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大化改新の方程式(165) 押使・黒麻呂が通った「新羅道」

654年、押使・高向玄理(黒麻呂)をのせた遣唐使が、「新羅道」を通って唐に向かった。
653年の第2次遣唐使派遣から1年足らずのことだ。
この第3次遣唐使には、なぜ矢継ぎ早に2年続けて遣使したのか、黒麻呂が任命された「押使」とはどういう任だったのか、第2次遣唐使と同じく留学生・留学僧が多数乗船していたのか、といった多くの謎がある(と私には思える)が、前回話題にした党項城にからんで、ここでは黒麻呂たちが通ったとされる「新羅道」についてみてみたい。

この「新羅道」も、私にとっては謎のひとつだ。

岩波文庫の『日本書紀(四)』をみると、「新羅道」の注釈として「遣唐使の北路のこと」とある(p.327)。言うまでもなく、この「北路」とは朝鮮半島西岸を北上するコースのことだ。
そして、遣唐使を扱った一般向けの本でも、第3次遣唐使の入朝ルートについては、おそらく例外なく、「新羅道=北路」として解釈していて(『遣唐使の光芒』森公章p.19、『遣唐使』東野治之p.59、『遣唐使全航海』上田雄p.56)、何の疑問もないようにみえる。

しかしながら、わざわざ日本書記が「新羅道」といっている以上、新羅が通常遣唐使を送る際に使用するルート(半島内陸を北西に横断して党項城に至り、そこから海路、山東半島を目指すルート)を使ったとみるほうが自然なのではないか、と私は思う。

「新羅道=北路」という解釈で登場するルート図では、朝鮮半島西岸を北上し新羅領の党項城に立ち寄って黄海を横断することになっている。その意味ではたしかに「新羅道」ではあるが、第3次遣唐使の派遣された654年はまだ百済は健在である。
前回見たように、新羅が党項城という黄海に面した拠点を確保できたからこそ、中国王朝への安定的な通交が可能になった。しかるに、百済領の沿岸に沿って朝鮮半島西岸を北上するコースをもって「新羅道」といえるのであれば、新羅はこのルート経由でもっと早い時代に中国への通交を確立し、中国王朝からの冊封を受けていただろう。

もちろん、日本書紀編纂時にはすでに朝鮮半島全体が新羅の領土であったので、どのコースもすべて「新羅道」といえるという解釈も成り立つかもしれない。
であれば、もっと頻繁に登場してもおかしくないであろう。
だが実は、日本書紀において中国への遣使ルートについて「新羅道」と呼称しているのは、この第3次遣唐使だけだ。

あるいはまた、倭国使節に随伴している新羅船を百済や高句麗が襲うことはないので、654年当時も、朝鮮半島西岸を北上し無事党項城に入ることができた、ということできよう。ただ、そうした特殊ケースをもって「新羅道」というのは無理があろう。

以上から私は、黒麻呂ら第3次遣唐使一行は朝鮮半島内陸を北西に横断して党項城に至るルート、すなわち新羅が通常使用する「入朝する道」をとったとみている。

そういう視点でみると、第2次遣唐使派遣の3年前、650年(白雉元年)に安芸の国にて建造させた百済船が2隻だったことと辻褄が合う。
すなわち、「東シナ海を大編成の使節を乗せて航行するために用意された百済式の大船」(『遣唐使』東野治之p.60)は、当初から2隻で計画されていたのであり、第3次遣唐使のための船は、おそらく北九州と朝鮮半島南部の間を往来するのに使用する従来の船舶であったと解釈できるわけだ。

第3次遣使船の構成が第2次と同じく2隻であるので、何となく第2次と同規模のものを想像してしまうが、第2次では大使・副使が2組存在する一方、第3次では1組だけだ。おそらくそれほど大所帯の編成ではなかっただろう。
また、第2次の1組が往路にて遭難したため急遽第3次の派遣を安全なルートで組み直したという説もあるが、もともと遭難を想定したうえでの2組構成の遣使であったならば、もう1組の状況がはっきりするまでは新たな編成を行うことはないはずだ。

