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大化改新の方程式(172) 孝徳はなぜ早々に遣唐使を送らなかったのか

前回最後に提示した疑問に答える前に、前回の説明を補足しておきたい。

日本書紀によれば、649年5月の遣新羅使に「掃部(かにもり)角麻呂」という人物がいる。掃部(掃守)氏は宮殿の清掃・鋪設に奉仕した一族で、宮殿の内装装飾に精通していたとみられる。であれば、当時は難波宮建設に従事していたにちがいない。そうした人物がこの時期(金春秋が唐から帰国したタイミング)に新羅を訪れ、その後、金多遂が多くの技術者を引き連れて訪倭している事実は、当時の倭国の対新羅外交の主眼が難波宮建設のための技術導入であったという証左と言えるだろう。


さて、前回提示した疑問とは、結局は「唐の最新情報を獲得することが目的であったのならば、どうしてもっと早く遣唐使を派遣しなかったのか?」ということにつきよう。
648年新羅の遣唐使に託して唐帝への上表文を届けさせたのが事実であれば、そうはせずに、直接、高向玄理(黒麻呂)自身が倭国の使いとして、(6年後にすることになるように)“新羅道を通って”唐に渡るという選択肢もあったはずだ。

ここにも倭国外交のジレンマが垣間見れる。

かなり以前になるが、「対等外交」のためのエビデンス 大化改新の方程式(54)という記事において私は、このジレンマを「大唐コンプレックス」と呼び、「隋や唐の先進的な文化や制度に憧れる一方で、冊封を忌避したいという政策的な葛藤」と定義づけた。
少し長くなるが、そこでの解説を引用しておくと…
中国王朝と通交関係(基本的には朝貢関係)を確立するために安易に中国王朝の冊封を求めることは、朝鮮半島諸国に対する倭国の立場を不利なかたちで固定化してしまいかねないというリスクが常に存在するということである。

それゆえ、ここに倭国特有の外交戦略が生み出される。すなわち、中国王朝と通交するにあたっては、あくまで「対等外交という姿勢」をもってのぞみ、中国王朝の冊封を受けず朝貢を続けることで、中国王朝の冊封下にある朝鮮半島諸国に対しては優位なポジションを確保することが外交上の最重要課題となってくるわけだ。

もちろん口先だけで「対等外交」を唱えるわけではない。そこになんらかのエビデンスが必要となる。あるときはそれが都城や直線道路のようなハードであったり、またあるときは冠位制度や律令のようなソフトであったりした。ただ、それを隋や唐から求められたわけではない(もともと隋や唐にしてみれば倭国と「対等外交」するつもりはまったくない)。外部の刺激を受けて自分でつくったゴールにひたすら邁進する、というとなんだか近現代のこの国の姿を彷彿とさせるが、そういう“必死さ”が当時の倭国にもあったのではないだろうか。

極端な言い方をすれば、100年にわたって繰り広げられてきた「対等外交」のためのエビデンスづくりが、振り返ってみれば、律令国家建設への試行錯誤の歴史そのものだったのである。
4年以上も前にアップした記事とはいえ、上記の考えは基本的に今も変わらない。
ただ、「対等外交」というのは言い過ぎであって、それはあくまで令制上の仮想にすぎない。実際には、中国によって朝鮮諸国より上位の国として認知される“大国”を目指した、というべきだという指摘を後日いただいた。たしかにそのとおりだが、それを冊封なしで実現できるのであれば、あくまで倭国側の認識としては、“対等”と言っても差し支えないだろう。

そして、やっかいなことに倭国にはかつてこれを成し遂げたという成功体験があった。
言うまでもなく607年の遣隋使だ。倭国の政治スタイルを「無茶苦茶やな」と隋帝に全否定された屈辱をバネに、ハード・ソフト両面での国づくりを慣行、後年史書(『隋書』)において「倭国は新羅や百済から大国として敬われている」と言わしめるほどの外交的な成果をものにした、あの「厩戸マジック」である。(詳しくは、厩戸マジック 大化改新の方程式(63)および続・厩戸マジック 大化改新の方程式(64)参照) 

この607年の遣隋使の成功体験は、その後の倭国の外交のみならず国家建設の方向性を決定づけたと私は考えている。

そして、もう1つ、当時の倭国首脳にとっての外交認識は、「中国に遣使すれば、答礼使がやってくる」というものであったはずだ。
これまで何度も触れてきたことだが(厩戸が描いたシナリオ 大化改新の方程式(61)唐使を祭祀都市・飛鳥へ 大化改新の方程式(138))、遣隋使・遣唐使の300年に及ぶ歴史のなかで中国からの答礼数が3回しかないことから、「そう易々と答礼使はやってこないものだ」と当時の人々が考えていたとみるのはミスリーディングだ。実際には、607年の遣隋使には裴世清、630年の遣唐使には高表仁が倭国に派遣され、前者はレジェンドとして、後者は黒歴史として、人々の記憶に深く刻まれ、語り継がれていたであろう。少なくとも、大宝の遣唐使に至るまでの倭国・日本朝廷における認識は、「遣唐使を送れば、答礼使がやってくる」であったはずだ。

唐の文化や制度の情報、文物、仏教の知識を獲得するために遣唐使を再開したいが、その答礼使に“大国”と認知されるだけの都城、制度、儀礼を整えるには、まずもって最新の唐の情報を知る必要がある──このジレンマを解決するために黒麻呂が編み出した切り札が、新羅カードだったのだ。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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