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大化改新の方程式(158) 倭国が認識していた半島外交上のアドバンテージ

知ってのとおり、(ヤマト政権としての)倭国への先進文化の供給元は百済であった。
おそらくヤマトと百済との国レベルの関係が始まったのは4世紀の仲哀天皇&神功皇后の時代で、先進諸国連合・九州の平定に不可欠な先進武器(伽耶の高度な鉄製武器)を大量に調達したい後進国・ヤマトと、お粗末な武器ながら勇猛な戦闘集団たるヤマトの兵団を傭兵として渡海させ高句麗の南下を防ぎたい百済の利害が一致した、ということではなかったか。

それ以来、地理的関係から新羅と比べて中国文化を受容しやすい百済は、倭国にとって先進文化(漢字や儒教、仏教、そのほか大陸文明の利器や技術、およびそれらを担う人材)の導入には不可欠な隣人であった。
逆に、資源に恵まれない百済とっては、ときに大国・高句麗の侵攻を食い止めるため、ときに伽耶諸国への影響力を強化するため、ときに新興国・新羅に対抗するため、先進文化提供とのバーターによって倭国と良好な関係を保つことは、対中国外交と並ぶ最重要課題であったはずだ。

こうして、伽耶諸国が新羅に併合された6世紀半ば以降とくに、文化的には百済に劣る新羅からは「鉄素材や金銀銅の鉱物資源」、一方、地下資源に乏しい百済からは「中国大陸・朝鮮半島の先進文化」をそれぞれ導入する構図がずっと続いてきた。

そして、倭国は意識してこの構図の維持を図ってきたものと私は思う。

地政学的にみれば、(大陸側を前面とすれば)半島の背後に位置する倭国とっては、百済と新羅、どちらか一方が勢力を拡大するよりは、互いに拮抗して争い続けるほうが都合がよい。逆に、百済や新羅にすれば、互いを牽制するために倭国とは一定の関係を保ち続けなければならない------こうした半島外交上有利なポジションについては、倭国朝廷は十分認識していたはずだ。
そして、そのアドバンテージをもとに、倭国の発展にとって必要不可欠な2つの要素―「鉄素材や金銀銅の鉱物資源の獲得」と「中国大陸・朝鮮半島の先進文化の導入」の確保・拡充を図ってきたのではなかったか。

森公章氏は推古朝以来の外交姿勢を「朝鮮三国に対する等距離外交」と定義したが、それを明確な方針が定まらないがゆえに半島情勢にコミットできない未熟な外交姿勢に起因するものとするのであれば、それはまちがいであろう。
それは、やがて訪れる白村江の敗北を、以前から存在した倭国の外交音痴にもとめる予定調和的な思考でしかない。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

資源財

身辺繁多にかこつけ、大変ご無沙汰してしまった。お詫び申し上げたい。

さて、今回の貴殿の論旨としては、倭国は資源財と文化の安定的な供給のため、半島において百済と新羅が拮抗して存在しつづけることを期待しており、一方の百済と新羅も、背後の倭国とは一定の関係を続けざるを得ない状況にあり、倭国はそれを外交上の「アドバンテージ」と認識していた、ということでいいだろうか。

しかし、鉄資源に関しては、小丸遺跡にみられるように、倭国ではかなり古くから鉄生産が行われており、7世紀に至る段階ではそれはかなりの産出量をみていたのではなかろうか。
金銀銅に関しては、それが本当に倭国にとって外交姿勢を左右するほどの重みをもつものであったかについて疑念が残る。

貴殿は以前、「古代史の謎は「鉄」だけでは解けない」の中で、

金銀銅の需要を高らしめたのは、仏教文化の流入および冠位制度の採用である。すなわち、6世紀末から、造寺や造仏、そして冠位制度の整備による冠や礼服の装飾において、倭国では産しない金銀銅の半島依存度は急激に高まったにちがいない。そして、(鉱物学的には当然のことかもしれないが)面白いことに、同じ朝鮮半島でも、鉄と同じく金銀銅は百済には乏しく、伽耶、新羅、さらに高句麗に偏在していた。

