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大化改新の方程式(170) 続・『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』からの示唆

前回私は、「648年倭国が新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせたケースは、外交儀礼上どのような意味をもつのか?」という自問への回答が、『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』(河内春人)にあると述べた。

少々長くなるが、該当箇所を引用させてもらおう。
中国の遠方の国が中国に朝貢する際に、その交通路上にある別の国が介在することを重訳(ちょうやく)という。中国に接していない遠方の異民族が中国に隣接した国・民族を媒介として来朝することを「訳を重ねて」到来したものとして、中華思想に基づいて理解するのである。こうした考え方を利用して周辺国がさらにその周辺を引き連れて中国と外交する形式は古代には多々見られるものであり、「重訳外交」と称すべきものである。(p.19)
そして、377年に新羅が初めて中国(華北の前秦)に使者を派遣した際、高句麗に随伴して朝貢したことについて以下のように解説している。
高句麗が介在した新羅の前秦への朝貢は、媒介する高句麗にとっても2つの政治的な意味を持った。1つは前秦に対して新羅という新たな外国を引き連れることで前秦皇帝の徳を称揚し、前秦と高句麗との間に円滑な外交を展開することが期待できる。(中略)もう1つは、高句麗が新羅を従属させる大国であることを前秦に示すことである。高句麗の対外的な立場を主張することにもつながる。(p.18)
「重訳外交」の目的は、「円滑な外交関係の構築と大国としての威信の誇示の両立」(p.41)であったというわけだ。

とすれば、648年倭国が新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせたケースは、この「重訳外交」と言えるのではないか。
もちろん、倭国の使者が随伴していないこと(倭国から使者が派遣されていない理由については別に考察する予定)をもって「倭国は新羅を“使い走り” にした」ということもできよう。実はかつて私はそう考えていた。
しかしながら、孝徳天皇がどのような思惑をもっていたとしても、本家中国から見れば「重訳外交」以外の何物でもない。ましてや32年ものあいだ中国に滞在していた高向玄理(黒麻呂)がそのことに無知であるとは到底思えない。

632年以降音沙汰のなかった“絶域”倭国が中国皇帝の徳を慕って上表する媒介役を新羅が果たすことで太宗の歓心を買い、同時に、倭国が新羅の従属国とは言わないまでも、新羅と親密な関係にあることを対外的にアピールする──。648年の倭国の上表の件は、646年の「任那の調」の廃止と647年の「人質」金春秋の来倭(倭国への援助要請)と同じく、新羅を一方的に利するものであったわけだ。
およそバーターの成立する余地はない。

では、これほどまでに新羅に譲歩を重ねることで、倭国はいったい何を得たのであろうか──。再びこの疑問に逢着する。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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