とすれば、黒麻呂が率いる第3次遣唐使は、第2次とはまったく別の任務で、もともと「新羅道」を通って派遣されるべく組織されたものと解するべきなのではないだろうか。

そして、その任務の謎を解く鍵が日本書紀に残されている。第3次遣唐使が「留連(つたよ)ふこと、数月(あまたつき)」かけて山東半島に到着したと語っているところだ。つまり道草をくっていたのである。
北路と言われるルートにおいて、後の南路のように風浪に妨げられて北九州からの出立が大きく遅れてしまうほど月日をかけて航行するような地点があるとは思えない。

とすれば、黒麻呂らが道草をくっていた場所は、どこなのか。
彼らが新羅が通常使用する「入朝する道」をとっていたとすれば、答えは明らかだ──その道のスタート地点である新羅の王都・徐羅伐(ソラボル、現在の慶州)以外にないだろう。

では、黒麻呂は そこに“留連ふて=長く滞留して” 何をしていたのだろうか。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

「道」の問題

 れんしさんのおっしゃるように、中国王朝への「道」の問題は、倭国にとって大変大きな課題であったと思います。特に7世紀に入ってからは、その「道」を確保するための半島各国との友好確保といった面が大きかったように思えます。
 新羅にとってもそれは国の命運を左右しかねない大問題であったはずで、それゆえに、敵対する百済や高句麗を通らず黄海に直接船を漕ぎ出せる地点の確保が喫緊の課題であったのでしょう。
 それにしても、黒麻呂が「新羅路」を通って行ったと書紀に明記されており、それ以外の遣唐使にはそれがないことには気がつきませんでした。それが書紀編者の意志であったとすれば、れんしさんのおっしゃるように、黒麻呂の任務がどのようなものであったのか推測する手掛かりになるかもしれませんね。
 いずれにせよ、黒麻呂の遣使は、前の遣使が戻ってきていないうちに派遣されていることに加え、押使黒麻呂の客死もあり、何か非常に不自然な感が否めません。そもそも「押使」という地位自体、直前に送った遣唐使の「上をいく」意図が透けて見え、その間の倭国での緊急事態発生を感じさせます。

 ところで、私の書いた「皓月」の中に、若き日の黒麻呂と金春秋が船に乗って唐に向かうシーンがあるのですが、あれは「ヤラセ」です。本来であれば陸路をとり、それこそ党項城のあたりから船に乗るのが新羅ー唐ルートだったはずなのですが、どうしてもあそこから船に乗せたかったので。船出のほうが、なんといっても絵になりますしね。かといって、国王に党項城まで御足労いただくわけにもいかなかったので。……と、ツッコまれる前に自ら白状しておきます。くっすん。

Re: 「道」の問題

梅前さま

久々のコメントありがとうございます。

実は、中国王朝への「道」、とくに北路については、常々疑問に思っていたのです。

北路のルートをみると、倭国の船が最終目的地である中国沿岸に接岸するのは可能なような気がします。
とはいえ、今回のような「新羅道」では、北九州から新羅までは和船で行ったとしても、当然、党項城からは新羅の船にのります。いわば新羅船をチャーターしているわけです。
おそらく半島西岸を北上するルートも実は、途中で百済の船をチャーターしてから向かったケースもあったのではないかとも思えてきます。小野妹子たちが隋との行き来をすべて和船で行ったのはどこにも書いてないです。
そう考えると、隋への留学生をたくさん送りだしても、迎えの船を出さなかったのは、もともと中国まで行く和船はなかったからだという解釈も成り立つでしょう。つまり、帰りは百済や新羅に便乗にして自前で算段して帰ってこい、と。

いずれ取り上げたいと思っていますが、南路の開拓はそういう文脈でとらえ直す必要があるのではないか、と思っています。

ただ、私の考えはあくまで仮説にすぎません。党項城が確保されてさえすれば、内陸路でも、南回りの海路でも新羅の使節は無事に党項城でワンバウンドして入朝できたのかもしれません。
そうであれば、「皓月」のあのシーンは決してありえないものではないはずです。

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