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大化改新の方程式(161) 倭国は唐の脅威をどこまで現実的なものと感じていたか

前回あげた2つ目のポイント、当時(皇極期)の倭国では唐の脅威をどこまで現実的なものと感じていたか、について私見をのべたい。

まず、唐が倭国に攻めてくるかもしれないという危機感は、皇極期の朝廷にはなかっただろう。
唐が640年に高昌国を滅ぼし西域への版図拡大にひと段落つけて以降、東方の高句麗との関係に緊張感が高まるなか、642年の政変で対唐強硬派の淵蓋蘇文が独裁権を確立したことで、一触即発の事態になっていたのはたしかだ。
とはいえ、唐が倭国を攻めるとすれば、まずもってその高句麗を滅ぼすしかなく、その後、百済、新羅を従えてはじめて倭国攻略の足掛かりがつかめるのである。

では、そうまでして倭国を支配下におくことに唐にとってどれだけの意味があるのか。
大陸側からみて倭国の背後は海ばかりで、版図拡大に魅力的な地域があるとは思えない。さらに、黄金の国“ジパング”と呼ばれたのはずっと後の話で、当時の日本列島では金はおろか銀も銅も産出していない。

むしろ倭国の価値は朝鮮半島の背後にあることであって、遠交近攻の外交原則に照らせば、倭国が半島諸国への牽制になるかぎり、倭国と事を構えるのは得策ではない。
607年「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」と無礼な国書をもたらした倭国に隋帝が激怒しながらも答礼使を遣わしたのは、そうした倭国の価値を認めていたがゆえであろう。

そして、倭国朝廷はこうした自らの地政学的な価値は十分把握していたと私は考えている。

加えて、推古期後半から舒明期にかけて帰朝した多くの遣隋留学組の報告に基づき、徳を慕って朝貢を行う周辺国を唐が無条件に攻め込むことはないという認識もあったろう。
おそらく遣隋留学組からは推古31年(623年)に帰朝した恵日らがいうがごとく「中国とは常に通交すべき」といった提言が多く寄せられていたにちがいない。

したがって、当時の倭国朝廷における最重要の外交課題は、いかにして唐との通好を再開するか、ということではなかったか。
もちろん、これは単に使者を送ればすむという問題ではない。
倭国の対唐外交においては、632年の遣唐使の失敗によるトラウマがあったからだ(詳しくは、632年のトラウマ(1) 大化改新の方程式(70)から4回にわたって展開した記事を参照)。
いかにして冊封をうけずに唐との通好を開始するか――倭国が唐に対して直面した課題とは、軍事的な脅威への対抗ではなく、通好再開への糸口の模索であったといえよう。

そして、まさに唐の軍事的な脅威の前に鳴動する半島情勢が、この難題を突破するチャンスとなると考えた男がいた――その男こそ640年に帰朝したばかりの高向玄理こと高向黒麻呂である。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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