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大化改新の方程式(166) 二人の新羅女王の死に居合わせた男

前回、高向玄理(黒麻呂)ら第3次遣唐使の一行が新羅の王都・徐羅伐(ソラボル、現在の慶州)に長く滞留したのではないかと推測した。
日本書紀によれば彼らの出立は654年2月である。また、「或る本に云わく」として5月という記録もある。
もし前者ならば、彼らは同年3月中には徐羅伐に到着していたとみていい。

これが事実だとすると、第3次遣唐使の一行は、新羅にとって一大事件に遭遇していたことになる。すなわち、まさにこの年のこの月、新羅・真徳女王が崩御しているのだ。
そしてこの後、金春秋が即位し(武烈王)、5月には唐から使者が派遣され、「開府儀同三司・楽浪郡王・新羅王」に封じられている。

黒麻呂たちはその一部始終を文字どおりリアルタイムに見聞したにちがいない。
であれば、彼らが徐羅伐に長く留まっていたことの理由も判然とする。すなわち、一連の行事が終わるまで足止めされていたわけだ。

ところで、もし黒麻呂が真徳女王崩御の際に徐羅伐に滞在していたとすると、彼は新羅の二人の女王の死に居合わせたことになる。
もう一人の女王とは、言うまでもなく、真徳の一代前の善徳女王だ。

日本書紀によれば、大化政権発足後国博士に任じられた高向玄理こと高向黒麻呂は、646年9月新羅に渡って「任那の調」の廃止という倭国外交の一大転換となる交渉をまとめた後、翌647年(時期不明)に金春秋をともない帰国している。
この間、やはり新羅では一大事件が勃発している──毗曇(ピダム)の乱である。そして、この乱のさなか、善徳女王が死去している。
ここにも、黒麻呂がいた、のである。

黒麻呂はこの乱になんらかの関わりがあったのではないか? 当然ながらフィクションの世界では素通りできない出来事だ──『皓月』(梅前佐紀子)しかり、『青雲の大和』(八木荘司)しかり。
もちろん私も黒麻呂がこの乱とは無関係であったとは思わない。ただ、乱の経過にどのように関与したかはフィクションの世界にまかせるとして、これまで述べてきた私の黒麻呂像を前提とした場合、彼が乱勃発の遠因となったことはまちがいないと私は考えている。

そして、このことは真徳女王崩御の際に黒麻呂が居合わせたことにも少なからず絡んでくるのだ。
次回以降、この点をさらに展開してみたい。


テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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