と書いておられるが、冠位を示す「装飾品」としての金銀銅が、どれだけの質量をもって倭国外交に作用したか、はなはだ疑問である。
(もうひとつ、「金銀銅は百済には乏しく、伽耶、新羅、さらに高句麗に偏在していた」という説の根拠はどこにあるのか、ご教示いただけるとありがたい)

文化の流入に関しても、小野妹子遣隋の頃とは異なり、すでにかなりの知識が持ち帰られており、「何が何でも」という状況にはなかったと思われる。

従って、百済と新羅が背後の倭国に対し「一定の関係を保ちづつけなければならない」という状況はあったとしても、倭国が韓半島において指標とするものはすでに過去のものになっていたと言っていいのではないだろうか。
少なくとも「鉄」は倭国内で供給可能となっていた。だからこそ646年の高向玄理による任那放棄が可能だった。私はそう考えている。

Re: 資源財

大黒丸様、お久しぶりです。
またまた一番弱いところを突いてきましたね。

今回は悪あがきをせず、正直に回答するしかありません。
というのも、実はここ数回の私の議論には、ネタになった論文があるのです。
羅幸柱氏による「倭王権と韓半島諸国の交渉 - 「質」と「任那の調」を中心に -」という論文です。
ただこれは博士論文で、しかもその学位審査報告にある審査趣旨を入手し読んだものだったので、論拠としてあげていませんでした。
このまま素通りする予定でしたが、さすがに付け焼き刃は見透かされてしまいました。

審査趣旨を読むかぎり、また、私の議論に関連した部分だけにかぎって羅氏の主張をまとめれば、以下のようになります。

「任那の調」は小中華主義における主従関係の問題とは切り離し、倭国が南部伽耶地域に依存してきた先進的な物的資源の喪失を回復しようとした「国家プロジェクト」としてとらえるべき。とくに、推古朝以降では旧伽耶地域や新羅で多く産出する金銀銅の調達が、造寺・造仏、造宮、冠位衣服制の整備のため倭国にとって重要課題となっていた。一方で、鉱物資源が豊富でない百済に対しては、さまざまな先進文化の提供を要請している。それが百済から倭国への「質」の実体であって、「質」に随伴して派遣される博士、僧、技術者によって中国や朝鮮の先進文化の導入が図られたのである----。

審査趣旨に「現在、『日本書紀』にのみ伝えられる「任那の調」については、主として日本側研究者の肯定説と韓国側研究者の否定説とに分かれているが、論者は後者の否定説をそのまま受け入れることなく、「任那の調」と伝えられる何かが存在したとみる」とあるように、基本的には任那否定説をベースにしたものなので、いろいろと議論はあるでしょうが、私にとっては極めて示唆に富む内容で、いずれ全文を手に入れたいと思っています。(国会図書館で入手できるようです)

というわけで、大黒丸様のご質問には、この審査趣旨からの引用にて回答とさせてください。

“ それ(=「任那の調」)は、いわゆる任那滅亡後、倭が南部伽耶地域に依存してきた先進的な物的資源の喪失を回復しようとしたものとみる。ついで、その物的資源は、この段階においてはもはや鉄ではなく、南部伽耶地域さらには新羅で多く産出し、百済では豊富でない金銀銅の金属鉱物資源であったことを詳細に論証し、倭におけるその必要性は、造寺・造仏、造宮、冠位衣服制の整備などに由来すると説く。 ”

ところで、大黒丸様は「文化の流入に関しても、小野妹子遣隋の頃とは異なり、すでにかなりの知識が持ち帰られており、「何が何でも」という状況にはなかったと思われる」と言われますが、冊封の危険を冒してまでも唐への遣使をすべきではないという文脈において「何が何でも」という状況にはなかった、とはいえますが、ベースにある先進知識への欲求はつねに「何が何でも」という状況であったものと私は考えています。

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