FC2ブログ

大化改新の方程式(153) 聖徳太子は聖人君子にあらず

本来のテーマから脱線してしまうが、前回の記事を受けて聖徳太子の話をしたい。

以前、聖徳太子すなわち厩戸皇子の話を展開した際(兄の面子、弟たちの悲劇 大化改新の方程式(59))、知人から「れんしさんは聖徳太子のことをよく思っていないでしょう」と言われた。
もともと歴史上の「聖人」「悪人」の人物評は疑ってかかる性分ではあるが、聖徳太子はまさにその代表格で、彼の偉業を「聖人」とか「求道者」とかの色眼鏡で解釈するのは間違いなのではないかと思っている。ただ、「よく思っていない」のではなく、むしろ私が想像するような生の姿の「聖徳太子」こそ好感がもてる。
もちろん、聖徳太子非実在論の大山誠一氏のように「斑鳩あたりに厩戸皇子なる有力王族がいて寺院を建立したということ以外は虚構」などとは思っていない。日本書紀が記したような推古朝での一大変革事業に積極的にかかわった偉大なる「政治家」がそこにいたのは、以下に示すように明らかだと考えている。

聖徳太子がかかわったであろう出来事を「聖人」眼鏡で見るとき、もっとも解釈に困るのは、602年から603年にかけて企てられた新羅征討のエピソードだろう。彼の同母弟・来目皇子、その急逝後、異母弟・当麻皇子が将軍として臨んだ遠征だ。どう転んでも、太子がこの興兵と無関係とはいえない。
「戦を好まない聖人」説にたてば、これは日本書紀編纂時の虚構であるという解釈が一番シンプルだ。だが、何のためにそんな話をでっちあげたのか理由がつかないし、わざわざ弟たちを登場させる必要もないだろう。これを事実と認めたうえで、「もともと新羅を攻めるつもりはなかった、ただ軍隊を九州に集結しただけ」という解釈もある。とはいえ、戦端は開かれなかったにしろ、新羅を武力でもって恐喝しているのであるから、あまり「聖人」らしくない。さらには、朝廷内の主戦派の思惑どおりに事を運ばせないためにわざと身内を将軍に起用した、という説まで登場している。

やはり、ここは無理をせず、聖徳太子が積極的に興兵を主導したとみるべきであろう。

以前私は、この興兵を600年の第1回遣隋使の失敗(隋皇帝に「あんたらの政治のやりかたは無茶苦茶やな」と言われたこと)を受け、内外の批判をかわすために興した軍事行動とみたが(百済・高句麗と連携した新羅遠征の目的 大化改新の方程式(58))、前回の説をもとにすれば、そうした面子の問題ではなく、より実利的な側面がみえてくる。

すなわち、600年の屈辱をバネに“大和改造計画”を推進するにあたり、見込まれる膨大な量の金銀銅を手当てするため、弟たちを将軍とした新羅恐喝軍を興したのだ、と。
このことは、厩戸皇子が“大和改造計画”に深くコミットしていた証左であろう。決して朝廷中枢から距離をおいて寺院建立に勤しんでいる一王族であったというわけではない。

この興兵は高句麗、百済と連携してのオペレーションだったらしい。また、朝鮮の史書『三国遺事』によれば、このとき倭国が攻めてくるという噂があったようだ(『東アジアの動乱と倭国』森公章 p.214)。賄賂を使ってわざと倭国の軍船を派遣させ倭国の目論見をくじいた623年のケースとはえらいちがいだ。厩戸皇子の本気度は半端ないものだったにちがいない。

いずれにしても、ここで浮かび上がる人物像に「聖人」とか「求道者」とかの面影は見当たらない。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)