

したがって、裏を返せば、クーデターが起きなければ、倭国と百済の間でなんらかの手打ちが行われただろうということだ。
それまで百済のしたたかな外交に翻弄されていた皇極政権が“任那”問題で妥協案を提示し、百済からもなんらかの歩み寄りを期待していたであろう。事前の根回しも十分になされていたにちがいない。だからこそ、643年の智積に続き、再び佐平という最高位の人物を呼びつけたのではなかったか。

一方、この妥協案が公けになれば、皇極政権の外交を弱腰と非難する勢力からのさらなる反発は必至であったろう。
とすれば、この外交路線を貫くために女帝と入鹿は、三韓進調と前後して批判勢力の一掃を画策していたとしても不思議ではない。
そして、この掃討作戦のターゲットは、朝廷内で強まる百済への不信感に便乗して勢力を拡大している親新羅派であったにちがいない。もちろんその筆頭は、「女帝不可」の提唱者でもある高向黒麻呂であったろう。(以前の記事では、このとき反義慈王的言動で“悪さばかりしている”塞上の本国送還も行う予定であったとしたが、現時点でのストーリーではあまり重要なポイントではなくなっている)
黒麻呂の排除は、親新羅派の一掃だけでなく、彼が思想的指導者として参画している軽皇子のグループに痛烈な打撃を与えることにもなり、皇極女帝にとってまさに一石二鳥のプランであったといえる。

そのような状況のなかで、軽皇子たちに残された手段はきわめて限られていたのである。

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