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大化改新の方程式(156) 小山田古墳はだれの墓だったか

前回展開した「舒明天皇と蝦夷大臣、すなわち大王家と蘇我本宗家の蜜月は、基本的に舒明期をとおして維持されていた」という私説を前提にして、今話題の小山田古墳の被葬者をめぐる議論に私なりの見解を投じておきたい。

小山田古墳の比定地については、舒明天皇の初葬陵である滑谷岡(なめはざまのおか)とする説と蘇我蝦夷が生前に造営した「大陵(おおみささぎ)」とする説で割れている。

舒明初葬陵説では、古墳の規模が最高権力者にふさわしい点、改葬後の段ノ塚古墳との共通性がみとめられる点を主張するのに対し、蝦夷大陵説では比定地が蘇我氏の勢力圏内である点、蘇我氏が大王を凌駕する実質的な権力者であった点、隣接する菖蒲池古墳が「大陵」とセットとなる入鹿の「小陵」であったとみると辻褄が合う点、また、造営後まもなく掘割の埋没による整地がみとめられるのは正史上の蘇我本宗家の評価に附合している点が根拠としてあげられている。
段ノ塚古墳と類似することから、舒明天皇の初葬陵との見解が示されていますが、甘樫丘南端に位置することや規模が大きいこと、さらには7世紀後半には古墳を削平して、2次利用されている可能性があることから、筆者は小山田遺跡が蘇我蝦夷の大陵、菖蒲池古墳が蘇我入鹿の小陵と推定しています。(「発掘された飛鳥・藤原京」 相原嘉之 p.226 『ここまでわかった飛鳥・藤原京』 豊島直博・木下正史編)
蝦夷大陵説の場合、舒明が自らの陵墓を飛鳥の地にもとめなかったのは、少なくとも舒明期後半において大王と蝦夷との間に溝ができていたという解釈になるであろうから、両者の関係は終始良好だったとみる私の考えとはその前提から異なっている。

ここで私見の前提として、さらに以下の2点をあげておきたい。
・舒明と蝦夷との関係を引き継ぎ、皇極期においても蘇我本宗家(入鹿)は大王家(宝姫王)と良好な関係を維持した。
・日本書紀の皇極紀において蘇我蝦夷・入鹿の名の下で行われたと記述されることが、実は宝姫王の“興事”の一貫であった。(それぞれの乙巳の変~宝姫王の場合 大化改新の方程式(115)

以上から、私見では、小山田遺跡は舒明天皇の初葬陵であってなんら問題はない、ということになる。むしろ、飛鳥に招いた最初の大王だからこそ、そこに陵墓を造営したのだとさえ言えよう。

さらに加えれば、私は菖蒲池古墳が蘇我蝦夷の墓だと考えている。

実は、私が「小山田古墳=大陵=蝦夷の墓、菖蒲池古墳=小陵=入鹿の墓」という考えに与しえないのは、大王家と押坂家の関係は良好だったか否かという背景の違いだけからではない。
先ごろ明らかにされた小山田古墳の規模は一辺70m。一方菖蒲池古墳は30mだ。
これが確定値だとするなら、蝦夷大陵説では、入鹿の墓は蝦夷のそれとは、辺長で半分以下、面積にしたら5分の1以下となる。
権力の絶頂期にある親子が生前から造営したとするには、あまりに差が大きすぎないだろうか。
私が蝦夷なら、前途洋々たる息子の墓に自分の5分の1に満たない墓をつくりはしない。あるいは、この差は息子からの申し出だったということもできるが、翌年蝦夷の意向に逆らってまで上宮王家を攻め滅ぼすほどの入鹿がここまで父親におべっかをつかうというのも想像しがたい。

私のストーリーでは以下のようになる。
生前の舒明と蝦夷双方の合意のもと飛鳥の地にはいった最初の大王としてその地に陵墓を造営したのが小山田古墳。蝦夷がその傍らにそれよりも規模の小さい自らの墓をつくったのが菖蒲池古墳。舒明に従う忠臣として死後も仕えるためだ。
両墓の造営が同時にすすめられたのは、病気がちだった蝦夷が余命短いことを悟ったことがあるかもしれない。あるいはまた、日本書紀が書くように、「同時に墓をつくればそれだけ民の労役を軽減することができる」との配慮もあったであろう。
そして、乙巳の変後、墓に葬ることが許された蘇我父子の遺体は、完成していた蝦夷の墓にともに埋葬された----。
後世、入鹿誅滅物語が形成される過程で、この同時進行で造営された墳墓が蝦夷・入鹿親子の不遜な行いの象徴として語られるようになったわけだ。

ではなぜ、そこまで忠臣ぶりを後世に残そうとした蝦夷の生前、しかも小山田の墳墓完成から1年もたたないうちに、舒明の墓は移転させられたのだろうか。
工期を考えれば、段ノ塚古墳のある忍坂の地への移転は、小山田の墳墓完成前から計画されていたにちがいない。

