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大化改新の方程式(155) 舒明と蝦夷

天智天皇の生年が通説どおり626年(推古34年)とすれば、舒明すなわち田村皇子と宝姫王との婚姻は、存命中の蘇我馬子(626年没)や推古女帝(628年没)の意向にそったものであったはずだ。
一方、山背大兄皇子が大王の息子でないにもかかわらず「大兄」と呼ばれていた(王族では)唯一の例外であることから、少なくとも田村皇子と宝姫王との婚姻までは上宮王家が新たな王統とみなされていたとみるべきであろう。
とすれば、厩戸皇子(聖徳太子)の晩年、あるいはその死後早い時期に、蘇我馬子にとって上宮王家を見限る事態が出来したと推測できよう。その事態がなんであったかは不明だが、前回見たような上宮王家への警戒心が飛鳥朝廷中枢で醸成されていたことが背景にあったからこそ、王統をチェンジさせるほど意向が働いたものといえよう。

いずれにしても山背大兄皇子と田村皇子の王位継承争いにおいて、蘇我蝦夷が田村を推したのは、馬子の遺志をくんだものであったにちがいない。

これまで何度も触れてきたことだが(たとえば、舒明紀を読み解くカギは「大王家vs上宮王家」 大化改新の方程式(131))、舒明期を解く鍵となる構図は、「大王家(押坂家)vs蘇我本宗家」ではなく、「大王家(押坂家)vs上宮王家」であると私は考えている。そこでは、蘇我本宗家(蝦夷)は大臣として大王側に立ちつつも、両家の調停に腐心していたとみるほうが真実に近いのではないだろうか。

もちろん「大王家(押坂家)vs蘇我本宗家」がポイントだとする立場でも、舒明天皇誕生の経緯、そして初めて飛鳥入りした大王という事実から、当初は舒明と蝦夷との関係は良好だったとみるのが通説で、舒明8年(636年)の飛鳥岡本宮焼失事件を契機にぎくしゃくした関係になったとする。

両者の間に隔たりが存在した証拠としてあげられるのが、次の3つであろう。
1. 事件の翌月に王家の重鎮である大派皇子が大臣・蝦夷に綱紀粛正を訴えたが無視された。
2. 飛鳥岡本宮焼失後に飛鳥の地から離れるように、3回も遷宮している。
3. 3回目の遷宮では、舒明の祖父にして非蘇我系の大王・敏達天皇がかつて王宮を営んだ地に宮とセットで最初の官寺たる百済大寺を建立した。

これらに対する私の考えの前提としては、舒明8年の段階ですでに大王家(押坂家)と上宮王家との確執は深刻な事態に発展していたというものだ。
舒明すなわち田村皇子との王位継承争いに敗れた遺恨に加えて、舒明朝発足早々に実施した遣唐使の失敗(『旧唐書』にいう唐使・高表仁と礼を争った「王子」とは、山背大兄皇子だと私は考えている)の責任のなすりつけ合いが背景にあったものと考えている。

そうした文脈から日本書紀をあらためて読むと、飛鳥岡本宮焼失事件の直前に采女を犯した嫌疑で三輪小鷦鷯が自殺している記事があることに着目したい。
後年、蘇我入鹿によって斑鳩が急襲された際、上宮王家に最期まで仕えた忠臣に三輪文屋がいるが、彼は小鷦鷯の息子で、この文屋の孫に壬申の乱で天武側で活躍した657年生まれの三輪高市麻呂がいる。
この系図が正しければ、636年に自殺した小鷦鷯は若気のいたりでつい采女に手を出したという年齢ではなかったはずだ。

ここからはフィクションの世界だが、小鷦鷯は上宮王家の意向を受け采女の1人をとりこみ舒明の毒殺を謀ったが失敗。采女に手をつけたという罪を装って自死。さらに証拠隠滅をはかるためか、あるいは暗殺の第二弾か、大王宮に放火した----。

これが真実かどうかはともかく、当時、少なくとも宮焼失については上宮王家の関与を疑う声があったのではないだろうか。
両家の不和の調停役であった大臣・蘇我蝦夷の気の毒なほどに憔悴しきった姿が目に浮かぶ。
そんな時期に、しかも急ごしらえの王宮において、不穏な空気を感じて朝参もままならない臣下たちを見兼ねて、「みんな弛んでる、なんとかせいっ」と言われても、蝦夷にすれば「それどころではない」という気分だったにちがいない。

先にあげた「大王家と蘇我本宗家の間に隔たりが存在した証拠」のうち、3の百済大宮と百済大寺という王宮・寺院セットでの建立は、大匠(工事責任者)に任じられたのは蘇我氏配下の渡来人系氏族であることを考えると、蘇我本宗家のバックアップなくしてできないことは明白だ。
また、飛鳥を出てこの地を選んだのには、たしかに祖父・敏達ゆかりの地であるということもさることながら、以下のような理由も考えられよう。
・大掛かりな複合施設をつくる土地は飛鳥にはもはや残されていない。
・法興寺(飛鳥寺)をはるかに凌ぐ寺院をその隣接地に建立するのははばかれる。
・中国や朝鮮の使いが下船する海柘榴市(つばいち)に近いところにつくって使節の度肝をぬく。

飛鳥岡本宮焼失後、飛鳥から離れて王宮を転々としたことについても、最初の田中宮は蘇我氏の勢力圏内だ。厩坂宮への遷宮も、すでに百済大宮・百済大寺の計画が発表された後のことだから、行宮(かりみや)であったとみるのが正しいだろう。

以上のように、舒明天皇と蝦夷大臣、すなわち大王家と蘇我本宗家の蜜月は、基本的に舒明期をとおして維持されていたといえよう。
誤解を承知でいえば、舒明期のみならず飛鳥時代全般において蘇我氏の飛鳥へのこだわりを強調するのはミスリーディングだと私は思う。
飛鳥へのこだわりをもってその思想と行動を語るとすれば、それは蘇我氏ではなく、皇極であり斉明である宝姫王であろう。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

確かに

采女を犯して自殺した小鷦鷯が、高市麻呂の曾祖父だったとするなら、636年当時、どんなに若く見積もっても彼は40歳にはなっていたはずで、確かに「若気の至り」ではなかった可能性が高いですね。
けれども彼の自殺は3月、大宮焼失は6月ですので、証拠隠滅ではないでしょう。
いずれにせよ、押坂王家と上宮王家の対立があったとする説には大賛成です。

それにしても、「采女を犯す」ってのは大変な罪だったんですね。
中大兄、よく無事だったなぁ……。

Re: 確かに

うめりんさん、コメントありがとうございます。

> それにしても、「采女を犯す」ってのは大変な罪だったんですね。
> 中大兄、よく無事だったなぁ……。

それを考えると、孝徳天皇には実権がなかったとする見方に軍配があがっちゃうんですよね。
『皓月』のなかで、「いま中大兄がいなくなると困るから大目に見ろ」なんて、みんなに言われた軽皇子はなんだか可哀そうでした。
まあ、くだんの采女の顔も名前も知らないんじゃ、同情の余地なしではありますが…。

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