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大化改新の方程式(150) 乙巳の変の背景(6)~親新羅政権の誕生

日本書紀の分注「韓政に因りて」を根拠に外交上の対立が乙巳の変の引き金がであったとする説には、642年の皇極女帝誕生から663年の白村江敗戦までの流れをどうみるかによってさまざまなパターンがある。
森公章氏はそれらを以下のようにまとめている。
A 親百済派(蘇我氏) 対 親新羅・唐方式(改新派)との対立から、改新派が親百済方式に転換した。
B 百済の旧伽耶地域奪回に伴い、「任那調」に固執する蘇我氏と、それを放棄して半島情勢に介入せず、百済・新羅双方の朝貢維持を図る中大兄一派が抗争し、後に百済に引きずられる形で白村江戦への道に至る。
C 一貫して百済支持の朝廷 対 これに反対する蘇我本宗家という構図があった。
D 新羅に直接行動を起こして属国化を図る入鹿の「韓政」に対して、改新派は百済を属国とし、新羅との宿怨を棄て、高句麗とも修好を確認して、三国を導く大国の立場で唐に対峙しようとした。(『天智天皇』pp.60-61)
これに対して森氏は、「伽耶諸国滅亡後から、とくに推古朝以来続く、朝鮮三国に対する等距離外交」の基調は、乙巳の変前後に変化はみられないとして、分注「韓政に因りて」に乙巳の変の原因を求める見方を退けている(同p61)。

これまで展開してきた私の解釈は、上記A~Dのいずれの類型とも異なる。ましてや外交的対立を重視しない森氏の立場とも相容れない。

前回状況証拠としてあげたように、皇極女帝と蘇我入鹿は“任那”問題で百済となんらかの手打ちを行う用意があった。しかるに乙巳の変はそれをチャラにしてしまった。
さらに想像をたくましくすれば、チャラにしただけではない。倭国の外交路線を親新羅へと転換しているのだ。

注目すべきは、クーデター直後の7月10日の記事で高句麗、百済、新羅の遣使に触れているのに、大王の詔の伝達(返詔)については、高句麗と百済しか登場していないことだ。あったはずの新羅への返詔が記されていないのは、日本書紀編纂の過程でばっさりと削除されてしまっているからではないだろうか。
書紀編纂時の統一新羅との関係を考えれば、正史として不都合な真実とは、大化政権発足時に「新羅を貢納国として扱っていない詔」が出されたという記録だろう(これについては、「韓政に因りて」の中身(2)大化改新の方程式(108)も参照されたい)。

翻弄されながらも百済との関係にこだわる皇極・蘇我本宗家と、「女帝不可」を標榜しながら新羅寄りの外交路線変更を画策する軽皇子一派の対立が乙巳の変の背景だったことは、日本書紀の記録の行間に隠されていたのである。

では、同じく外交上の対立を乙巳の変の引き金とみる上記のA~Dについてはどうであろうか。

まずはじめに確認しておきたいことは、乙巳の変から白村江までの外交路線の理解を複雑にしているのは、クーデターからずっと中大兄皇子と中臣鎌足が政権の主導権を握っていたという先入観ゆえだという点だ。
この解釈には、無謀な百済出兵へとつきすすむ彼らは、もともと親百済だったのか、それともどこかで方針変更をしたのか、という問いが常につきまとうことになる。
Aは後者の立場であり、Cは前者の立場といえよう。
また、“属国化”をキーワードとするDについては、それが対外戦略上の選択肢として登場したのは、あくまで百済滅亡後、百済遺民軍から倭国在住の百済王子・豊璋の帰国要請を受けてからであろう。それ以前の外交路線を語るフレーズとしてはふさわしくない。

おそらく私の見方に近いのはBで、「百済の旧伽耶地域奪回に伴い、「任那調」に固執する蘇我氏」という位置づけは同じだ。ただ、その蘇我氏と争ったのはあくまで親新羅の軽皇子一派であり、「白村江戦への道」を歩むのは軽皇子(孝徳天皇)を否定して再登場した宝姫王(斉明天皇)だという点が私の描くストーリーと異なっている。

それでは、大化政権での親新羅の内実とはどのようなものであったのだろうか。
次回からさらに詳しくみていきたい。

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