そこには、皇極女帝こと宝姫王の意向が反映していたものと思う。
おそらく彼女の新王統の宣言と飛鳥の聖地化という青写真のなかでは、八角形墳として舒明の陵墓を造り直すこと、そして、飛鳥の外に陵墓を出すことが構想されていたのではないだろうか。
もちろん、単に飛鳥の外に出すのではない。
舒明、そして将来自ら眠る墳墓の位置も、飛鳥を中心に割り出していたはずだ。

奇しくも舒明の改葬後の段ノ塚古墳の位置から冬至の太陽が沈む位置に甘樫丘がある。
さらにそれを延長したところに、宝姫王が葬られたとされる越智丘陵。
斉明として宝姫王がその地に埋葬されるのは死後数年を経過してからだが、早い時期から直径2㎞におよぶ円丘たる越智丘陵への埋葬を指示していたにちがいない。

押坂王家の本貫地・忍坂の地と飛鳥との位置関係、そして以前述べたように、皇祖・彦火火出見(ひこほほでみ)=神武天皇が眠る畝傍の地と飛鳥との位置関係(「天」を祀り「天」として祀られる大王 大化改新の方程式(129))は、宝姫王に祭祀空間としての王都建設のインスピレーションを与えたのではないだろうか。彼女が飛鳥にこだわるのは、そこが新王朝の聖地を演出するのにふさわしい場所であったからにほかならない。
聖地・飛鳥という舞台づくりの最初の“興事”が、亡き夫の陵墓の改変(八角形墳)と改葬(忍坂地への移転)であったのだ。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

小陵は

小山田古墳=舒明初葬墓
菖蒲池古墳=蝦夷墓(大陵)

そうなると小陵は?
小陵はどこっすか?

「そこは変わらず小山田古墳が大陵、菖蒲池古墳が小陵」なんて言ったら
おばちゃん怒るからね(笑)

Re: 小陵は

梅前さま、ごもっともなご意見ありがとうございます。
私の説明不足は否めないようです。

(さらに怒りを買うかもしれませんが…)
小山田古墳が大陵、菖蒲池古墳が小陵----そのとおりであって、そのとおりじゃないんです。

つまり、日本書紀あるいはそのもとになったかもしれない入鹿誅滅物語のなかでは、たしかに「大陵」「小陵」はそれぞれ小山田古墳、菖蒲池古墳に相当するものです。
しかしながら、642年当時そう呼ばれていたわけではありません。当時の人々は、小山田(当時は滑谷岡)に造営している陵墓は舒明の墓、傍らの墓は蝦夷の墓だと認識していたわけですから。
日本書紀の編集方針が固まっていく過程で、あるいは、そのもとになった入鹿誅滅物語があったとするならそれにさまざまな尾ひれがついていく過程で、悪役・蘇我父子について「そういえば、当時蝦夷と入鹿は民を総動員して自分たちの墓をつくっていたよね」「そうそう、なんでも大陵、小陵と呼んでたそうじゃないか」という脚色がなされていったと私は考えています。

当時はこの2つの墓だけでなく、おそらく忍坂の地で新たな陵墓(段ノ塚古墳)の造営も始まり、さらに板蓋宮の建設や百済大寺の再建にも着手、造船の指示でもでています。
まさに世は“興事”ラッシュの様相を呈していたのではないでしょうか。
その陣頭指揮は、蘇我本宗家の御曹司・入鹿でしょう。
民の怨嗟の声は当然、彼に向いていた部分もあったはずで、これが後世、悪役・蘇我氏のイメージをつくりやすい下地となったのだと思うのです。

橿原市埋蔵文化財調査報告

橿原市埋蔵文化財調査報告書に、「菖蒲池古墳は、墳丘自体は一辺30m と当該期の古墳としてはごく一般的な古墳といえるが、付属施設を含めると東西67 ~ 90 m、南北82m という墓域の規模は、7世紀中頃の古墳としては破格の規模」とあります。
たんに古墳の1辺の長さの比較だけで、小山田古墳との規模のちがいをいうのはどうかと思います。
れんしさんは、この「破格の規模」についてはどうお考えですか。

Re: 橿原市埋蔵文化財調査報告

高向武方様

コメントありがとうございます。
ご返事が遅くなりましてすみません。

実は、この週末に、くだんの小山田古墳、菖蒲池古墳を含めた飛鳥周辺の終末期古墳をめぐる両槻会様のツアーがあり、参加してきたところです。
恥ずかしながら、めぐった古墳すべてが初めて実物を拝ませていただくものばかりで(40年以上も前に中学の修学旅行で柿の葉寿司を頬張りながら見たものがあったかもしれませんが…)、私の頭のなかにそれぞれの位置関係をリアルにインプットすることができたという意味で、たいへん有意義かつ充実したツアーでした。

ただ、さすがに高向武方様からの質問にお答えできるような知見を得るところまでは至りませんでした。ここで未熟な知識をもとに取り繕っておいても、必ずや考古学的ボディブローをくらうことになるだけですので、私からの回答は保留とさせていただきます。

ご質問の趣旨は理解しましたので、さらに知見を深めたうえで満足のいく回答を提示することをお約束いたします。

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