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大化改新の方程式(160) 中大兄は淵蓋蘇文に蘇我入鹿の姿を重ね合わせたか

乙巳の変の背景(1)~女帝不可 大化改新の方程式(145)という記事で私は、以下のように述べた。
(642年)2月倭国で皇極女帝誕生、7月百済・義慈王による新羅親征開始、10月高句麗にて淵蓋蘇文(えんがいそぶん)によるクーデター勃発――おそらくこれらのうち1つでも欠けていたら、その後の倭国・日本の歴史は大きく変わっていただろう。
そして、最初の2つの出来事(皇極女帝誕生と義慈王親征)が、歴史の歯車を大化改新へと動かしていくのである。
おそらく通説の立場にたてば、最後の一文は大いに疑問であろう。
ここであげた3つの出来事のうち、高句麗での淵蓋蘇文のクーデターがもっとも乙巳の変の背景を語るにはふさわしいからだ。
すなわち、権力を一手に握るため王殺しという手段に訴えた宰相・淵蓋蘇文に、“大臣”蘇我入鹿の姿を重ね合わせた中大兄皇子や中臣鎌足たちが、大王家の行く末を憂え先手をとった、というわけだ。
さらに言えば、淵蓋蘇文が権力を欲したのは対唐戦に向けて国論を1つにするためだったが、倭国においても唐の脅威への対処法をめぐる政争が背景にあったとみれば、ますますもって淵蓋蘇文のクーデターのインパクトは無視できないものとして映ろう。
なお、この見解の場合、日本書紀にいう「韓政に因りて」を拡大解釈して、乙巳の変の背景として唐の脅威への対処法をめぐる政争があったことの証拠としている。

ちなみに、百済・義慈王が新羅親征開始の前年(即位年)に貴族を多数追放しているのも、国王に権力を集中させて唐の脅威に機動的に対処していこうとする1つの解決策とみなすことができる。
迫りくる唐の巨大な影が百済で、高句麗で、そして新羅では(数年遅れて)毗曇の乱として、凄惨な政変を惹起している時期に、倭国ではなんの動きもなかったはずがない――。

私ももちろん、こうした朝鮮半島の鳴動が倭国にとってまったくの対岸の火事だったと言うつもりはない。

ただ、程度の問題かもしれないが、これに関して私は常々疑問に思っていることがある。
1つ目は、当時の朝臣たちは蘇我入鹿にどこまで淵蓋蘇文の姿をみていたのか。
2つ目は、当時の倭国では唐の脅威をどこまで現実的なものと感じていたか。

1つ目については、私の見解は明らかだ。
蘇我入鹿が皇極女帝の寵臣だったとする私の説では、彼女の“興事”を強権的にサポートする蘇我父子への畏怖や不満があったとしても、蘇我本宗家が大王家に取って代わる野心を抱いていると危惧している朝臣はいなかった、という回答になろう。

大化の新政権において大臣職を左大臣(阿倍倉梯麻呂)と右大臣(蘇我倉山田石川麻呂)に分けたのは、帝位をうかがうほどに一大臣に権力が集中しないようにするためとみることもできるが、私はむしろ新政権内において、すでにして石川麻呂に対する警戒心があった証左とみておきたい。
あくまで推測だが、石川麻呂の上に倉橋麻呂をたてることを皇極女帝こと宝姫王が譲位の条件としてあげたということも考えられよう。

いずれにしても、私見にたてば、入鹿殺害後、中大兄が皇極天皇に奏した「入鹿が帝位を傾けようとしている」というセリフは後世の創作ということになる。


テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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