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大化改新の方程式(167) 新・毗曇の乱と黒麻呂

前回私は、高向玄理(黒麻呂)の訪羅が毗曇(ピダム)の乱の遠因となったとしたが、そう言い切るにはそれなりの説明が必要であろう。

言うまでもなく、私が想定する高向黒麻呂は、倭国において「女帝不可」を旗印にクーデターを演出した張本人だ。
その思想は厩戸皇子の息子・山背大兄皇子を滅ぼすきっかけともなった(上宮王家滅亡事件は倭国版「毗曇の乱」だった 大化改新の方程式(112)および続・上宮王家滅亡事件は倭国版「毗曇の乱」だった大化改新の方程式(113)参照)。

一方、643年新羅・善徳女王が百済の侵攻に耐えきれず唐に援助を乞うたとき、唐帝・李世民から「婦人が王であるゆえに他国に軽んじられる」と揶揄され、女王を廃し唐の王族を新王として立てるよう迫られた屈辱は、新羅臣民に強く刻み込まれたであろう。
百済や高句麗からの攻勢で苦境にたたされるたび、李世民の言葉が思い起こされたにちがいない。それは貴族層を中心とした反女王勢力を結束させるに十分であった。
なお、唐帝のこの発言を発端に新羅国内を2分する争いが生じ、後に反乱を起こす毗曇たちは唐の王族を新羅王に奉戴する勢力であったとみるのは見当違いであろう。争いがあったとしてもそれはあくまで女王の是非であって、唐の王族を新羅王に据えることは国辱でこそあれ、いずれの勢力にとっても選択肢にはなかったとみるべきだ。

そして、「女帝不可の思想」をもとに結集する毗曇らにとって、倭国での政変は決して他人事ではなかったはずだ。
しかも、そのクーデターの首謀者が高向黒麻呂なのである。

黒麻呂は32年ぶりに倭国に帰朝するにあたり新羅経由で戻っている。おそらく金春秋のみならず、毗曇とも面識を持ったにちがいない。
私の想定どおり、乙巳のクーデター派がもともと親新羅的であったのはこの黒麻呂の存在ゆえであったとするならば、この帰朝途上の新羅国内において、黒麻呂は金春秋や毗曇たちと今後の国のあり方について意見交換をしていたであろう。
その黒麻呂が、帰国後まもなく誕生した倭国朝廷2番目の女王(皇極天皇)に異を唱え、「女帝不可」のキャンペーンを展開したあげく、早くも645年にはクーデターを画策して女帝を排除してしまったのである。

倭国でのこの政変劇は、毗曇らにとっては衝撃的なニュースであったはずだ。
倭国に先を越されたという焦燥が、親新羅的な方針を打ち出した黒麻呂ら新政権と対等につきあっていくには、新羅でも自国の女王を廃すべきであるという意識をより強くしたことは想像に難くない。

そして、その黒麻呂が646年、倭国新政権の全権大使として新羅を訪れたのである。


<追記>
今回「毗曇の乱と黒麻呂」というタイトルでアップしたが、実は、過去にまったく同じタイトルの記事をあげていた。(そうした記事を書いたことは覚えていたが、恥ずかしながら、タイトルまではすっかり忘れていた…)
内容もほぼ同じだが、その後の展開はかなり異なる。
いずれにしても、同じタイトルがあるのはおかしいので、こちらは「新」とした。


テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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