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大化改新の方程式(171) 難波宮建設と金多遂

申し訳ございません、すっかりご無沙汰してしまいました。
以前は1か月間放置後の広告表示に躍起になって対処していましたが、このたびはいつのまにやら1か月どころか3巡目にはいってしまっています。
ご心配をおかけしましたが、入院していたとか、身内に不幸があったとかいうわけではありません。
実は、過密スケジュールの仕事が重なり、持ち帰りの在宅作業も増え、更新されないブログを他人事のように眺めながら、予定のない休日は自宅でぐったりとしていました。
この間、大和文化会の3年目の会員継続申し込みを(勘違いもあって)失念する始末。
唯一の救いは、今月末の両槻会の定例会参加申し込みにはなんとか間に合ったことです。
なおも多忙な日々は続きますが、やっと終わりが見えてきましたので、このあたりでブログを再開させていただきます。
これからまたよろしくお願いいたします。



前回見たように、646年から648年の一連の外交上の出来事は、新羅を利するものばかりであった。
その見返りに、倭国は何を得たのか。

それを知るためには、当時の倭国すなわち大化政権が何を一番欲していたかを考えてみればよいはずだ。

軽皇子一派による政権奪取後半年足らずのうちに、さまざまな方針や政策が表明され、実行に移されたが、難波遷都はすでに皇極期末からアジェンダとしてあがっていたとされる懸案事項だった。

652年に完成した難波長柄豊崎宮は「その宮殿のさま、ことごとにいうべからず」と評されるほどに威容を誇った。この王宮の画期性は、唐長安城太極宮の太極殿の儀礼空間を模した区画(内裏前殿の区画)を創出した点にある(『古代の都はどうつくられたか』吉田歓 p130)。内裏前殿は後の藤原宮大極殿の前身といえる宮殿だ。また、その設計手法には、内裏前殿の柱間に工夫を凝らすなど大陸的な要素が盛り込まれているという(『復元 前期 難波宮』大阪歴史博物館 p8)。

ここで疑問なのは、そうした設計思想や設計手法、建築技術を当時の倭国首脳部がどのように入手したか、ということだ。

それまでの百済との交流や渡来人のネットワークでそれなりの情報はあったろうが、それが、まったく新しい宮城の建設に応用できるほどに体系的かつトレンドにそったものであるかどうかは不確かであったろう。

たしかに、新政権の国博士に任じられた僧旻や高向玄理(黒麻呂)が長い年月をかけて積み上げた知見・知識は大いに期待されたであろう。だからこその「国博士」なのだ。
しかしながら、黒麻呂が南淵請安とともに帰朝したのが640年、僧旻にいたっては632年である。また、大陸滞在が長いとはいえ、黒麻呂や請安はあくまで留学生・留学僧なので、640年ごろの宮城の有り様を実見できるチャンスはなかっただろう。
黒麻呂がなんらかの官位を得て唐朝に出仕していたとしても、皇城はともかく宮城の構造をどこまで把握していたかは疑問である。

とすれば、大化元年12月においてすでに難波宮建設プランに着手していた大化政権にとって(『古代飛鳥の都市構造』相原嘉之 p123)、唐長安城の宮城内の体系的かつ最新の情報をもっとも手っ取り早く入手できるルートといえば、頻繁に唐に使節を派遣している新羅の朝廷しかありえなかったろう。
孝徳政権ではその発足前から黒麻呂という親新羅的な人物がブレーンであったこと、しかも、後でみるように、任那問題の処理で百済とはほぼ絶縁状態であったことから、新羅とは与しやすい状態であったにちがいない。

そういう視点にたつと、新羅を利するものばかりであった646年から648年の一連の外交上の出来事に続く649年の以下の記事について、これまでとは違った解釈がみえてくる。

【2月】新羅の金春秋、唐から帰国
【5月】倭国、新羅へ遣使
【この年】新羅、金多遂を「人質」として倭国へ派遣

金春秋が唐に滞在中の記事(『三国史記』新羅本紀)に「春秋が国学(国立の学校)での祭礼や講義・討論などを見たいと願い出たので、太宗はこれを許した」とある。当時の政治哲学である儒教の祭礼や統治理論の最新の知識に触れる機会をえている。中国の都城プランの背後に儒教の礼制があることはいうまでもない。
その金春秋が649年2月に帰国後、5月には倭国から新羅への使いがでている。おそらく金多遂が来倭したのは、この倭国使が倭国へ戻る際に同伴したか、あるいは、その直後であろう。
金多遂の使節団は、総勢38名で組織された。うち10名が「才伎(テヒト)」とされているが、彼らが難波宮建設をサポートする建設技師ではなかったか。実際、彼らが到着した翌年には、賀正の礼を行えるほど難波長柄豊崎宮中枢部の造営がすすんでいる(『古代飛鳥の都市構造』相原嘉之 p122))。新羅の技師たちのノウハウは、王宮の体裁を整えるための突貫工事にすぐさま応用されたにちがいない。

もちろん、金春秋が倭国のためだけに唐で最新知識に触れようとしたというつもりはない。実際、倭国の難波宮建設と軌を一にするように、新羅でも唐風の元日朝賀の礼が始まったのが651年で、そのための儀礼空間である朝元殿(倭国の大極殿に相当)一郭が創出されている(『古代の都はどうつくられたか』吉田歓 p182)。
さらにこの後、新羅の唐化は加速度を増し、倭国の「唐真似路線」を超え、「唐従属路線」へと大きく舵をきっていくことになる。これがやがて孝徳政権の命取りとなるのだが、それについては後日改めてとりあげてみたい。

さて、ここで新たな疑問が生じよう──それほどまでに唐の宮城の様子を確認したかったのならば、新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせるようなまわりくどいことをしないで、黒麻呂自身が新羅の使節に同伴して入唐すればよかったのではないか?

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

コメント

あらま!

久々にのぞいてみたら、なんと!
更新されてるじゃぁあ~りませんか!
よく頑張りました!

できれば「前回までのあらすじ」がほしかったなぁ、なんちゃって。

Re: あらま!

お久しぶりです。

そして、今度の土曜、よろしくお願いいたします。
さぞや準備で忙しかったでしょう。

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